2 崩れ牡丹、辻斬り狩り登場
ゆらり。と人影が見えた気がしたのだが、モモンガが頭にはてなマークを浮かべたとき、ピュッと空気の切れる音がした。
「罪人は滅する」
耳元でそう聞こえた気がした。誰だろうか、どこかで聞いたような声だ。
しかし、風と共に過ぎ去ったのであろう、その姿をとらえることは出来なかった。
否、出来るはずがなかった。
首を、斬られた──
首に違和感を感じたのだ。喉元から襟足にかけて一直線に冷たさが走り抜け、じわりじわりと温かさが後を追う。
過ぎ去った風は優しかった筈だ、けれど凄まじい殺気を放っていた。ある種の狂気。
刀を構える隙もなかった。
「どんな奴が俺を斬ったんだろうなぁ、顔を拝んでみたかったぜ」とモモンガは思った。
バシャッ。水を含ませた手拭いを勢いよく振ったような音がする。
音が、する。
音が、
背後で、
聞こえる。
モモンガは震える左手で恐る恐る自身の首に触れる。
「……ははっ、繋がってらぁ」
嫌な汗が瀧のように流れ出る。どくどくと全身で脈を感じる。
生きていることをこれ程までに実感させられたことがあっただろうか。
生への安堵、死への恐怖、
そして、
守れなかったことへの
「畜生!」
ドサッ。
──ゴンベエが狩られた。
踵を返し、前屈みに倒れるゴンベエの亡骸へ駆け寄る。
そこに下手人の姿は見当たらなかった。
「これは……」
モモンガは驚いた。ゴンベエの首の皮一枚が胴と繋がっているではないか。意図して残していることは明白であった。
首を斬るということは、振り下ろす際の刀の重さ、つまり重力に頼るものが大きい。勿論、骨に当たれば失敗だ。骨と骨のわずかな隙間を狙わなければならない。これだけでも相当の技術を要するが、立位ともなると格段にレベルが上がるとは容易く想像がつくであろう。歩く人間を背後から狙い、目にも止まらぬ速さでやってのけるというのだから、ぞっとする。
加えて、首の皮を一枚残すというのは、切腹時の話である。首の重さで体を前屈させ、開いた腹を見えないようにする配慮からきた介錯人の作法だ。しかし、今の場合、皮を一枚残すことに何の意味もない。これは、単なる技の見せつけであった。
「これが、辻斬り狩りかよ」
そう呟いた時だった。モモンガの間合いにギリギリ入らない程度の距離を保ちつつ、両脇を御用の提灯が照らす。
「貴様、辻斬り狩りだな!」
「神妙にお縄につきやがれ!」
この近辺を取り締まる十手持ちだ。身なりを見るに岡っ引きであろう。
透かさずモモンガは否定する。
「違うって!」
「やった奴は決まってそう言うんだよ!」
こりゃあ、ダメだ。力付くで逃げようか。とモモンガは思った。
その矢先、皺の寄った指が岡っ引きの肩を叩き、下がるように命じたのである。
姿を現したのは、黒紋付きを羽織った白髪混じりの同心だ。
話が通じる奴がいるじゃねぇかと一息つく。
「何やらワケがありそうだな。少し、話を聞かせて貰えるかな」
***
ガシャン。南京錠の音が牢屋に響く。
「何でこうなるんだよぉぉぉーーー!」
空高くモモンガの声が響いた。モモンガは牢の柵に飛びつくとガンガンと音を立てて揺らす。動物園の猿そのものだ。
ここは茅場町の大番屋。つまり、留置所である。町ごとに置かれている自身番も機能的には同じであるが、同心による詳細な取り調べが行われるのは大番屋であった。大の字が使われているだけあって、自身番よりも規模は大きい。
モモンガは通路を挟んだ向かいの牢に女がいることに気がついた。柵から降りると、ドカッと胡座をかく。
「お姉さん、何かしたの?」
モモンガの問いにカヨが顔を上げた。齢二十九のモモンガがお姉さんと呼ぶには幼い顔立ちであった。今どきの江戸の町娘にしては地味な色の着物であるし、足には血が滲んでいる。相当歩いた筈だ。
「何かしたように見えるの?」
「いいや、見えないから聞いてんだ」
モモンガがそう言うとカヨは顔を埋めて、か細い声で言った。
「……囮」
またか。とモモンガは言いそうになったが、止めた。顎に指を添え、考えるふりをしてみせる。
「囮だあ?ふーん、そう。あ」
「な、何よ」
カヨが顔を上げ、目を細めて不審そうにモモンガを見る。目の下の隈が酷い。
「辻斬り防止にまな板でも挟んでんのかなぁって思ってさ」
モモンガが目を見開いておどけて見せると、カヨの顔は恥ずかしさと怒りで赤みを帯びてくる。すると、カヨは立ち上がり、モモンガの牢のほうへ近づくと柵を力一杯握り締めて叫んだ。
「ばっかじゃないの!初対面で、しかもこんな状況で何言ってるのよ!この、セクハラおやじ!」
モモンガも立ち上がり、柵を握る。
「あんだとぉ?百歩譲ってセクハラは認めてやるが、おっさんだとは認めねーからな!それに、俺はまだ二十九だ。あと一年ある!」
「何そのボーダーライン!そういうところがおっさんじゃん!」
「はぁぁ?そんなこたぁねーな!そんなこたぁ、ねぇ!だってよ、この平成の御時世、三十からおっさんだって相場が決まってて、アラサーなんて言葉が出来て…アラサーって言うのはつまり…え、うそ、まじで!?」
モモンガの負けが決まったところだった。騒ぎに気づいた番人がやって来るなりモモンガに対して「騒いだら朝食を抜くぞ」と軽く叱責する。それを見ていたカヨはクスッと笑った。
深夜3時頃。
モモンガは折り畳まれた布団に背中を預け、後頭部で手を組み、月を眺めていた。こういう時は無性に煙草が吸いたくなるが、刀は勿論、名刺まで取り上げられてしまっては何もすることがない。
横を見れば通路を挟んでカヨの牢だ。
カヨは膝を抱えながらも起きている。考え事でもしているようだ。
「お前、寝たらどうだ」
「……そういうあんたはどうなのよ」
はぁ。モモンガから溜め息が出た。
「人がいると寝れない性分なんだよ。まあ、職業病ってやつだな」
だから、酒の力を借りてぶっ倒れるまで遊び尽くすのである。
「仕事してるの?」
カヨは驚いた。
「驚くことかよ。言っても、ほとんど依頼なんて来ないけどな」
「怪しい」
「いいから寝ろよ、顔酷いぞ。隈だけじゃねぇだろ」
隈だけじゃない。図星であった。
カヨは人探しに江戸へ来たのであるが、詳しい事情も聞かされぬまま、今はこうして牢の中である。
膝を抱えてうずくまっているのは、泣いているからだ。
カヨはせっせと布団を準備するとモモンガに背を向けて横になる。名も知らぬ男に翻弄されている自分に腹が立っていた。ここで寝たら負けな気がする、とカヨは思ったが、横になったことで蓄積された疲れが睡魔と化した。
「女が意地張るんじゃねーよ…」
眠りについたカヨが、モモンガの不器用な優しさに気づくのは、これから少し先の話である。
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