4 先生と呼ばれる男

おどろおどろしい夜空が広がっている。


江戸のにぎやかな町から離れた山中に、古びた空き家がある。六畳間の狭い部屋には、火の消された蝋燭が点々と床に転がり、火をつけていない新しい蝋燭が燭台に刺さっている。

部屋には、正座をして対面する男が二人。天井に空いた穴から漏れる月光を頼りに、お互い顔色を伺っているようである。

その正体は、遊幻町の前でモモンガに声を掛けた笠を被った怪しげな男たちだ。

笠を取った背の高いで細身の男は、どこにしまっていたのか、青白橡あおしろつるばみ色の長髪を1つに束ねていた。月明かりに照らされた部分が、光を反射して白く見える。


唾を飲み込む音が体に響くような、静けさ。


緊張感のある時間は長く感じるもので、先に口を開いたのは小柄な男だった。

「先生。屋敷も倉も既に焼かれてしまいました。しかも、棒貸しにまで目をつけられては、ここも時期に……」

膝の上で、ぎゅうっと握り拳をつくり、わなわなと震えている。

その様子を見つめる「先生」こと、対座した細身の男がそっと口を開く。

「出ていきたいのなら、止めはしません。先代が亡くなってから、門下はみな出ていってしまいました。こうなってしまっては、私にあなたを止めておく権利もない」

淡々と、冷たく言う。

「先生……」

「……」

それ以上は言わないようだ。

小柄な男は決心したように目付きを変えて、を見る。

「お世話になりました」

男は床に額をつけて、礼を述べた後、雑木林の中へ姿を消していった。

残されたは、何事も無かったかのように、至って冷静にその背中を見つめていた。

「……」


***


モモンガが釈放されてから丸一日が過ぎた朝。

ところは変わって粕壁宿。


日光や奥州を目指す旅人らが、旅籠から出立する時間はにぎやかだ。こうなると棒貸屋は忙しい。


「ヨウジン、ヨウジン、ゴヨウジン!旅のお供に用心棒!用心棒は要らんかね!」

棒貸屋と書かれた暖簾が掲げられている店先では、奉公人のコタロウが客寄せに歌を歌っている。声変わりもしていない、色白で細身の少年だ。

「よう。コタロウ!精が出るな!」

「コタロウちゃん、今日も元気ね」

近所に住む町人たちがすれ違い様に声をかける。

「はい!ありがとうございます!」

元気よく返事をするコタロウに、忍び寄る影がふたつあった。



その頃。帳簿を整理し終えた店長は、コタロウの歌が聞こえなくなったことを不審に思った。帳簿から顔を上げて外を見るや、サングラスの下に隠れた目をハッと見開いた。


コタロウが老人に声をかけられているではないか。


あの日のことが甦る。


***


これは、今から数年前のことだ。

コタロウはこの町で母親とはぐれ、迷子になり、泣きじゃくっていた。

「おっかぁ、おっかぁ」

破れた襦袢に痩せた体のコタロウ。道行く人は「迷子」や「捨て子」と言って、コソコソとしているが、誰も声をかけようとはしない。

そこへ、恰幅の良い息の荒いオヤジが「はぁ。はぁ。おじさんがいるから、大丈夫だからね。ほら、一緒に行こう」と、声をかけたその時、異臭を放つ足裏がオヤジの顔面にガッと勢いよく食い込んだ。


「くっさぁぁぁ!」

「いやぁ。すみません。さっき、うんこ踏んじゃって。ちょうど良いところにトイレットペーパーがあるなと思ったら、まさか人拐いだとは。ちなみに、うんこはマジで踏んだ」

モモンガが左腕にコタロウを抱えている。

この日、遊郭帰りのモモンガが自身番所の前を通った時「子どもを探している」と、顔面蒼白の婦人が涙を流しているのが目に止まり、コタロウを探しに来たのだった。

「おぇぇ」と吐き気を催しながらオヤジが走り去っていく。

モモンガはコタロウを降ろすと、コタロウの目線に合わせるようにしゃがみ込み、優しくも強さのある声色で話しかけた。

「おっかぁのところまで、お守りしますぜ。ご主人様」



番所にて再会を果たした母と子を見つめ、ふっと口角を上げて微笑むモモンガに母親は頭を下げた。

「ありがとうございます!ありがとうございます!なんとお礼をしたら良いか、お金なら借金をしてでも払います!」

借金取りにでも脅されているかのような様子である。それもそのはず、この母親はモモンガのことを耳にしていたのだ。大金に加えて酒と女を要求するような男であると。

モモンガは怯えながら頭を下げている母親の身なりをじっと見た。端切れを縫い合わせた浴衣。草鞋は磨り減り、骨張っている細く汚れた足に浮き上がる血管。その姿は、今は亡き母親を彷彿とさせるに容易かった。モモンガは眼帯の下にズキリと痛みを感じ、苦しい表情を浮かべるが、すぐに笑顔へ切り替えて

「まあ、出世払いってところかな」

と言った。

モモンガの思わぬ返答に、コタロウの母親は大粒の涙をこぼしながら「ありがとうございます」と言い、番所勤めの町人は「これがあのモモンガか」と目を疑う。

構わず、モモンガはコタロウに声をかけた。

「いいか、コタロウ。おっかぁを守れるのはお前だけだ。でかくなって、たくさん稼いで、おっかぁを笑顔にしてやれ。それが、出世払いだ。約束だぞ」


しばらくしてコタロウは棒貸屋へ奉公に出ることを望んだ。

モモンガは「なにも、うちじゃなくてもいい」と一度は断ったのだが、コタロウはモモンガを「先生」と呼び、すっかりなついてしまったようである。母親のことを思えば、棒貸屋なら安心だと判断するのも見当がつく。



***


「まずい、まずい」

店長は慌てる素振りは見せないものの、ささっと帳場を後にして、コタロウの元へ急ぐ。

暖簾を内側からくぐると、そこには白髪の気品あるお爺さんが立っていた。

「お客さん、ご用でしたら中でお聞きしますが」

と、店長が老人に声をかけた。

「わん!」

「わ、ん……?」

老人の足元に、毛並みの良い柴犬がいる。どうやら、この犬が返事をしたようだ。

キョトンとする店長に対し、老人は店長の特徴的な姿を見ても驚きもせず、穏やかな顔で言う。


「用心棒をひとり、お願いできますかな」


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