第49話 蜘蛛

 部屋中に香が充満してきた頃、セシリアがアリアの向かいにあるソファにゆっくりと座った。

 兄嫁になるセシリア。俺のいない2年の間の成り行きだから実感はまだない。二人の出会いから婚約までを知るセイヴァルはこの女を信頼している。

 少なくとも俺よりは。


 心なしかアリアの瞼が重くなってきたように見える。いつもの就寝時間はとっくに過ぎているんだから仕方のないことだが。

 セシリアが一瞬、俺の方を見た。


 予言を回避するという術が始まるのか、ゴニョゴニョと彼女は手を合わせ呪文を唱え始める。


 お行儀良く膝の上に組んだ両手はそのままに、アリアがソファに凭れ目を閉じていた。


 反射的に剣の柄を握り締める。


「ご心配なく。」


 こちらを見ることなくセシリアが言った。


「催眠作用のあるお香で眠っているだけですわ。」


「催眠作用?」


「ええ。

 呪術を効き易くするために。」


 呪術・・・・?


 ラグドール皇国に呪術師はいない。

 ただ、何処かの山奥に人目を忍んで暮らしているという噂はある。噂というか迷信だ。

 てか、あの迷信ってシャスラーのことじゃなかったのか?


「流石キャルロット様。お香は効かないご様子。」


 ・・・私の?何つった?

 チクリとうなじを刺す痛みに手をやる。振り返ると背後に潜んでいた蜘蛛と目が合った。天井へと伸びる糸にぶら下がる小さな蜘蛛。


 ────また虫かよ。


 うんざりしながら首の後ろを摩る。

 てか、コイツが噛んだのか?


 嫌な予感しかしない。


 蜘蛛を握り潰そうとするが、痺れる指先に力が入らない。

 セイヴァルに報せなきゃ。


「うふっ。」


 セシリアが立ち上がり、眼鏡を外した。

 ああ、やっぱりこの目は知っている。


 暗い森。烏の大群。目深に被った黒いローブ。


 ローブの奥の仄暗い瞳。


「お前は魔王の手下なのか?」


 情けないことにもう足にも力が入らない。

 後退りした壁に凭れたままズルズルと床にへたり込む。


「魔王?何のことかしら。」


 微笑みを浮かべるセシリア。


「私のキャルロット様。」


「・・・誰の俺だって?」


 これは声になっていただろうか。

 セシリアの顔を見上げる。

 その唇が何か言っているが、自分の呼吸だけが自棄に頭の中に響く。

 アリアは無事か?

 まだ眠るアリアの長い睫毛が震えている。


「愛らしいアリア様。

 美しい金髪に宝石の様な碧い瞳。透き通った白い肌。まるで御伽噺の世界から抜け出してきたみたい。

 誰からも愛されて何不自由なく穢れもない何も知らない可愛らしいお姫様。」


 セシリアの目が憎悪に満ちる。


「初めて会った時から気に入らなかったのよね。この小娘。

 おまけに私の物に色目を遣ったりして。」


「・・・よ・・・予言は・・・嘘だったのか?」


 痺れる舌で何とか言葉を発する。

 俺が喋れたことが意外だったのか、セシリアの眉間に皺が寄った。


「予言は本当よ。」


『泰平の世は終には滅び、嘆く皇女は混沌の血の海の中。絶望のままに息絶えるだろう。』


 頭の中で反芻する。

 セシリアが結い上げていた髪を解き、軽く指を通した。纏め髪しか見たことがなかったが、思ったより長い。


「現実にするために特別な呪術をかけて差し上げたけど。うふふ。」


「ラグドールに・・・呪術師はいない筈・・・だ。」


「そうね。私の先祖は遠い昔、呪術師狩りの標的にされたわ。でも、あの不思議な森に逃げ込んだ先祖は、何故か兵士や神官達の目を欺き生き延びることができた。そして、私達一族は表向き弱魔法の使える平民として生活してきたの。」


 コモンドールの洞窟といい、あの森といい、この国には理解し難い様な警戒の弱い場所が存在する。あの森なんかラグドール城からも神殿からもそう遠く離れている訳でもないのに。


 気付けば成長痛も頭痛もない。

 それだけ身体の感覚が無くなってきたってことか。息が苦しい。


 バサリという衣擦れの音に視線を上に向かわせてギョッとした。


 全裸の女が目の前にいる。

 薄暗い室内。豊かな長い髪が裸体の殆どを覆っている上に、霞む視界によってそれが良く見えないのがもどかしい。


 ───じゃなくて。


 これって一体どういう状況なんだ?

 暗い部屋に動けない俺とあられもない姿の兄嫁。そして眠らされた皇女。

 混乱した頭に大量の疑問符しか浮かばない。


「この日が来ることをどれだけ心待ちにしていたことでしょう。」


 跪いたセシリアがうっとりとした表情で俺を見る。


「ちょっ!?

 ちょっと待て!!何でこんなことすんだ!??」


 再び眉根を寄せてセシリアが俺の肩に手を伸ばしてきた。

 摘まんだ指先に俺を噛んだ蜘蛛がいる。


「もっと大きいコの方が良かったかしら。

 速効性はあるけど毒が足りなかったみたいね。

 でも、これ以上強毒だと不能になっちゃうし・・・。」


 蜘蛛を見つめながらブツブツ呟く。

 俺の話を聞けよ。まず。


「この布が邪魔ね。」


 あんなに俺が四苦八苦して外そうとした覆面も魔女の手に掛かればお手の物なのだろう。するりと固い結び目が解ける。


「近くで視ると本当に綺麗・・・。」


 完全に目がヤバい。

 拒否反応に全身が総毛立つ。何なら蕁麻疹でも出そうな勢いだ。

 このまま気を失ってしまった方がどれだけ楽かと考える。

 シナノが巻いてくれた黒い布が香の作用を浄化するフィルターの様な役目をしてくれていたことに今更気付いた。

 遠退いていく意識を、必死に保とうとすればする程に襲う睡魔。


「貴方にそっくりな赤ちゃんはどんなに可愛らしいのでしょうね?

 楽しみだわ。うふふふ。」


 待て待て!?赤ちゃんって?

 俺の全てはロザリオに・・・。


 貞操の危機にどうすることも出来ない。

 抵抗しようにも手足が動かせない。


 ・・・男よりはマシか・・・。


 ───って、諦めんのか?俺。

 自分の不甲斐なさに涙が出そうだ。

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