第三章 夢想

第三章 夢想

水穂は、ここのところ時間があれば布団でうとうとする生活であった。と、いうのも今年の夏が、40度近くまで気温が上がり、体に堪える日が非常に多かったためである。この時期になって、朝晩涼しくなると、夏の疲れが一気に出て、多かれ少なかれ体調は悪化することが多かったが、今年は特にそれが顕著であったため、しばらく養生するようにと懍から命令が出てしまった。とりあえず、彼の役割はほかの人材を連れてくるから、と言っていたが、この確保は非常に難しかった。まず、仕事内容が極めて地味であることと、そして製鉄所が偏見の持たれやすい場所であることのせいで、どこかの家政婦紹介所にお願いをしても、なかなか来てくれる人はいなかったのである。特に女性であれば、仕事場選びは結構うるさい時代でもあるから、一般家庭ならともかくも、製鉄所となると、なかなか来てくれそうな人はいないし、そもそも男性がこういう仕事をやりたがるかという事は、問題外である。

当初、仕方なく、自身で掃除などを試みていたが、慢性的なだるさもあってことごとく失敗し、吐いた血液のせいで廊下が余計に汚れることもわかったので、これはもうリタイアだと確信した。しかし人材不足で廊下が汚れっぱなしになっていき、ほこりがたまっていく様を見るのもまさしく苦痛だった。

そうなると、やっぱり人間ってのはそうなるようにできているのかな、なんて思ってしまう。杉三が、よく地獄にも階級があるが、天にも階級があるなんて口にしていたことがあるが、すべてのものはそうなっていて、もうやることもなすこともすべて決まっているのではないか。基本的に、一般的に育った若い女性たちは、掃除に美意識を見出して、それをかっこいいと思う人は減少の一途をたどっている。学校のせいとか社会のせいとか、いろんな説があるけれど、基本的にそういう事を考える必要のない階級だったからではないかというのが、一番近いと思う。つまりどういう事かというと、あんまりにも豊かすぎて、掃除に生きがいなんて見いだせないということだ。そういう人たちにはじめっから掃除なんてさせてもだめなんだと思うし、逆にそうでない人が豊かな人の仕事を目指すと内紛の原因になってしまう。ここを知らない人が今の時代はあまりに多すぎる気がする。そして、これのせいで、自身が破綻し、家族まで巻き込んで、家庭は崩壊となるケースは非常に多い。

彼の実家は、今でいうところの富士市に区分されるが、昔は伝法と呼ばれていたところにあった。おかしいなと思い始めたのは、保育園に行き始めたころの事。それまではただの着物屋だと勝手に解釈していたが、絶対にこの地区に住んでいたという事を口に出して言ってはいけない、という事をうるさいくらい言われたからである。そして、保育園の先生が、他の園児にする表情とは違う顔をする。小学校に入るとさらにひどくなり、立ち入り禁止のところからやってきたと罵られる。なぜか止めようとする教師はない。当然のことながら友人はまるでなく、彼を救ったのはベートーベンやショパンの音楽であった。こういう物さえあれば、高いお金を払わなくても、勝手に夢想の世界に連れて行ってくれた。これも偶然なんだろうか、隣近所のおばちゃんが、古ぼけたピアノというものをプレゼントしてくれたため、水穂はレコードから聞き取った音を再現する作業に没頭した。これが楽しくて仕方なかった。後で聞いた話だけど、伝法は部落民と言っても、薬屋などの商売をしていて、比較的恵まれた者が多かったという。勿論、平民に比べたら、大笑いされるほど貧しい生活であったのだけど。

この作業を目撃した学校の先生が、水穂を自身の出身校であった桐朋音大の先生に会わせたことで、人生は一変したというよりおかしくなった。桐朋音大の先生が大変びっくりして、定期的に学校などを借りて稽古してくれるようになったのである。多分きっと、これはピアノのうまさではなく容姿のためだったのではないかと今では思っている。

しかし幸福も数年しか続かない。階級は時に子供の幸福を奪う。伊能晴により、高額な賠償金の支払いを命じられて、右城家は破産することになった。それでも払いきれない賠償金を工面するため、父も母も働きに出ることになり、水穂本人はほかの人から穢多頭(または弾左衛門と呼ぶこともある)と呼ばれていた有能な夫婦の下で暮らした。まあ、いわゆる村長とか、区長とかそういうのと同じようなものだけど、なぜか他の人はそう言っていた。いかにも人種差別的な名前だが、今の政治家よりも絶対優れている人だった。まず、彼の父親に愛用のピアノを処分させることはやめろと命令したのが、一番の功績であったと思う。そして、桐朋へ行ったほうが絶対に幸せになれるから、と彼を説得して、そこへ行くためにどうするか、という全住民を巻き込んだプロジェクトを開始させた。まず初めに必要なものは情報収集であるが、近隣の若い女性たちは、売春に従事した者が意外に多かったことから、上級階級のちょろい男性を相手にして、大学事情などを聞き取ってきてくれた。相手にした人は、美人に弱いことが多いから、情報はすぐ入手できた。資金の面では、どんぶりまんと呼ばれていた、浅草高橋組に関与したおじさんたちが、ヒロポンの販売で賄ってくれた。そういうわけで、音大進学に必須と言われる「地盤、看板、カバン」は全く用意できない階級だったにも拘わらず、アウトローの人たちに手伝ってもらって、現役で桐朋音楽大学へ合格してしまった。とりあえず大学の用意してくれた学寮で生活することになったが、頻繁に帰ることも不可能なので、大学入学式の前日には、穢多頭のおじさんたちを始めとし、プロジェクトに参加してくれた人が、大量に集まって駅まで見送りに来てくれて、まるで出征するのかと勘違いされたほどである。

大学では、おじさんたちの期待に応えるために、文句ひとつ言わないで勉学に励み、奨学金を得て優等生の称号を獲得した。これによって、コンクールにも出場で来て、ピアニストとして演奏活動を開始したが、そこで得たお金はほとんど大学の学費の返済と、伊能家から請求される賠償金の支払いに消えた。

一度だけ、やっと伝法に帰る時間ができたことがある。喜び勇んで、帰省を計画したが、時すでに遅し、住んでいたところはゴルフ場になっていて、穢多頭のおじさんも、プロジェクトに参加していた人たちの消息も不詳であった。幼いころにおじさんから、わしらは水商売と同じようなもので、こういう地区は、政府の勝手なわがままですぐに消されるんだよ、と聞かされたことはよくあったが、消しゴムで消されるのと同じように簡単に消されてしまうのか、と思うとやるせなくてたまらなかった。勿論、口に出して発言したら、ファンの人からの支持率は一気に下がるから、全く誰にも言わずに演奏活動を続けるしかなかった。

とはいえ、演奏家としての支持率は極めて高かったが、体の方はそれに反比例して次第に衰弱した。前述した支払いのせいで体をケアするお金なんかまったくなかった。もし、今ここに拾ってもらえなかったら、間違いなくどこかでのたれ死んでもおかしくなかった。まあ、それだけは免れたのかもしれないが、人生って何だろう。

そんな気がする。

うとうとしながらそういう事を考えていると、また吐き気がして目が覚める。とりあえず布団に座って、三度せき込み、咽喉にたまったものを出した。ここの利用者だった須藤聰に買ってもらった真綿布団を汚してしまうのはどうも嫌で、必ず布団に座ってからやるようにしているが、これもできなくなったらおしまいかな、なんて考えも浮かんでくる。薬のおかげで、さほど大量ではなく、枕元のタオルで手を拭くこともできたが、こういう作業ができるのなら、まだ幸せなのかな、なんて考えていた。

「おい。ちょっと起きれるか。ご挨拶だけでもしたいってさ。ちょっと来てやってよ。」

いきなりふすまが開いて、蘭がやってきた。

「ご挨拶?なんのことだ。」

「なんだ、聞こえてなかったの?」

「ごめん。」

正直に言うと、外で何があったなんて全く気が付かなかった。蘭も、薬で眠っていたせいで、聞こえなかったのだと解釈した。

「来たんだよ。お前の代わりに、掃除やってくれる人が。」

ああ、そうか。青柳教授が、そんな事を言っていた。いくつか家政婦紹介所に行ってお願いをしたのだが、全く集まらない結果に終わったこともやっと思い出す。

「どこかの会社から連れてきたのか?」

「いや、杉ちゃんが偶然知りあった女性だよ。事情を話したら、ぜひお手伝いさせてくれってそう言ってた。」

なるほどねえ。でも、そういうやり方でないと、来てはくれないのではないかなとも思った。

「わかったよ。じゃあ、そっちに行くから、悪いけどその前に手だけ洗ってきてもいいかな。いくらなんでも恥ずかしいから。」

「なんだお前、またやったの?」

蘭にこれを言うと心配するので、あんまり口にしたくなかった。予想した通り、表情がすぐに変わっていく。

「おい、悪くならないうちに、もうちょっと専門的なところに行ったほうがいいのでは?」

「いや、無理だ。多分内紛の原因になる。」

こういう事ははっきりさせておかないといけないと思った。でも、蘭がこの部分を理解してくれるのかは、不詳だということも予測できた。今理由を言ったら、歴史的なことも絡んで、すごい長い話になる。

「とにかく、そっちに行くから、お客さんに待っててもらうようにいってくれ。まあ、待たせてしまって申し訳ないけれど。」

「あ、ああ、分かったよ。」

とりあえず応接室へ戻っていく蘭。水穂も、かったるい体に鞭打って、よいしょと立ち上がった。

応接室では、多香子が杉三と一緒に来ていた。懍が、勤務時間とか通勤手段とかそういう話を、彼女に話していた。

「失礼します。」

水穂が、ドアを開けて部屋に入ると、初めて彼を見た多香子は、

「ほんとに奇麗な人、、、。」

と、感想を漏らしてしまった。

「誰の事ですか。」

これを言われるのは本当に嫌なので、いつもこの言葉を使って返すのだが、

「そうだろう、美人薄命というが、薄命の美男子という表現がふさわしい。噂通りだったでしょ。磯野水穂さんです。」

杉三に笑い飛ばされてしまっては、もう反論しても無駄だと思う。

「あ、水穂さんね、この方、渡辺多香子さんという方で、エアコンの掃除に来てくれるそうです。他に何か困ったことがあれば、何でも言ってくれと言っていますので、まあ、使ってやってくださいよ。」

懍がそう言って紹介してくれたが、なんだか自分の役目は終わってしまったのかな、という気がしないわけでもなかった。

「そう落胆するな。お前だって、体がよくなればまた仕事ができるさ。だって、エアコン、汚いままでは、安心して療養もできないだろ。それだったら、誰かに頼んだほうがいいだろ。」

蘭が励ましてくれても、なんとなく複雑な気持ちだった。

「しっかし、今年は本当にいつまでもエアコンが必要だよな。そのうちエアコンの生産量は世界一になるんじゃないのか。ていうか、生産が追いつかなくなって、もう、あまりの暑さでそのうち旱魃が起こりそうだよ。」

「極端すぎるよ、杉ちゃん。まあ、確かに嫌だよな。こうも暑いと、やる気をなくすよ。」

蘭はそう言うが、もしかしたらこういう事もあり得るかもしれないなと水穂は思った。そうなりそうな自然災害が今年はやたら多い。

「蘭さん、自然現象に愚痴を言ってはなりません。こういう新しい出会いをもたらすこともあるのですから、余分な感情は必要ありませんよ。」

という懍であるが、そんな発言ができるのは、多数の原住民たちと接してきた懍だけで、一般的に言ったら、蘭のような感想を持つことがほとんどである。結局自分で何とかしようという気はまるで起こらず、上の人たちが新たに法律を作ってくれるのを待つしかないのだ。もしかしたら、渋染一揆とか、そういう具体的な反政府的活動を起こす事ができる時代のほうが、成果はどうであれ、生きている充実感はあったかもしれなかった。

「渡辺多香子です。よろしくお願いします。」

好意的に見てくれたのか、多香子が彼の方を見て、軽く一礼した。隣にいた杉三に促されて、右手を差し出す。それを見て、ずいぶん苦労をしてきた人だなあとも思った。蘭のような職人の手とはまた違う苦労である。多分誰かに噛まれたのだろうか、肘のところどころに歯形が見られるのだ。若い女性の保育士などが、子供にかみつかれて歯形ができることはよくあるが、それとはまた別のもの。恕恨のこもった歯形だ。こういう人に、血液だらけの自分の手を差し出していいのかなんて考えるが、

「何をもたもたしている、早く出せ。」

と、杉三に促されて恐る恐る手を出すと、多香子が静かにそれを握った。洗ってきたとはいうものの、汚れ続けた自分の手が、自分よりも悩みに悩んだ人の手に触るのはなんだか申し訳ない気がした。現役時代、ファンの人たちが求めてきた化粧のにおいが充満した手より、今のはもっと重たかった。

「疲れたら、遠慮なく退出してくれてかまいませんからね。僕たちはもうちょっと説明をしないといけないので、まだ会議を続けますけど。」

「いえ、かまいません。ずいぶん、大変な人だなと思ったので、躊躇してしまっただけの事です。」

懍は親切にそう言ってくれたけれど、こういう一言は実は有難迷惑だなとも思ってしまった。

「正直に言いなあ。一人だけ味噌っかすみたいにされるのは嫌だよな。」

杉三にそう言われてもうれしいなとは言えないのだった。

「もう、すみませんね。なんでも口に出せるのがうらやましい。」

「図星か。それならそう言えばいいだけの事だ。」

「はい。それにしても、ずいぶんひどかったようですね。おそらく、ご主人からですか?」

答えを出すのに多香子のほうが躊躇する。

「なんのこと?」

蘭が口を挟む。蘭はこういう事には反応が鈍いのである。

「いや、ずいぶんおかしなところに歯形があるから。」

「障害児でも相手にしていたんじゃないの?ほら、よくあるADなんとかとか。最近は、ごちゃまぜにして保育させることもある様だよ。」

まあ、一般的に言ってしまえばそれで方が就く。本人もそうして誤魔化せる。政府の意向で最近はそういう障害のある子と、健常児と一緒に保育園で生活させることはかなり多いようである。大人たちはそれを偉い行為だとしてかっこつけていることが多いが、本人にとっては非常に大きな迷惑であることに全く気が付いていないという問題もあるが。

「馬鹿だなあお前。お前のところに依頼してくる人にも多いじゃんか。」

急いで杉三が訂正して、やっと事情が分かった蘭だった。

「あ、ああ、ごめんなさい。初めてお会いした時は全く気が付きませんでした。結構、ひどかったですか。ご主人の、」

「ご主人ではありませんでした。狂乱した娘がやっていたんです。」

「そ、そうですか。本当に気が付きませんでした。僕はどうして反応が鈍いんでしょうか。」

思わず頭を掻く蘭に、思わず多香子は吹き出してしまった。

「いいですよ。そのくらい反応が鈍かったほうが。」

まあ、それでよければそれでいい。

「しかし、娘さん、それだけひどかったですか。よほど強い思いがあるんでしょうね。最近は、若い人の自殺って本当に増えてますけど、せめて何か打ち込んでやれるものがあると多少違うんですけどね。自殺をしようと思っても、好きなものがあったおかげで助かった例は結構ありますよ。」

「蘭は鈍すぎだ。本当に鈍すぎだ。好きなものがあっても助かんなかった者がここにいる?」

一生懸命弁明しようとしたが、杉三に完敗した。これでまた貧乏くじを引いたと思った。

「いいえ、いいんですよ。本当に、皆さんがそう言ってくれるだけで十分です。あたしは、もう、親として、失敗というか、失格なんですから、何回でも皮肉を言ってくれてかまいません。多分きっと、娘はひどく怒っているんだと思います。いろんな形で、私を罵倒したいと思うのでしょう。皆さんはいろんな形で言っているのは、娘が言わせているのだなと思うようにしています。」

「そら、怒るわな。でなければ、自殺なんてしないわな。偉い人は、逃げだと解釈する人が多いが、僕は究極の怒りの表現だと思うよ。昔のように男を作って出て行ったというのとはまた違う。」

「杉ちゃんそれいつの話だ。」

蘭はそう返したが、もっともな話だった。

「とにかく下世話な話はやめましょう。それよりも、多香子さんも、生きようと思ってもらわなければ、いつまでも無気力なままですから、ここで働いていただいて、少しでも立ち直るというか、再生する、きっかけをつかんでくれたらうれしいです。」

「教授、そうなる前に、頭を空っぽにすることから始めなければだめだぞ。引き出しは、中身を出さなきゃ新しいものは入らないだろ。まず、このプロセスを踏まない限り、次には進めない。」

懍のあいさつに杉三が急いで否定した。実はこれ、必ずやらなければいけないのだが、どうも教育者とか、精神医療にかかわる人たちは、この行為の重要性を忘れている。そして忘れてはいけないのが、それを自分で成し遂げる方法を、傷ついた人はほぼ知らないということである。だから誰かが教えなければいけないのだが、実はこれ、求めると、甘えているとか言って叱責されてしまうのである。知らなかったら教えてやるのは、当り前じゃないかと思うのだけど。

「杉三さん、わかっていますよ。製鉄所の利用者はみんなそれをしないと立ち直れないでしょう。彼女も同じなのですから、そうしなければなりませんね。」

懍は、当たり前の様に言った。

「あ、カウンセルとかそういうものは、私、受けたんですけど、立ち直れなくて。」

「はい。それも知っていますよ。製鉄所の利用者もそうでしたから。それは仕方ないので、古いものを消すには新しいものを無理やり入れるしかないのですよ。逆を言えば、引き出しの内容物を、どうしても出さなければならない環境を無理やり作ること。昔だったら、それをさせてくれる道具は数多くあったんですけど、今はないですから、まず作るしかないでしょう。まあ、どれくらい提供できるかわからないですけど、少なくとも他のところに比べたら、きっかけはあるのではないかなとは思います。」

懍はそういうけれど、多香子は内部では疑っていたところもあった。水穂だけ、申し訳なさそうに黙っていた。



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