第二章 対象物がない

第二章 対象物がない

台所では杉三が、手早く野菜をいためて、ぐつぐつとカレーを煮ている。そのやり方は、非常に手早く、多香子も追いつかないほどである。

「速いわねえ。プロの料理人さんにも引けを取らないくらいすごいわ。」

「まあ、料理に関して言えば、杉ちゃんは天才的です。」

頷かざるを得ないほど、本当に手つきも何も、自分にはまねできなかった。

「でも、このお宅って、なんか懐かしいというか、うちの子が見たら、喜ぶだろうなってものがよくあるのね。」

「あ、よく言いますね。ここに来るお客さんたち。でも、大体は、杉ちゃんのお母さんが、ネットオークションとかで買ったものだそうですよ。今は、そういう物って、意外に安価で手に入るらしいので。」

「そうなんですね。なんだかうちの子にもそういうの、早く知らせてやればよかったな。」

「あ、意外に簡単に手に入るそうですから、インストールしてみたらどうですか?」

と、蘭は軽い気持ちで言ったのだが、多香子は、もうがっくりとした顔をした。

「インストール、、、。スマートフォンも持っていないし、もう遅すぎるんですよ。」

蘭は、すまないなという気持ちもあったが、同時にまた貧乏くじを引いてしまったという気持ちにもなった。いや、貧乏くじを引いたと思ってはいけない。引いたのなら、もとに戻せばいいのだ。うじうじしなくてもいい。

「なんか、変なことを言ってしまいすみません。またおかしな質問して申し訳ないのですが、どうして、駅まで行って自殺なんかしようと思ったんですか?」

勇気を出してそう言ってみる。すると、多香子も自分では誰にも言わないと誓っていた言葉だったのに、なぜか、蘭にそう聞かれてしまうと、話したくなってしまって、

「ええ。三年前に一人娘を失ってから、急に生きる気力というか、そういうものを失くしてしまいました。もう、何から何まで嫌になってしまって、ことあるごとに、死んでしまいたいと思ってしまうようになったんです。」

と、正直に話してしまった。

「そうですか。」

蘭は、特に派手なオーバーアクションもしないで、そう答える。本当は水穂のほうが、こういう話を聞くのはうまい。自分にできるかというと、自信はないけど、今ここでやってみる。

「今年、三回忌をやったんですけどね。生きていれば丁度、今年で二十歳になって、今頃、成人式に向けて、大喜びだったんだろうなと思って。まあ、うちは、たいして金持ちでもないから、新しい振袖を買うのは無理ですけど、せめて、リサイクルとかでいいから振袖を買ってやりたいと思っていました。それもみんな無駄になってしまったわけですから。」

無理もない。女の子にとって、成人式は一大イベントだ。最近はリサイクル店の振袖で済ます家族もよくいるようであるが、それでも、着物というものは、しっかり役に立ってくれるものである。親の側にとっても、それを失うというのは非常に大きな喪失であると思う。確かに、無駄になってしまったという表現をされても不思議はない。

「そうですね。お母さんの側からしてみたら、そんな気持ちにもなりますよね。今年で三回忌をしたとなりますと、享年は17歳ですか。それは本当に衝撃も大きかったでしょう。最近よくある、大雨や土砂崩れに巻き込まれたとかですか?それとも、大地震があったとか?現在ですから、医療は進歩していると思いますから、よほど難しい病気でもない限り、その年齢で亡くなるという事はなかなかないと思いますけど、、、。」

「もう、蘭も聞き方が悪いなあ。三年前に静岡で大地震が発生したなんてことはあった?それに、この辺りでは、決壊しそうな大きな川もないぞ。」

出来上がったカレーの皿をトレーに乗せて、杉三がそんな事を言う。確かにそれはそうだ。暴れ川と言われる富士川だって、最近は決壊していない。理由としては、当の昔に何度も決壊しているせいで、大昔から対策を研究しているからである。まあ、あったとしたら、昭和の終わりごろにすごい台風で、富士川橋の一部が流された程度である。それに、東日本大震災並みの大地震は三年前には起きていない。

「もうちょっとさあ、ちゃんと聞きな。具体例として、自然現象ばかりじゃないでしょ。」

杉三は、蘭と多香子の前にカレーの皿を置いた。

「はい。すみません。確かに、自然災害ばかりではなく、怖い事件も起きているし、、、。」

「戦争ということは、よっぽどの事でない限りないでしょうけどね。」

「もしかしたら、ちょっと近かったのかもしれないです。」

杉三の発言に、多香子がそういった。

「へ?だって終わって70年以上たっているぜ。あ、そうか、それとも、まだ解決していない国家に滞在していたのかな?」

確かにあり得るかもしれない。留学生として海外に行って、そこで現地の民族紛争に巻き込まれてしまったとか。日本では少ないが、中東とか、ユーゴスラビアのようなヨーロッパでは結構ある。今は、比較的簡単に留学というものもできてしまうと聞くし、若い人が海外に行く例は多い。

「国家紛争というものではなくて。」

と、多香子は静かに言った。

「受験戦争というものだったかもしれません。」

杉三たちは、がっくりと肩を落とした。

「あ、なるほど、、、。」

「全く、そういう事で命を落とすとはなんと哀れな、、、。本当に学校というところは百害あって一利なしってことに、誰も気が付かないのかねえ。」

不意に、しゃくりあげてしまう多香子。

「ああ、暗い話は、食べてからにしな。とりあえず、カレーを食べて、心を落ち着けよう。ね、そうしよう。」

急いでいまの発言を撤回するように、杉三がそういった。

「ごめんなさい、せっかく作ってくれたのに。じゃあ、いただきます。」

多香子は、渡された匙を受け取り、カレーを口にする。

「おいしい。」

涙の中から笑顔がこぼれた。もう、何年も食事はパンだけで済ましていたから、こういう温かいご飯を食べたのは、どれくらい前なのか思い出せないくらいだ。家事使用人みたいに毎日ご飯を作り続け、誰かに作ってもらうなんて夢のまた夢だった。自分で作ったご飯なんて、とてもじゃないけど、おいしいとは思えなかった。

「お、泣いたカラスがもう笑ったぞ。食べ物は、こうして心を和ます作用をするんだから、馬鹿にしちゃいけないよ。サプリメントは便利だろうが、こういう幸福感はもたらしてくれないよ。」

「杉ちゃん、泣いたカラスなんて、子供にいう言葉じゃないんだぞ。」

「そんなこと知ってるよ。子供がすぐできるのに、大人はすぐできなくなっていくのはなぜなんだろうね。そうなれば、できるように努力していくもんだろう。それ、庵主様が、仏の世界にいるために大事なことだって言ってたじゃないか。」

「面白いわね。お二方って。」

多香子は、思わず笑ってしまう。こういう人たちは、自分達が若かった昭和の中ごろなら、まだ少しばかり存在していて、若い人の心を和ませてくれた。自身も、そういう記憶はある。

でも、今の時代、こういう人が存在したら、真っ先に追放されてしまうだろう。もう、テレビなどに存在する架空のキャラクターにそういう役目をしてもらうしかない。でも、今ここでこうしてもらうと、テレビのキャラクターではできないんだなってことに気が付く。

「何が面白いんだ。僕はただ僕のままでやっているだけなんだけどな。」

杉三が、疑問符そのものにそう言ったので、多香子はまた笑いたくなってしまった。

「まあ、笑わないで食べてくれ。」

「ええ、ありがとうございます。」

急いでカレーを食べ始めた。そのどこか懐かしい味は、食欲を増進させ、あっという間に完食してしまった。

「ごちそう様。」

と、匙を置くと、なんかものすごい切ない気持ちになって、また涙が流れてしまう多香子。

「ごめんなさい。まったく、私ったらなんでこんなに泣き虫なんでしょ。こんな恥ずかしいところを見せてしまって、もう、情けないというかなんというか。」

一生懸命止めようと思っても止まらない。

「泣きたかったら泣いてもいいよ。理由をこじつけして、何とかして止めてしまうよりは、思いっきり感激して泣いたほうがいいんだろ。僕らは、かっこ悪いとか、馬鹿だとかそういう点数をつけることはしないから、もう、思いっきり感情を出しちゃった方がいいよ。」

本当は、わーんと声をあげて泣いてしまいたいほどだったが、さすがにそれをしたら、本当にかっこ悪いと思う気持ちだけはあった。

「今のセリフ、娘に言ってもらいたかったわ。きっとあたしたちがそういう風にしてあげれば、逝ってしまうことはなかったと思うの。」

「ま、まあねえ。子供のころこそ、そういうもんだよな。理由をこじつけさせる技術なんてない頭に、それを無理やりやらせて、かっこよく解決させようなんて、はじめっから無理に決まってら。もう、嫌なことがあったなら思いっきり嫌と言わせてあげればいいのにね。大人になってからそれが許されるから、今は我慢しろなんて、ほんと、大ぼらもいいとこだよね。大人になったら、許されるどころか、もっと大変だよね。」

「本当ね、杉三さん。娘が亡くなってからわかるなんて、母親としては全然だめね。」

「杉ちゃん、言い過ぎもほどがある。」

蘭は、多香子の事を心配したが、

「いいえ、まさしくその通りだから、もう、笑うしかないわよ。」

まさしく、これが答えだと痛感させられた。答えがでたら、人間の行動は大体二つに分かれる。それについて、一緒に悩むか、それともただあるだけとして放置しておくか。仏法的な解釈では後者であるが、そうはいかないのも人間。

「そうですか。本当に、大変だったんですね。それでは、生きているのも嫌になるのもある意味当然の事ですよ。だって、一番の喜びをくれたものが逝ってしまったわけですから。まあ、僕は子供を持ったことがないので、わからないですけど、うちの妻も時折子供が持てたらいいのになあとか、つぶやいてたから、格別のものだったと思うし。」

蘭はそう切り出してしまった。何とかしてやりたいと思ってしまったのだ。

「そうですね。もしかしたら私、それを忘れていたのかもしれません。文字に書いて記録でもしておけばまた別だったんでしょうか。育児日誌とか何もつけてなかったんですよ。娘が不登校になったときなんか、もうこんな子!なんて思わないわけでもなかったですし。もし、そういう記録があれば、また読み返して、もう一回向き合おうとかできたかもしれないのに。」

「僕は文字が書けないので、できるのにそれをしなかったというのなら、ある意味ではなまけていたというか、真剣にしていなかった気がする。」

杉三がまた、そんな事を言った。

「杉ちゃん、そんなこと言うな。」

「いいえ、いってください。私、もうだめだってちゃんと答えを知っていますから。私がだめじゃなかったら、きっとあの子は今頃、幸せになってますよ。二十歳の振袖を身に着けて、綺麗な顔して写真に写っていますよ。」

「ははあ、なるほど。そこは自覚しているわけね。まあ、仏法では事実はただあるだけなので、それについて、どうすればいいかを考えるだけでいい、そこで喜びや悲しみや怒りとかそういうもんが出ちゃうから、ややこしくなるんだっていうけれど。」

多香子は、その解説を聞いてまた涙が出てしまうのだ。

「そうねえ。そうすればよかったけれど、結果は見えてるわ。もう、娘はいくら呼んでも返ってこないのよ。」

「あ、ああ、すみません。杉ちゃんも、もうちょっと言い方を加減しろよ。人間なんだから、いくら偉い人がそんなこと説いても、その通りに行動なんかできないじゃないか。逆にそれを過信しすぎてテロを起こしたこともあるでしょ。そうしろって言われたって、はいそうですかと従えるもんじゃないんだよ。」

蘭は、慌ててそれを止めるが、

「いいのよ蘭さん。私は、そういう教えがあることだって知らなかったんだから。もう、こんな馬鹿なんだから、いっぱいお説教をしてもらったほうがいいのよ。」

と、多香子はそう答えた。

「そうそう。その開き直りが大事だよ。自分にはどうにもならんとすることも大切だ。それ、悪いことのように見えるが、意外にそうでもないんだな。新しいことへ向かえる、第一歩でもあるんだぜ。」

杉三の解説に涙を拭きながら、

「そうね。でも、杉三さんって偉いのね。そういうこと、どこで覚えたの?」

と多香子は聞いた。

「知りません。みんな馬鹿の一つ覚えでできている。それに、杉三さんと呼ばれるのは気持ち悪くて嫌だ、杉ちゃんと呼んでくれ。」

杉三の決まり文句である。

「どこか、講座でも通ったの?精神関係の、グリーフワークとかそういう。」

「知らないよ。勝手にどっかに行って覚えただけだよ。」

「正確には、近所の尼寺で開催されている講座に通っています。僕も、杉ちゃんも。最も、杉ちゃんが参加するのは不定期なんですが。」

蘭はそう訂正した。

「あ、観音講ね。それならそう言え。でも、あれは精神関係とかそういうカテゴリにあてはめてほしくないと庵主様が言ってただろ、だから、講座とは言いたくないね。まあ、言ってみれば、生きるのがつらいとかそういう人が何となく集まって、ああだこうだという場所だよね。」

つまり、傷のなめあいか。もう少し、進展がある場所があればと思ったのだが。以前、知人に言われて、精神障碍者の集まりのようなものに参加させてもらったことがあるけれど、解決なんて到底できないことを、ただ聞かされるだけで、何も意味がないと感じたことがあった。

「そうなのね。私は、そういうところは向かないと思ったわ。」

「あそう、それならそれでいいよ。できないことに手を出しても仕方ないだろ。じゃあ、次の手を考えればいいでしょう。」

これはまたなんという切り替えの速さか。よくあるのは、でもさ、と切り出されて、みんなに話せば少しは楽になるのではないのではないかとか、そういう有難迷惑である励ましを聞かされるか、人が勧めてあげているんだから一度くらい顔を出してみればと強制的に聞かされる、などがあった。杉三の反応はどちらでもない。

「とにかくさ、僕らは多香子さんに、何とかして生まれたからには生きてやるっていう気持ちになってもらいたいのよ。人間それが基準だからさ。生かされてもらっているから、生きなきゃダメだって言っても通用しないだろ。それより、本人がこの気持ちになってもらわないとダメなわけ。本人の力では、取り戻せないってのもよくわかったから、じゃあ、何とかてを出さなきゃだめだよね。そうじゃないと、どうせ何かのきっかけで、また電車に飛び込もうと思っちゃうだろ。そこを何とかしてやめさせろ。そのためにはどうするか。それを考えなきゃいかん。」

「まあ、杉三さんはどうしてそんなに、赤の他人の私に手を出すの?そんなに世話好きなの?」

ちょっと疑い深くなって、多香子は聞いてみる。他人に手を出して、自分の名声を上げようとしている人も結構見かけたことがある。そういう人は、非常に困るというか、もっと悲しくなる。

「知らないよ、そんなこと。強いて言えば、アウトローにはなりたくないからじゃないの。だって、自殺幇助で警察に捕まったら、おしまいだもん。そういう事に人生盗られたくないからねえ。」

なんだか、ミスタービーンみたいな発想であり、思わずぽかんとしてしまう。

「まあ、目の前の人がそう言っているので、じゃあ、どうすればいいかって考えたら、そうなっただけって答えればそれでいい?」

今度はそう質問されて、思わず

「まさかと思うけど、資格取るための実験台がほしかったからではないでしょうね!」

と強く言ってしまった。

「違う!僕は称号でものを言わせる人間は嫌い。何かするのに称号はいらないと思う。それをとるために、人を利用しなければいけない称号なんて、偉くもなんともない。それはただの飾りもんさね。だって、実際に解決してくれるのは称号ではなくて、人間だもんね。だから、政治家ってのは嫌いなんだ。学校の先生も。そういう事を一番わかっていない人たちだからな!」

確かにそうである。学校の先生は、ひどい人たちである。娘もそれを何回も言っていたが、私は、学校の先生は偉い人たちだから、間違ったことをいうはずはないよと言い聞かすしかできなかった。また、娘に言ってほしかったセリフを聞かされた。自分なんて、世間の事を何も知らなかったのではないか。学校の先生=すごい人なんて、大間違いだと知らされたとき、娘はこの世にいなかった。

「私じゃなくて、杉三さんが娘に言ってくれれば、こうはならなかったわ。本当に、もう、遅すぎるのね。今日は、娘のところに行こうと思って駅へ行ったと思ったら、逆に娘が本当に言ってほしかっただろうと思われるセリフを今言われて、娘からさらに大きな罰を受けたような気がするの。なんで、もっと早く気が付かなかったんだろ。」

「じゃあ、よかったじゃないか。今気が付いたんだから。少なくとも、自殺に失敗したという事は、娘さんにまだ勉強が足りん!と叱られているようなもんだろ。母ちゃん、もうちょっと勉強してからこっちに来い。阿鼻地獄に落ちた娘さんはそう言っている。」

確かに、自殺はよいところへ行けないとは聞いたことがある。少なくとも本人は楽になれただろうと推量していたが、そういう事は、もしかしたら認められないのかもしれない。これは、仏法に限らず、他の宗教でも言われる。例えばキリスト教徒だった細川ガラシャさんは、自分でではなく他人に刺してもらわなければいけなかったという。そうしたら、相手の人だって、たまったものではない。

「ちなみに、地獄には階級があって、わがまま別にどこへ行くか決められる。活地獄とかあるらしいが、一番わがままな人は自動的に阿鼻地獄になっちゃうんだよ。」

「そうなのね。じゃあ、そうならないようにするためには、どうしたらいいのかしらね?」

「うーん、そうだね。少なくとも、生まれたからには生きてやる、に構えなおすことが一番大事だと思うけどね。」

結局それかあ。今の私には、そんな気持ちになれるかな。なれそうなきっかけも、何もないな。

「よかったらでいいのですが。」

不意に蘭が何かひらめいたらしい。そっと多香子に話しかけた。




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