鍵言葉

神條 月詞

ひみつのことば。

 この世界に暮らす人たちは、みんな頭の中にひとつの言葉を持っていました。それは自分以外の人に言ってはいけない、秘密の言葉でした。

 その言葉は、鍵になっていました。家や車、金庫の鍵です。皆さんがご存知のような鍵と鍵穴なんてものはありません。ドアノブや取っ手の上、鍵穴がある場所に、この世界では小さな耳が付いていました。いえ、もちろん本物ではなく、正確には耳をかたどったシリコン製のものなのですが、そこに秘密の言葉を囁きかけると鍵が開くという仕組みになっているのです。

 ある人は「さよなら三角またきて四角」と言えば開きましたし「頑張れ私負けるな私」というような鍵言葉もありました。また、中には「君のいるこの世界に君のいない夜なんて似合わない」などといった、洒落たものもありました。

 鍵をなくして焦る、といったことはまったくありませんし、空き巣に入られるということもまずありません。泥棒が入念な下調べをしていたとしたら話は別ですが、でたらめに言った言葉でドアが開く可能性は、ほぼゼロに等しいでしょうから。

 むしろ、ふとしたはずみに自分の鍵言葉を漏らしてしまうことの方が多くありました。それでも何も心配いりません。帰ったらすぐにほかの言葉に変えてしまえば、万事解決です。

 こうして皆、日々を忙しくも穏やかに過ごしていました。


 さて、この世界のどこか片隅に、ひと組の男女がいました。恋人同士の二人は、ある日些細なことでけんかをしてしまい、お互いさよならも言わず帰路につきました。家の前で歩いてきた彼女は、ふと立ち止まってため息をついています。

 実は、彼女の鍵言葉は『今日もとっても楽しかった』でした。普段ならば心の底から言えるそれを、今日はどうしても言う気になれません。言わなければ扉は開かず、けれどその言葉は嫌でもさっきのけんかを思い出してしまいます。彼女は自宅の前をぐるぐると歩き回り、やっとのことで鍵言葉を口にしました。

 部屋に入った彼女は、ドアを挟んでちょうど耳の裏にあるパネルに触れました。このパネルが、鍵言葉を変えたいときに使うキーボードのような役割をしています。

 ぼんやりと文字を打ち込んでいた彼女がパネルを見やると、そこには『ごめんなさい、愛してる』の文字。これを何度も読み返した彼女は、明日会って必ず謝ろう、と涙を浮かべました。


 時間を少し巻き戻して、彼女の走り去った後を追いかけていた彼は、途中で彼女が身に付けていたイヤリングが落ちているのを見つけました。それは数ヶ月前に彼がプレゼントしたものです。彼女の家は、もうすぐそこ。

 ──届けに行こう、そして謝ろう。

 心を決めた彼は、彼女の家の目の前まで来てドアをノックしようと腕を上げ、そこで動きを止めてしまいました。何度も何度も口の中で反芻した言葉は、いざ声に乗せようとすると上手くいきません。

 少しして、肩を落とした彼はドアノブの上の小さな耳にイヤリングを付けると、そこへそっと囁きかけます。

「ごめんなさい、愛してる」

 かちり、鍵の外れる音とともに勢いよく開いたドアの向こう。化粧のせいだけではないであろう朱に染まった目元と濡れた頬が、彼を見て煌めきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鍵言葉 神條 月詞 @Tsukushi_novels

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ