2.3(前編)
滝のように流れ出てくる汗。
荒い息。
男女で二人きり。周りをうろついていた師匠は先ほどから休憩中で、今はこの場にはいない。
何も喋らないまま、それぞれの身体だけが惰性で動き続ける。
――まあもちろん、稽古のことだけどね。
『ヤン道場』でかなりの時間汗を流した僕とカスピエルは、ヘトヘトになりながらも型の打ち込みに徹していた。
足の感覚はとうになくなっていて、最初は重りをつけているようだった腕も今は空気のように重さを感じなくなった。もちろん、悪い意味でだ。
床が濡れ、足腰がガクガクと震える。
――
クレアさんに拾われてこき使われていた時も、これほどの過酷な労働は課されなかった。慣れない内は掃除でさえ音を上げていたけど、ある程度力がつくとそれも苦労にはならなくなっていたのだ。
単純な型だけど、全身を使わないといけない。それこそひとつひとつの動作を完璧にこなさないと、ヤン師匠のお手本通りにはならなかった。
「……」
ふと隣を見てみると、カスピエルも同様に汗を随所に光らせながら、緩慢な動作で拳を突き出していた。透明の雫を
彼女が天使だということは、今のところ僕だけが知り得ている秘密だ。どこか必死さを感じさせるその横顔だって、空気を切り裂く拳だって、全て『神』たるあやふやな存在が創った美貌だということを改めて思い出した。どこまでいっても彼女と僕には明確な隔たりが存在し、いくら
と同時に、カスピエルがなぜこの修行めいた苦行に付き合ってくれているのかという疑問が湧き上がる。
彼女は本来ならば、この世界の秩序を希求しまた司る存在のはずだ。たとえ下界の楽しみを味わいたいとはいえ、
エルディアへ発つ前に、彼女は『ポッキリト』を食したいという、はっきり言って下らない願いを語っていた。その時は話半分に聞いていたけど、今となっては疑問が残る。なぜなら、『ポッキリト』が食べたいのであれば直接エルディアに降り立った方が何倍も楽なのだから。効率よく『ポッキリト』を味わいたいのなら、そうした方がいい。
僕達人間が思ってるほど天使は高尚じゃない、とサレダッドで話してくれたことがある。
高尚ではなく、不合理的な選択肢を選んでしまい、時として怠慢な存在である、
自らの欲望に忠実で、でも苦楽を共にしてくれるような
その特徴は、
偶然と考えられたらどれほど良かっただろう。
しかし、それは最早確かな輪郭を帯びてきていた。
天使とは何か。悪魔とは何か。人間とは何か。
君は一体――とカスピエルに問いかけようとした、その時。
「――お前さん達、今日はこれで終わりじゃ」
稽古場の引き戸がガタッと勢いよく開き、小柄な老人が姿を見せた。まるで聖母の囁きのようなその言葉に、くたっと全身の力が抜けていった。カスピエルもその場に座り込んでいるのが目に入る。
途絶した思考を奥底へ追いやり、僕は長い息を吐いた。
「……つ、疲れた……」
「どうじゃった?」
「なんか、思ってたのと全然違いました……」
途切れ途切れにそう答える僕を見下ろして、ヤン師匠はカッカッと笑った。
「これくらいでへばってちゃ、これから先はキツイぞ?」
「……へばってないし」
ボソッとカスピエルが呟くが、幸いヤン師匠の耳には入らなかったようだ。ヤン師匠はそのまま座り込んでいる僕達の近くに寄ってきて、水の入った容器を手渡してくれた。ありがたく受け取り、喉に潤いを流し込む。サラサラと気持ちのいい感触が内側から広がり、生き返ったような気分を味わった。
「もう日が暮れたぞい。お前さん達も、家に帰りな」
「え、もうそんな時間!?」
カスピエルが驚愕し、外を見ようと立ち上がった。が、すぐにフラフラとして座り込む。どうやら足が痺れたようで、苦悶の表情を浮かべた。
「まぁまぁ、そんなに慌てるもんでもない……それより、さっき子供が二人来ておったが、知り合いか?」
「子供……?」
「ああ、
ヤン師匠が挙げた特徴は、間違いなくミーシャとゲイブのそれだった。先ほどまでの疲れが嘘のように吹き飛び、芯がスッと冷え込んだ感覚に囚われる。
「ミーシャとゲイブ!? 二人とも、まだ八百屋のおばさんのところにいるはず……!」
「……リョウ、そんなに慌てなくても――」
「ああ、あいつらが誘拐されたとか、そういう心配はいらんぞ?」
と僕が懸念していた事案がヤン師匠の口から漏れ、少し気持ちが揺らいだ。
「さっき、オウガっちゅうヤツとロストっちゅうヤツから連絡が来てな。連れ回されてるそうだ」
「……」
……どっちが連れ回されているんだろうか。先ほどまでのピリついた空気は途端に霧散し、安堵の嘆息が
「ん? ああ、そいつらはウチの門下生じゃから、心配せんでええ」
だけど、僕の心配が完全に払拭されたわけではなかった。それを案じてくれたのか、ヤンさんが先回りしてその疑問に答えてくれた。
「仮にも武術の心得があるから、お前さんの思うようなことにはならんよ。まぁ、この街の
「そうだね……まぁ、どこかの誰かさんはヤワっちいけど」
「もしかしてそれって僕のことかな?」
「別に誰もリョウのことなんか話してないじゃん」
ニヤニヤしながらこちらを見てくるカスピエルを睨み返す。
「まぁまぁ。お二人さん、痴話喧嘩なら
「は!? 痴話喧嘩なんかじゃないし!」
真っ赤になって頬を膨らませるカスピエル。まあ痴話喧嘩ではないけど、それにしても全否定だな……。
何となく憮然とした気分になっていると、ヤン師匠が話を続けた。
「……あいつらなら何とかやってくれるじゃろ。心配はいらん。それよりお前さん、父親との思い出、何かあるか?」
「えっと……」
急な質問に戸惑ったのも束の間、ヤン師匠の真剣な表情に記憶を洗い出してみる。
「……ほとんど覚えてないです」
しかし、主だった記憶はどういうわけか浮き上がってこなかった。その違和感に首を傾げるも、ヤン師匠が口を開いたので僕はそれを振り払った。
「そうか。フェルシス、と言ったな?」
「はい」
「……」
何やらこちらをチラチラと窺いながら考え込んでいるカスピエル。カスピエルも僕の生い立ちに興味があるのだろうか。
至って普通なはずだけどな。
「フェルシスはな、ワシの古い友達だったんじゃよ」
「え……?」
だが、続けざまに放たれた親交宣言に目を剥く。
「ヤン師匠が……僕の父さんと知り合い?」
「ああ、友達じゃ」
「と、友達……」
「そうじゃな」
なぜか威圧感漂うヤン師匠に気圧され、友達と言い直す。果たして真実のほどはどうなのか、今は推し量る術はないけど……。
「……まあ、ひとつ昔話でもしようかの」
ふと視線を移すと、珍しくヤン師匠が懐かしそうな顔をしていた。
「昔話?」
「なになに? 私も興味あるんだけど」
耳ざとく聞きつけたカスピエルがすり寄ってくる。
「えぇ……。本当に、普通の親だったと思うんだけどな……」
若干鬱陶しいカスピエルを横目に、僕は記憶の再編成に励んでみた。が、別段おかしなものは紛れ込んでいない。
「っていうか、父さんの名前もクレアさんから又聞きしただけなんだよなぁ。物心ついた時には、もう孤児院に引き取られてたから」
「え、何それ壮絶。そういうのって『らのべ』の主人公にありがちだよね」
「……?」
カスピエルの耳慣れない単語に一瞬首を傾げるが、何でもないと否定するのでおとなしく黙ることにした。
「どうやら、お前の父親は何も言っておらんみたいじゃのぉ……。よし。じゃあ、ワシがまだ若かった頃の話をしてやろう」
「若かった頃って……。父さんと面識があったんですか?」
「ああ。同じ夢を持つ友達じゃった。あの頃はな……」
しみじみとした口調で、ヤン師匠が語りだす。
いつしか、僕とカスピエルは、ヤン師匠が話す
♠
陽光が斜めに差し込み、月が顔を出す時間じゃったかの。
「おーい、ヤン! 早く来いよ!」
ワシを呼ぶ声が遠くから聞こえてきてな。フェルシスの元へ急いで駆け寄っていった。
「そんなに急ぐなよ。時間は無限にあるんだから」
「ヤンこそ何を言ってるんだ? 時は金なり、もたもたしてると置いてかれるぞ」
そんな軽口を叩きながら、ワシらはスロールの街へと向かって行ったんじゃ。
あ、スロールっていうのは、エルディアから二時間ちょっと東に行ったところにある街のことじゃぞ? 今はフラーリヒト帝国との軍事境界線が近くにあるから、王国騎士団が在留しているはずじゃ。間違っても近づくでないぞ。
エルディアの南にはバロス山脈が横たわっていて、フェルシスは山脈のどこかにある
移動時間? ああ、それはフェルシスが珍しい
……こほん。数時間とはいえ、ワシの鍛錬をまともに受けたお前さんが本気で殴ったら、怪我するぞ?
まあそれはともかく、お前さんの父親のおかげで、ワシらの移動はあまり手間暇かからないものだったんじゃ。この時はたまたまスロール近くの森を散歩していたから、
気持ちのいい夜になりそうじゃったから少し奥まで行ってみよう、っていう感じで行ったんじゃが、結局何もなかった。会ったのは
でも、その帰り際に見知らぬ洞窟の前を通りがかったんじゃ。スロールの周りは幾度となく歩き回ったから、疑問には思ったんじゃがな? フェルシスが妙に惹かれたようで、試しにと思って足を踏み入れた。
まず初めに感じたのが、得体の知れない禍々しさじゃった。この時点でワシはもう帰ろうと画策してたんじゃが、フェルシスがグイグイ引っ張るもんでな……。なんじゃろう、この世の全てを超越するような、そんな神々しさとごちゃまぜになった空気が漂っていた。
「寒っ!? ナニコレ、冬かよ!」
「外とは大違いだな」
薄着の下に見える鳥肌をさすりながらも、ずかずかと踏み込んでいくフェルシス。
「なぁ、もう帰ろうぜ。さっさと『タバーン・ホムラ』に行って
「これだからヤンは。この先には何かヤバいものがあると、俺の直感が言ってるんだ!」
「ハイハイ。お前、一度も当たったことないのによくそんなに自信持てるな」
憮然とした表情で振り返ってくるフェルシスを、ニヒヒッと笑い返してやったわい。
「でもよ、実際問題ここら辺に未探索の洞窟があったらすごいぜ? チート級の億万長者だって夢じゃない!」
「は? なんだその『ちーと』とかいうのは。よく分からない……。ただ、確かにここの鉱石は見たことないものばかりだな」
フェルシスが指し示していた天井を軽く仰いだのじゃが、確かに見覚えのない鉱石があった。あそこら辺は一通り知っておるから、見分けも一瞬でつくんじゃ。
「な? これは絶対未知の鉱石がある流れだよ!」
フェルシスがそこまで言った時、ズボッという嫌な音がしてな。
二人して嫌にゆっくりと地面を見下ろしたら――。
「んなっ……縦穴!?」
人間の胴体ほどもある大きな縦穴が、フェルシスの右足を飲み込んでいたんじゃ。
「ちょっ……ヤン!!」
「分かってる!」
ワシはすぐさま駆け寄って、体勢を崩したフェルシスを支えた。わたわたするフェルシスを引っ張り上げて、何とか事なきを得た。
「……ふぅ。ありがとうヤン」
「いいってことよ。それより災難だな、こんなところに縦穴……が……?」
と、そこで気が付いたんじゃ。
――穴の奥底に、黒光りする宝石のようなものがあることに。
「どうしたんだヤン。急に黙りこくって」
「ちょっ、フェルシス!! 中!」
洞窟の中はお世辞にも明るいとは言いがたい環境じゃったが、水晶を伝わってくる光に反射して偶然見つけられた。
「……ん? これは……」
フェルシスがそっと手を伸ばして、黒い鉱石を掴んだ。くるくると回し、全体を把握しようとしていたんじゃな。
大きさは金貨一枚より小さく、米粒より大きいぐらいじゃったかな。そこそこの厚みはあったが、分厚いわけでもない。片手で握れるくらいの丁度いい質感でのう。それが岩に
「宝石……? 黒い宝石なんて、見たことも聞いたこともないんだが……」
ワシが首を傾ながら見つめていると、フェルシスがボソッと呟いた。
「……『メモリー・ジェム』……」
「……?」
最初、フェルシスが何のことを言っているのか分からなくてな。『メモリー・ジェム』だなんて、いかにも胡散臭いと思わんか?
「なんだそりゃ」
「……聞いたことがある。この世に一個しかない『
深刻な顔でフェルシスがそう言ってたんじゃがの、
……まあ、今になってみればの話じゃが。当時のワシは、若気の至りというか……。結局はフェルシスの言うことを信用したんじゃ。随分と後になってからじゃがな?
「どっかの行商人から『耳かき棒』っていう変な棒みたいなのを買った時に、そいつが言ってた」
「行商人かぁ……
「これ、ヤンはいるか?」
「……」
そう言ってフェルシスは『メモリー・ジェム』を見せてきた。しばらくワシは考えた。
もしこれが本当にメモリーなんとかじゃったら、その価値は天井知らず。大陸中の強欲なヤツらがこぞって買いにくるじゃろう。それこそ合法非合法問わず、自分のものにするために襲い掛かってくる。まあ、勝手な偏見じゃけども。
事は国内だけで済まない可能性もあったんじゃ。スロールはフラーリヒト帝国との軍事境界線のための前線基地という側面もあったから、万が一『メモリー・ジェム』のことが国外に漏れようものなら、それは全面戦争を意味する。イグドラシル王国は古来から対外貿易に頼ってきた分、軍事力と呼べるようなものは他国に対して圧倒的に劣っておるんじゃ。
逆にこれが偽物であった方が、単純な損得計算では利することになっていた。偽物ならば危ない目に遭うこともないし、責任を追及されることもない。第一、未だ真実だという確証も得られていない。
本当にワシが持つべきものか、決めかねていた。
じゃからワシは、どうか偽物であってくれと
「……ヤンがいらないなら、俺がもらうけど」
やがて漂う沈黙に耐えかねたのか、フェルシスが口を開いた。
「本当か? 正直、危ない臭いしかしないんだが」
「スロールの鑑定所で見てもらうさ」
「そうか」
実際のところ、鑑定所とやらも信用するに足るものかは定かではなかった。が、止めるのも
それから洞窟を先に進んでみたんじゃが、あえなく行き止まりになっていた。自然発生的にあの洞窟ができたとは今でも信じておらん。誰かが作為的にあそこに『メモリー・ジェム』を置いてきたと考えておる。
ただ、フェルシスとはその後は会うことができなくなってしまってのう。どうやらフェルシスが住んでいた
まさか『メモリー・ジェム』とやらが本物だったはずはあるまいが、あのフェルシスがむざむざ討ち死にするとは考えられなくてのう。
フェルシスを最後に見たのは、洞窟を出た時じゃった。呑む約束はまた今度となったまま、姿を見せなかった。
夜も近くなって、月を背に
あいつが最後に言い放った言葉が今でも忘れられなくてな。今でも鮮明に覚えておるよ。むしろ、その言葉のために生きているようなもんじゃ。
蒼水晶の淡い
「――必ず、戻ってくる」
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