過去

夕焼けに染まる下り坂を、ぼちぼちと一人で歩く。


カラカラと自転車を転がす音が、初夏の嫌な湿気の中で響く。


普段通りだと言うのに、どことなく寂寥を感じていた。



なぜ、あの時伊藤は泣いていたのだろうか。


わからない。だけど俺は彼女を泣かせてしまった。


いい気分ではなかった。


頭の中で彼女の『そっか』という悲しげな声が再生される。


俯きつつ下る坂と共に気分も下っていく。


「海君」


背後から呼びかけられた。


懐かしいあだ名だった。

可愛らしい声だった。


俺は知っている。


このあだ名を使う人物を。

この声の人物を。


恐る恐る、振り返る。


「久しぶり、だね」


腰まで伸びた長いツインテール。150センチ程度のかなり低めの身長。そしてやや鋭さを感じる目付き。


間違いない。


「…久しぶり、椿ちゃん」


確実に、『元カノ』だった。




「覚えてたんだぁ?」


口角を引き上げ幼げな見た目に反する妖艶な笑みを浮かべ、彼女は俺に問い掛ける。


「もちろんだよ」


声を出してから気づいた。


震えている。手が、足が。


逃げ出したいけど逃げ出せない。


動かない足が、逃げたいという欲求を抑圧する。


「どうして、逃げたの?」


ふと彼女が問いかけた。


「…やめてよ」


無意識だった。

何も考えられなかった。

しかし気づいたら言葉を発していた。


「もうやめて。帰ってよ!」


胃が痛むような感覚。


頬を、温い涙がつたった。


「ふーん」


冷たい視線だった。


「嫌」


そして、言葉もまた冷たかった。

そう言うと、彼女は背を向け坂を上がり始めた。


「またね」


と、言い残して。







家に帰りすぐに制服のまま布団に寝転んだ。


いつだっただろうか。椿と初めて出会ったのは。


確か中二に同じクラスになって、夏休みの終わりから付き合い始めた。


俺は、椿と出会うまで告白されるという経験がなかった。

俺への好きは、付き合いたいという意の好きではない人がほとんどだったからだ。

だからこそ、椿からの告白は俺にとって大きな出来事だった。


そして俺は椿と付き合い、恋人同士で過ごすことの楽しさを知った。




数ヶ月は普通で平凡な恋人同士のお遊びだった。


しかし、ある冬の日、事件が起こる。


その頃、俺の家の隣に、また別の女子が住んでおり、いわゆるお隣さんというものだった。

紺色の眼鏡をかけたショートカットの可愛い子だった。


彼女は部活により多忙で、ほぼ帰る時間は合わなかった。

しかし時折帰り時間が合うと、同じ道なのに別々に帰るというのも気まずいため半分仕方なしに一緒に帰路を辿ることもあった。


その日も、彼女と共に帰っていた。

特に何も起こらなかった。

いつも通りに家まで駄べり、いつも通りに家前で分かれる。


恋人がいるとはいえ、彼女とは友達としか思っていなかったため一緒に帰ることに罪悪感を感じなかった。


いや、感じられなかったのだ。


感じるべきだった。


その日を境に、隣に住んでいた彼女が不登校になった。


心配した。


時折家に行き、様子を伺おうとしたが、親御さんすら彼女と顔を合わせられないという理由で門前払いだった。


俺はそのことを、椿に相談してしまった。


既に恋人がいるのにほかの女子と帰るというタブーを犯し、さらにほかの女子のことを相談するというタブーすら重ねたのだ。


未熟な俺の心を突き刺す、天罰が下った。


椿に不登校になってしまった彼女のことを相談していた帰り道、椿はそれを俺に見せた。


「きっと次来たら死ぬとか思っちゃったのかな?」


そう笑顔で言いつつ、ポケットから黒いメガネケースを出し、パカッと軽やかに開いた。


そこには、レンズがバキバキに割れ、右耳掛けすら折れた紺色のメガネだった。


明らかに、彼女のものだった。


俺は察してしまった。


何をしたのかはわからない。しかし、不登校になった原因は、間違いなくこいつにあるんだと。


それから俺は、できる限りほかの女子と関わらないように気をつけた。


しかし、そんな生活はつまらなく、3ヶ月もせずに俺はキレた。


思いの丈を全部ぶつけ、別れろと言い切った。


そして彼女は、笑ったのだ。


鈍く光るカッターを俺の肩に突き刺しながら。




「一生逃がさないからね?」




その言葉が、突如脳裏をよぎる。


すぐに彼女は警察に連れていかれた。

処分の内容など、聞いていなかった。


しかし彼女は転校し、俺と顔を合わせることはなくなった。


俺にも普通の生活が帰ってきて、順調に高校生活まで始めることも出来た。


だからこそ嫌だった。

また彼女に弄ばれる苦痛が。

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