憤怒 葛藤 悶絶
「ふーん。そっか」
伊藤は動画を見終わってから直也に携帯を返し、背を向けて呟いた。
「も、もう大丈夫だから、ね!」
何かに取り憑かれているような冷たい雰囲気に、俺は無意識に不器用な愛想笑いをしていた。
「海人がいいなら、いいけど…」
異様な空気になった教室で、居心地の悪そうな直也がポツリと呟いた。
きっと直也自身もそこまで納得していない。
が、この空気感に押されている。
「まぁ、もう帰ろう。ね?」
半分逃げたいような思いでそう提案した。
「あ、そうだな。うん。じゃあ先待ってるから」
直也も緊張気味に、冷や汗を浮かべて先に教室を出た。
バタンっと言う音と共に閉まる扉。
「えっと、静凪ちゃんも帰ろっか」
鈴木はこの空気感の中でも顔色一つ変えずに携帯をいじっている。
「んー?わかった」
そう言うと、携帯をポケットにしまって立ち上がった。
「へぇ、逃げるんだ」
伊藤が、釘を刺す用に振り返りつつ言った。
俺に言われたものなのか、鈴木に言ったものなのか。
タイミング的には鈴木に言っていた気がする。
いや、違う。
二人に言っている。
間違いなくそうだろう。
「…えっと、亜美ちゃん」
口を開いたのは鈴木だ。
スタスタと伊藤の前まで歩いていき、
「殴っていいよ」
そう言って、鈴木は目を閉じた。
一瞬、俺も伊藤もあっけにとられた。
伊藤の僅かに開いた口元は、一瞬で強張り、引き絞るように眉をひそめ、しなやかな手のひらは固く拳を握り、
「待って亜美ちゃ―――」
制止する前に彼女の右腕は打ち出され、
思わず目を瞑った。
女子らしい平手打ちの鞭のような音は弾かれなかった。
しかし、握り拳が頬に当たる音すら発されなかった。
「…亜美ちゃん?」
鈴木の消え入りそうな声が届き、俺もやっとゆっくりと目を開けた。
「ごめんね。先に帰った私が一番悪いね」
伊藤は、鈴木を抱きしめていた。
優しく、包み込むように。
その表情は、穏やかで、どこか悲しげな微笑みだった。
「えっと…」
鈴木は困ったように俺の方を見てきた。
だけどその表情は、なんとなく安堵したかのように綻んでいた。
「で、あの動画の件についてはもう解決してあるの?」
普段通りの席に戻ってから、伊藤が聞いてきた。
「うん。もう大丈夫」
そう答えたものの、実際にほんとに何も無いかは本人が一番わかってるだろうが、伊藤は俺に聞いてるし、鈴木も答える気などなさそうに携帯をいじり続けてる。
「そっか」
ポツリと呟いた。その表情や言葉から、どのような感情を込めた『そっか』なのかは分からない。
「あのさ、一体どんなことが」
内容を聞き始めようとした伊藤の口を手で抑えて制止した。
「…どしたの?」
手を離すと不思議そうに問いかけてきた。
俺はポケットから携帯を取り出して、
「多分本人にとってつらい記憶だと思うから、そのことについては今度俺から説明する」
とメールした。
そのメールを読んだ伊藤は、
「やっぱり、優しいね。海人君」
そう口頭で返事をした。
「そんなこと、無いよ」
愛想笑いをして、そう言った。
「はぁ、ごめんねほんとに」
「いやだからもういいって」
相も変わらずまだ罪悪感に苛まれている伊藤を軽くなだめた。
「しかも自分のせいなのに怒ったりしてほんとにごめん~」
机に突っ伏して泣き言のように謝罪をし続けている。
「大丈夫だよ亜美ちゃん。亜美ちゃんじゃなくてよくわからない人を頼った飯田君にも問題があるし」
鈴木も伊藤をなだめ始めた。
よくわからない人っていうのは康太の事だろうか。
「ねぇ静凪ちゃん…それ僕に矛先が向いちゃわない?」
「そうよ。なんで私になんも言わなかったの!?」
ガタンっと音を立てつつ椅子から立ち上がった。
「あー。そうだね。ごめんね」
精一杯の愛想笑いも引き攣った。
「確かにあの時帰ったのは悪いけどあんなことになるんだったら相談してくれれば良かったのに!」
鈴木の発言から急にスイッチが入ったように伊藤は元気を取り戻した。
「えっと、ごめんね?」
「ごめんじゃない。大事になってたらどうするの!」
もう既に割と大事になってるんだよな。と心で呟きつつ安っぽいごめんを繰り返した。
「謝れば済むと思ってるの!?」
伊藤は両手を机にバンっと激しい音を弾かせた。
「すみません…」
お前は俺の親かよ。と一言いいたい気分だ。
しかしそれを許さないほど伊藤はきりっと冴えた表情で、俺を睨みつけている。
「頼ってよ。私を!」
伊藤は鷲のように力強く俺の肩を掴んだ。
ミシミシと音が鳴るような凄まじい強さで。
「わ、わかったから待って痛い痛い痛いってば!」
「わかってない~!」
そういうと肩はさらに悲鳴をあげた。
骨に響くような鈍痛に思わず顔が歪んだ。
「待ってマジで肩が、肩がぁ~!!!」
「ドMに目覚めなさい海人君!」
そう言う彼女は獲物を狩るような目付きに美味しそうな獲物を見つけたハンターのように猟奇的に微笑んでいる。
狂ってる!?
「もう、その辺でやめてあげなよ~」
涙がこぼれそうになった瞬間、教卓でずっと携帯と向き合っていた鈴木が助け舟を出してくれた。
「せ、静凪ちゃん…!」
遅いよ。と言う気分もあるが素直に嬉しい。
「むぅ~」
伊藤はわかりやすく膨れながら手を離して元通りに座った。
「結局今日はあれ以来誰も来なかったね」
夕日が道を赤く照らす中、俺と伊藤はゆったりと自転車を押しながら坂を下る。
この辺りは人通りが少ない。
からからと自転車を押す音と、二人の足音、話し声だけが響いている。
「にしても直也君のホモっぷりにびっくりしたよ…」
伊藤は少し呆れたように笑っていた。
「まぁ、でもちゃんと好きなのは女の子だから」
それにつられて俺も少し呆れつつ笑ってしまった。
「直也君は進捗あった?恋人作り」
「ううん、全く。最近またアニメの話ばっかりになってるよ」
「そっか。私もほしいなぁ~彼氏」
おもむろにそんなことを言い出した。
「亜美ちゃんなら、作ろうとすればすぐできるよ」
伊藤は可愛い。確かにあざとかったりして女子から嫌われやすいかもしれないけど、純粋な男子は引っかかりやすい。
「誰でもいいわけじゃないって分かってて言ってるよね」
ちょっと拗ねたような口振りだった。
「んー。どうだろうね」
少しだけ悩んだ。
「あ、ねぇ」
伊藤が何かを思い出したように話しかけてきた。
「ん?」
「静凪って一体何があったの?」
「あー…」
俺はその事について、鈴木の前では知らないフリをするという約束の上であったことを話した。
俺の家であったことは省いて。
「そうなんだ…」
割と伊藤は深刻そうな表情を浮かべた。
「まぁ、もう収まったけどね」
「でも、静凪って意外と心脆いんだね…」
「え?」
伊藤のその言葉が少し気にかかった。
「だって、普通ネットでストーカーされても殺害予告でもされない限りそんなに怖くないよ」
そう言う伊藤は笑っていた。
割とそう言うことに慣れているから言えるのだろう。
「もう。亜美ちゃんが気丈夫すぎるんだよ…」
「あ、じゃあまたね」
家の前まで来て伊藤に手を振った。
「うん。また明日ね!」
元気に手を振る伊藤を見送って、家の中に入った。
午後11時。
半分寝落ちしそうな意識の中で、布団に一本髪の毛を見つけた。
俺のものより長い。
親は俺の部屋に入ってこないし、だとすると可能性があるのは…
「あーもうだるい」
鈴木のことを思い出し、そこから連鎖してすぐにキスのことまで思い出してしまった。
あの時の感触が蘇り、息苦しくなるような気分だ。
大きく深呼吸をして、掛け布団を抱き枕のようにしてゆっくりと意識を落ち着けた。
ほとんど残っていない彼女の残り香を感じた気がした。
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