第3話 遁世者の朝は早い。
遁世者の朝は早い。
山の中での自給自足の生活。慣れてしまうと悪くないものだ。
日課の薪拾いと薪割り、野生動物との語らい、畑を荒らす猪狩り、小鳥たちのさえずりを聴きながらの朝食、作物を食い散らす狸狩り、収穫しながらカラス狩りエトセトラエトセトラ。野生との戦いは、社会的動物に成り下がった人間にとって避けられぬ運命なのかもしれない。
とかくだらないことを考えながら、気づけばもう少しで太陽が最も高い位置に昇る頃合いだ。
「ふー、今夜は贅沢に肉三昧だな!」
こんな誰も聞いちゃいない独り言が出てきてしまうほど、彼はこの俗世を離れた暮らしに馴染んでいた。
なぜ彼がこのようなロハス(?)な生活をしているのか。理由は彼は人に見つかれば咎められてしまうからである。
「……ん?」
声が聞こえた、気がした。
遠くから、山の下の方からこちらに呼び掛けるような声がする。
「……のもー……た……もー!」
「まさかな」
ここには結界を張っていて、他人が彼の住み処に踏み入ろうと思わないよう、意識をすり替える魔法をかけてある。知らず知らずのうちにそこを避けて移動するように。
「たーのもー、たのもー!!」
しかし声は聞こえる。というか大きくなってきている。というか近づいてきている。というか「たのもー」って何だ、道場破りかよ。
……いや、いやいや。そんなわけはない。彼は焦りで高鳴る鼓動を抑えつつ、屋内に逃げ込む。この木造の建物は、彼の日頃の手入れと行き届いた掃除のおかげでいまだ新築のようなきらめきを放っている。へんぴな山奥に新築の木造住宅があれば怪しさ満点なのだが、焦る彼に冷静な思考は難しい。
「落ち着け、落ち着け……たまに武者修行とかなんとかで迷いこむやつがいるだろう。それと同じように隠れていればいい」
自身が張った結界に一抹の不安を抱え、こうした経験が一度ではないことを言い聞かせる。
しかし、声の主はあろうことか辿り着いてしまう。
「うわっ、何でこんなとこに新築の木造住宅が」
それが目についてしまえば当然の反応である。
声の主は迷いなく家屋の入り口たる扉の前まで歩んできた。
「リュカさーん、災厄の魔法使いさーん」
律儀に扉をノックして呼び掛ける声。ここまで近くで聞いて、彼はようやくその声が若い娘のものだと気づく。
ガタガタと木製の扉を揺らす音が響く。
「焦るな……俺は冷静だ。とても落ち着いている」
同じくガタガタ震える彼は、もはやうわ言のようにそう呟くばかりだ。
彼は扉にも細工をしており、家主の許可なく扉を開けられない魔法をかけている。彼は扉の前で耳をそばだてて、娘が諦めて立ち去るのを待つ。もしも冷静であるならば、自分を訪ねてくる人間がここにきて立ち去る可能性は極めて低いと考えてもよいものだが、彼は残念ながら冷静ではなかった。
「リュカさーん、ここにいるのはわかってるんですよー。おとなしく出てきて私の話を聞いてくださーい」
ドンドンドンと無遠慮に叩く扉の向こうの娘。次第に高鳴っていく彼の心音。
しかしふと、その恐怖心を煽る音が止む。立ち去るような足音はしない。
「よいしょっと」
代わりに、何か、布製のものをごそごそ動かしているのが聞こえる。
なんだ、何をしている。
「……あいたっ」
開いた! 開いたと言ったぞ! 結界だけでなく鍵の魔法まで破られた!
重ねて言うが、彼は冷静ではなかった。
『猫騙しとして先に思いきって扉を開け、相手が驚いている隙に正面から逃げてしまおう』
世間では追われる身である彼の、動揺をあらわにしたその思考を誰が責められようか。
もし彼を責める者がいるとすれば、それは彼自身である。
思いついた通りに、彼は扉を押し開ける。と、真ん前にいたのであろう娘の顔面に扉がぶつかる。
「あいたっ!」
同じ言葉を先ほども聞いた気がする。不幸にも彼の思考はそのことを思い出そうと逸れて、動きが止まってしまう。
尻餅をついて、額を押さえる娘。彼女を見下ろしたまま固まる男。
「いてて……あれ? 鍵開いてたんですか?」
「……………………は?」
娘の発した言葉に違和感をもつ男と、これ幸いとばかりに立ち上がり姿勢を正す娘。
「持久戦になると思って野宿の道具広げてたんですが……こうなればその必要はないですね」
「え? ……え?」
娘の言っていることに、脳の処理が追いつかない。きょろきょろと見回すと、その場に散乱した、布のリュック、毛布、ランプ、缶詰めや小型のナイフが目に入る。
「単刀直入に申し上げます。……『災厄の魔法使い』リュカさん、私をあなたの弟子にしてください!」
「は……あ」
ばっ、と頭を下げられ、彼に差し出される彼女の右の手。中指の先に、まだできて新しい、小さな切り傷が見てとれる。瞬間、彼の頭の中で、扉を隔てていたときの言葉と、扉をぶつけてしまったときの言葉がまるっと重なる。
『あ
「はぁぁぁあああああ!?」
さえずっていた小鳥たちが飛び去っていった。
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