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あたしは、スピーカー人間の捕獲が嫌いだった。ただ機械的に化け物を処理している委員や先輩を、うらめしく思ってもいた。親友がスピーカー化してよく分かる。スピーカー人間は、あくまで一人の人だ。人に深く傷つけられた、あわれな人間だ。そう思うと、うそで丸め込んで無理やり拘束する委員会のやり方が気に入らなかった。とはいっても、それ以外に方法はないから、あたしはいつものように非情にスピーカー人間を捕らえる。ひとり、ふたり。さんにん、よにんと。
森桜雅という名の男子がいた。あたしは、委員会の任務で同じクラスの彼を監視するようにといわれていた。クラスで目立たず、いつもひとりでもの静かな彼が、陰湿ないじめにあっているという情報があったのだ。いつでもスピーカー化していいようにということだろう、クラスメイトのあたしが監視役に抜擢された。そんな先輩のやりかたも、吐き気がするほどいやだ。それでもいいなりに、おとなしく彼を監視している自分がいる。
彼は、不思議なひとだった。とにかくいつでも一人で、誰かといることはほとんどなかった。いつも聞こえないほど小さな声でしゃべるのに、音楽の授業のときだけ、やけに大きな声で歌うのだ。クラス人はなにも言わないけれど、あたしは彼の歌声はとてもきれいだと思う。男子にしては高めの伸びやかなテノールは、ビロードの布がはためくように美しく上下して、きめ細かく滑らかに響くので、耳に心地よかった。いつも寡黙に、クールを装って無表情を決め込んでいる森桜雅。当初はいじめなんて受けていないのではと思っていたが、数日観察すると、スマホを見てかすかに顔をしかめたり、窓の外をぼんやり眺めながら、つっと眉をひそめたりと、ときおり辛い表情をみせた。
森は、たぶんあたしが監視していたことを知っていたのだろう。普通は監視されていると嫌なはずなのに、彼はなぜか嬉しそうにしていて、それはあたしを困惑させた。授業中に、教科書からふと顔を上げて、いつもの癖で森のほうに目を向けたことがある。あたしが森を見ていると、ふいに彼が振り向いてバッチリ目が合った。まずいと思って、あわてて目を逸らそうとすると、なんと森は、口の端をくいっと吊り上げて笑ったのだ。慣れていない、へたくそな笑顔だったが、嫌な感じはせず、それよりも森が笑ったことに度肝を抜かれて硬直した。彼はその後、照れくさそうに赤くなって前を向いたが、驚きの余韻はしばらく続いた。何せ、ずっと観察していた中で、森はただの一度も笑顔を見せたことがないのだ。三席分離れたあたしの席からでも、彼の耳が真っ赤になっているのが見えた。
女の勘、というものだろうか。一ヶ月ほどの監視で、分かったことがある。
森は、あたしのことが好きだ。彼はおそらく、あたしにほのかな恋愛感情を抱いている。女の勘といっても、彼のばかみたいにウブで分かりやすい反応を見ていると誰でも分かるってもんだろう。恋をすれば女は綺麗になり、男はかっこよくなり、森は明るくなる。いじめは続いているのだろうが、森はこころなしか笑顔が増え、雰囲気も明るくなった気がする。監視した結果オーライといえるのか分からないが、彼のスピーカー化の心配はなくなりそうだった。
そんなとき、桐谷先輩に委員会本部へ呼ばれた。
学校の端にあてがわれた小さな部屋が本部だ。クーラーもついていない、夏は暑くて冬は寒い、そんな場所であたし達はがんばっている。そんな扱いが酷すぎる本部のスライドドアの前にたどり着き、『スピーカー処理委員会本部』と書かれた手書きのプレートの下を三回ノックした。任務でもないのに先輩があたしを呼ぶ理由は一体なんなのだろう。もしかして、学校外への出動命令だろうか。
「どうぞ」中から先輩の声がした。
「社です。失礼します」
名乗って引き戸を開けると、会議机の中央に桐谷先輩が座っていた。書類が散らかった机に肘をついて手を組み、あたしを見つめて微笑んでいる先輩は、まるでアニメの中から飛び出してきたかのように完璧だった。大抵の女の子は、そんな姿を目にしただけで、雷に打たれたように一瞬で恋に落ちてしまうだろう。実際、後輩の女子も、先輩めあての子がほとんどだ。先輩自身も、自分の顔を売りにして、委員を集めたようなものだ。だからか、スピーカー処理委員会は、圧倒的に女子率が高い。かくいうあたしも、あの日の劇的な邂逅に、ほとばしる革命的な先輩の魅力に捕われたひとりの女なのだ。放課後の夕日が差し込む窓を背に、やや逆光になった先輩の、オレンジ色に照らされた姿はもはや、現実のものではないようだった。
「やあ」先輩の声は、それだけでしびれそうになるほど甘くて。
「何の用ですか」呪縛から逃れようとするように、目を逸らした。無意識に声も堅くなっている。
「なんだ。冷たいじゃないか」
からかうように笑いながら立ち上がった先輩を、眉をひそめたまま目の端に捉えた。
この人はこういうところがある。一言で言うと女たらし。どんな女の子でも落とせてしまうような笑顔を大安売りして、誰にでも甘い言葉を吐きかけ、簡単に人を傷つけることができる。あたしは一年、近くで桐谷先輩を見ていて、そんな彼に惑わされないように、自分を押さえつけてきた。
「茉莉?」あたしの名前を呼び、顔を覗き込んでくる。赤面してしまっただろうか。顔がすこし熱い。
「先輩―――近いです。」火照った頬を隠すようにうつむいて言う。
「ああ。すまん」顔を離した先輩を改めて直視した。
こころなしか、いつもより顔色が悪い気がする。苦笑いした先輩の頬に色は無く、今にも倒れてしまいそうなほどに白く透き通っていた。
「体調でも悪いんですか?」
「……え?」思わず尋ねると、意外にも鋭い目線で射抜かれてどきっとした。
「え、いや、すごく顔色が悪いので……」
少しどもりながら答えると、はっとしたように先輩は笑顔になって言った。
「ああ、ちょっと風邪気味なんだ。」
「そうなんですね。大丈夫ですか?」
心配そうな顔を作ると、少し嬉しそうに大丈夫と返してきた。これは普通の先輩と後輩の会話だよなと心の中で確認する。うん、大丈夫。
「ところで先輩、なんか用があったんじゃないですか?」
そんなことより、早く用件を言ってほしいのだ。こんなところに先輩とふたりきりなんて、危険すぎる。
「ああ」彼はすこし目を丸くしてにやっと笑った。なにか嫌な予感がする。
「森桜雅の話なんだが。分かるだろ、この前見とくように言った」
「はい」嫌な予感は的中したようだ。
「噂なんだけど、森が茉莉に恋愛感情を抱いているって」
「……それだけですか」思い切り渋い顔をして先輩を睨んでやった。やっぱり言われると思った。
「そんなに怒るなよ」朗らかに笑いながら先輩は言うが、これに関してはとにかく苛々する。
「噂は噂じゃないですか。そのためだけに呼んだのなら帰ります!」
「それだけと言ったらそれだけなんだけどな。ちょっと注意しておこうと思って」
「注意、ですか」帰ろうと背を向けたのを、もう一度反転させた。
「ああ」にやにやしていた先輩の顔が急に引き締まった。あたしのことを強く見据えて言う。
「茉莉も分かっていると思うが、処理委員とスピーカー人間との恋愛はNGだ。捕獲に支障をきたす恐れがある。」
「分かっています」あたしも先輩を睨んで答えた。「でも先輩……」
言いかけるも、先輩の言葉が折り重なってくる。
「恋愛っていうのは複雑だ。茉莉が森に好意を持っていなくても、くれぐれも気をつけろ。お前に恋したのをきっかけに、森のスピーカー化を防げるのなら良いんだけどな。二次災害だけは起こさないようにしとけ」
思いがけず本気で語っている桐谷先輩に戸惑った。こんなことで呼び出されたのか。本当に?
「……それだけですか?」尋ねると、先輩は急に声を荒げた。
「それだけ?おれは茉莉が心配で言ってるんだぞ!スピーカー人間にまた傷つけられる茉莉を見たくないから……!」
「先輩!」思わずカチンと来て、大声で遮ってしまった。
「森は、スピーカー人間じゃありません。」クールダウン、クールダウン。「あたしは、紫苑に傷つけられた訳でもありません。スピーカー人間を化け物のように、害でしかないように言うのはやめてください。かれらは―――――人間です!」
言い切ったあたしを、先輩はぽかんとした顔で見ていた。あたしも火照った顔で先輩を見つめていたが、やがて恥ずかしくなってきた。
「すいません……」先細った声で謝ると、先輩も我に返って謝った。「おれも、すまなかった」
「言い過ぎた」
「とりあえず、森のことはしっかり気をつけますから。」
「ああ。頼む」
もう一度先輩の顔を見ると、彼も恥ずかしそうに顔を背けて、白い頬はまだらに赤らんでいた。無理やり赤くなったように、それは妖艶に痛々しい光景だった。
「本当にこれでおしまいですよね?」
「ああ。」
あたしは少し微笑んで、桐谷先輩の細長い身体に背を向けた。気がつくと部屋はだいぶ暗くなっており、足下がぼんやり見えるほどになっていた。
「先輩」一歩一歩を確かめながら呼ぶ。
「なんだ」どこからか声がした。
「電気――――つけますね?」
「頼む。ありがとう」
電気のスイッチめがけて暗い本部を歩く。全く見えない訳ではなかったので、何気なく歩いていると、足下への注意が散漫になって何かを蹴ってしまった。ボスッと言う音とともに瓶が床に落ちて転がる音と、ジャラジャラという音が重なった。
「あっ、すみません!」
反射的に謝り、しゃがんで蹴ったものを確認した。あたしから三・四〇センチほど離れたところにジャムの瓶のようなものが転がっている。あたしは手を伸ばしてそれを取った。
「先輩、すみません。鞄蹴っちゃいました。」
何気なく手に取った瓶を見る。透明な茶色い瓶の中には、白い丸薬が大量に入っていた。丸い粒の白さが、わずかに明るい光でまぶしい。
「これって―――」
言いかけると、急に大きな手が伸びてきて薬瓶を握ったあたしの手の上に乗り、ぐっと押さえ込んだ。
はっとするのもつかの間、人の気配がぐっと近づいてきたと思ったら、もういっぽうの手で目を塞がれてしまった。暗い視界に戸惑う中、耳元に生暖かい息がかかった。
「だめだろ」
危険な香りを孕んだ先輩のささやきに、背筋がぞっとする。
「先輩―――――」
目を塞がれたまま、手から瓶が抜き取られるのを感じた。
「茉莉」目元に感じる先輩の素肌は、感覚を疑うほど冷たかった。「茉莉」「茉莉」
ぽつりぽつりと呟く声が、もう真っ暗な部屋に空虚に打ち上がる。
「これは、秘密だ」
先輩がかすかに笑った気配がした。耳元で呟いた先輩の吐息とともに、唇の湿った感触が耳たぶに伝わって、身体がかあっと熱くなる。
声を出す間もなく、背中に先輩の体重が軽くかかってすこし前のめりになった。器用に片手であたしの目を隠しながら、開いた腕を制服の上からぐるりと回してくる。「桐谷せんぱ……」言いかけたあたしの口は、すかさず降りてきた、目を塞いでいた方の手で蓋をされた。
「しー」冷たい風が頬にかかる。横を見ると、先輩の大きな二重の目が特大に映し出されて、必死で目を逸らした。
「茉莉」もう一度名前を呼ばれるが、今度は口を塞がれているので声が出せない。
「ありがとう」
意外な一言とともに、桐谷先輩はあまりにもあっさりとあたしを解放し、パチリと電気をつけた。
「お疲れ」
呆然と声も出せないあたしに、先輩はあっさりと言い放ったのだった。
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