第134話 色づく枝葉が彩る季節


 シャルが視察先から戻ってきたあと私はエセルのことを彼女に話し、エセルはお試しというかたちで私たちと同様にシャルの屋敷で暮らすことになった。一方、フィルモワールに敷かれていた警戒態勢が完全に解かれたことで、他の皆は徐々に元の生活を取り戻し始め、週末までの毎日は慌ただしく過ぎ去っていった。


 そうしてあっという間に待ち焦がれていた週末を迎えた私たちは、シャルに導かれてフィルモワールの北方に位置するシャントルヴェイユという場所に魔導列車で向かうこととなった。


「これは……実に見事な風景ね」


 駅を降りると、私たちの足元から八方の山々に見える稜線の先までもが、鮮やかな赤や朱、橙に加え、黄や濃紫といった種々の色に美しく彩られていて、自然という画布の上に描きだされた実に赴き深い風景が、見渡す限りに広がっていた。


「ふ、ここはまだほんの入り口みたいなものよ? 私たちが目指すところはあの山の上なのだから。さ、皆でこの美しい自然と心地よい空気を全身で感じながら、ゆっくり登って行きましょう」

「えっ、あんなところまで歩きで行くの? それなら船でびゅって飛んでいった方が早かったんじゃ……あいたっ!」

「エフェスったらもう。それじゃ風情も何もないでしょう? 皆でゆっくり自然の風景を眺めながら、おしゃべりするのが楽しいんだから」

「わ、分かってるよ。何もほっぺたをつねらなくてもいいのに……」

「は、エフェスにはまだそういう微妙な情景の良さみたいなものは、ちょっと分かりづらいんじゃないかな」

「よく言うよ、紅葉狩りのことを何処かの場所だと思ってたくせにぃ」

「おっと、これはこれは……」

「こらこらエセル、手が光ってるよ手が! 二人ともくだらないことで言い合いしてたら、あとで美味しいご飯が抜きになっちゃうよ?」

「それは困る。運動したあとは飯がいつもより上手くなるというのに、勿体ないじゃないか」

「いや、師匠のことじゃないですから……とにかくほら、行くわよ!」


 同行する仲間がここに来てまたさらに増えたことで、これまでには考えられなかったやり取りも新たに生まれ、実に和気藹々とした雰囲気に包まれながら、私たちは余すところなく敷き詰められた壮麗な紅葉の絨毯の上を歩いていった。


 自らの意思で以て家を棄てると共に故国であるロイゲンベルクを離れ、様々な不安と恐怖に日々苛まれながらフィルモワールを目指したあの時の私からすれば、こんな多くの仲間たちに囲まれて穏やかな時間を過ごせるようになるとは、本当に夢にも思わなかっただろうと感じた。


「それにしても本当に綺麗な景色ですよね、メル」

「ええ。ロイゲンベルクでも秋が深まる頃になると、ツァイフェルの駅前から長く伸びている、エルフェンバイン通りの銀杏並木が毎年、とても美しい光景を見せてくれていたのを思い出すわね」

「はい、お互いまだ学生だった頃ですよね。あの頃は学院を卒業したら、私たちの関係はどう変わっていくんだろうって、そのことがずっと気がかりでした。ちょうど妙齢に差し当たったこともあって、メルはそう遠くないうちに良家の殿方と縁談が組まれるものだと思っていましたから」

「リゼ……」

「けど、今はこうしてメルや皆と一緒に季節の移り変わりを楽しむ余裕があります。私にはそのことが、何よりも幸せであるように感じられますよ」


 ロイゲンベルクでは女性が女戸主となって家督を継いだ場合、襲爵することが叶わず、長く貴族の名を戴いていたラウシェンバッハの家もその爵位を返上するほか無く、それを回避するためには跡継ぎとなる殿方を養子に迎える必要があった。


 そこで当時、落胤の憑代となっていた父は、この私を使って婚礼の密約を秘密裏に進め、これまでの権力を維持するだけでなく、その婚約相手が持つ縁故を利用することで、時間をかけながら力を蓄えると共に自らの根もより広く張り巡らせて、いずれはロイゲンベルクを内部から支配しようとしていたであろうことが窺える。


 会ったこともない婚約相手と一緒にさせられてしまえば、もうその流れに抗うことは出来ず、正式に家督を継いで襲爵した結婚相手に言われるがままこの身も心も支配され、この私が次の跡継ぎとなるであろう子を身籠るためだけの存在と成り果てることは、当時の私からしても想像に難くなかった。


 そしてきっと孤児院からやってきたリゼも、私が伯爵夫人となることによって、その出自が私の侍女として不適合であると見做されると共にその任を解かれ、お母様の庇護も得られない以上はそのまま家を追い出されることになる。そうすればきっと私とリゼとはもう、二度と会うことが叶わない間柄になっていたに違いない。


 だからこそ私はあの日、リゼを残したままたった一人で家を飛び出した。しかしリゼは私が居なくなったことをすぐに察し、私がしたためた文を見るや否や、自らが仕える家を敵に回すことなど気にも留めず、ただ一心不乱にこの私を追いかけてきてくれた。


 私はあの時にツァイフェルの駅で、私の名前を呼んでくれたリゼの姿を、生涯忘れることはない。あの瞬間、私は彼女がずっと私の太陽であり続けていたことに、ようやく気が付いたのだから。


「ねぇ、リゼ……」

「どうかしましたか、メル?」

「手、繋いでいてもらってもいいかしら?」

「もちろんですよ……! ふふ、嬉しいです」


 繋いだリゼの手はとても温かくて、私の手よりも少し大きく感じた。何よりその手を通してリゼの慈愛に満ちた優しい想いがこの私の中に流れ込んでくるようで。私は自分の胸が自然と熱くなっていくのを感じた。


 それは、心地よいながらもほんの少しのうら寂しさと寒さとを伝えてくる蕭颯しょうさつたる秋風の中にあっても、まるで穏やかな春の陽光に包まれているかのような、極めて心が落ち着く感覚だった。


 そうして秋の彩りを湛えた山道を皆で会話を交わしながら登って行くと、その途中に休憩が出来る茶屋のような場所があり、私たちは少しそこで休むことにした。


「ねぇ見て、串に刺したお団子があるよ!」

「へぇ、砂糖醤油の葛餡くずあんに浸けられたものと、それぞれ色が違うものとがあるんだ。特にこの三色のお団子は可愛いよね。エセルも食べる?」

「ん、それもいいけれど、こっちも気になるかな」

「こっちって……あれメル、これってもしかして紅葉を揚げたのでしょうか?」

「紅葉の天ぷらですって。面白そうね、私も頂いてみようかしら」


 紅葉の天ぷらと称されたものは、一見するとその辺りに落ちている紅葉をただ揚げただけに見えたものの、いざ口の中に入れて見ると、思いのほか香ばしく、そのかりかりさくさくとした食感がまたとても小気味の良い感じで、さらにその衣に何か秘密があるのか、その後口に薫るような程よい甘みが余韻として残った。


「これは中々美味しいものね。歯触りも良い感じだわ」

「うむ。紅葉とはこうして見る以外にも、こんな楽しみ方があったのだな」

「……って、師匠もお食べになったのですね。何でも一年以上も塩漬けした紅葉に、特別な衣で揚げたのがこの天ぷららしいですよ。結構手間が掛かっているようで」

「あの、メル。私にも一口よろしいですか?」

「えっ? あぁリゼ。もちろんいいわよ、ほら」

「ありがとうございます。では早速……ん、これは結構いけますね! 東方で食べられているペスティーニョというお菓子の食感とも似ていますが、こちらはより軽く頂けるというか、あとを引く美味しさがありますね!」


 しばらくその茶屋で休憩した後、私たちは再び山頂を目指した。シャルによるとその頂上付近には寺院があるらしく、其処の舞台から見下ろす眺めがまた絶景だということで、さらにその近くには今日滞在する予定の宿があるという話だった。


 シャルは先んじて伝書鳩を使い、大部屋の予約を取っていたらしく、そこでは皆で紅葉を見ながら楽しめる、露天風呂が用意されているとのことだった。



 ***



「ふぅ、話していた寺院というのはここね? 私と同じように観光にきている方が多く居るようだわ」

「へぇ、フィルモワールでも見られないような独特の建築様式ですね。色づいた木々と相まって、とても情緒が感じられるというか……趣き深いです」

「あっちに赤い橋があるよ! 一緒に渡ってみようよ、エセル!」

「ちょ……ひっぱっちゃ駄目だって。い、今行くから」

「エフェスたちが行った方には大きな池があるみたいよ。どうやら舟遊しゅうゆう式の庭園になっているようね」


 鮮やかな朱色をした反り橋の上からは、数百年前からその形をほとんど変えていないという実に優美な庭園が広がっていて、池の水面には秋の色に染まった紅葉の倒景と、その上を楓の葉が小舟のように揺蕩い、何とも情趣のある風景がそこに描き出されていた。


 さらに池の中には錦鯉という見目美しい魚たちも泳いでおり、どうやら近くで彼らにあげるための餌も売り出されているようだった。


「ねぇ、ここにいるおっきな魚たちに餌があげられるんだって! あげてもいい?」

「もちろん良いわよ、エフェスちゃん。ほら、これで買っていらっしゃい」

「ありがとうシャル姉さま! エセル、行こう!」

「だ、だから引っ張らないでってば……!」

「シャル、姉さま……? あの子って前からシャルのことをそんな風に呼んでいたかしら?」

「ふふ、私からお願いしたのよ。私、実は妹が欲しかったものだから、一度そう呼ばれてみたかったのよね」


 程なくエフェスたちは橋の上から池に居る錦鯉に餌をやり、自分たちのほうに集まって来てはその餌を食べようと、彼らがぱくぱくとその口を大きく広げるさまを見て、とても面白がっているようだった。そしてシャルはそんな彼女たちを眺めながら、微笑ましいものを見ているような表情を浮かべていた。


「メル、私たちはあちらの五重塔がある方に行ってみましょうか?」

「そうね。ではシャルにレイラ、私たちは少し先にあちらの方に行っているわ」

「ええ、メル。また後でね」


 リゼが指し示した方には遠くからでもはっきりと見える、層塔と言われる構造を持つ楼閣形の建造物があった。それは別大陸から宗教と共に伝わった建築様式らしく、何でも聖者の遺骨を祀るために作られたものであるようだった。


 雪肌せっきのような白壁に見事な朱色を湛えた複雑な構造が実に美しく映え、層ごとに存在する屋根は檜皮葺ひわだぶきという、ひのきの樹皮を利用して専門の職人が作りあげたものらしく、またその最上部には相輪といわれる、玉や輪の形をしたものに装飾された、金属製と思しき棒状の構造物が、天に向かって伸びていた。


「とても立派な塔ですね、この案内板を見る限りだと、これも別大陸から伝わった建築だそうですが、何とも不思議な良さがありますよね」

「ええ、本当に荘厳な雰囲気があるわ。それにしても、別の大陸か……」

「ん、どうしました、メル?」

「ねぇ、リゼ。別大陸にある国ってどんな感じなのかしら。これまでに見た書物の中にも、別大陸のことについて触れたものはほとんどなかったの」

「そうですね……私たちとはまったく異なる文化や宗教観を持つ国々がたくさんあると聞いていますが、実際に行ってみないことには判りませんね」

「なら、いつか二人で行ってみるのも良いかもしれないわ」

「えっ……?」

「この大陸でやりたいことを全部やり尽くしてからになるだろうけれど、もしいつかその時がきたら……あなたはまた、私の隣を歩いてくれる?」

「メル……もちろんです。この私がいつだってそのお傍に居て、メルの行きたい場所にその手を引いてお連れしますよ……何処までも」

「ふふ、あなたならきっとそう言ってくれるって思っていたわ。今のは二人だけの秘密の約束よ?」

「はい。私とメルだけの約束です!」

「あっ、いたいた。メルお姉ちゃんたち、これから皆で奥のお堂の方に行こうってシャル姉さまが言ってるよ! そこですごい景色が見れるんだって!」

「ん……分かったわエフェス、すぐにそっちに合流するわね。じゃあリゼ、皆のところへ行きましょうか」

「分かりました!」


 そして私は再びリゼと手を繋いでシャルたちと寺院の中を一頻り見て回り、やがてお堂の奥で外側に大きくせり出した舞台と称されている場所に移動し、そこから見下ろせる絶景を目にして、皆がその壮麗な眺めを受けて一様に溜息を洩らしながら、しばらくその景色を瞳の向こう側に刻んでいた。


「本当に素敵な眺めね……けど、こうして美しいものと美しいと感じ、大切な人と同じ時間と感覚とを共有できるのは……生きているからこそ、よね」

「ええ……私は生きていて、メルと一緒にここまで来ることが出来て……幸せですよ。この世界に居る他の誰よりも、きっと一番、幸せです」


 今こうして眼前に広がる見事な絶景も、隣で笑うリゼを見て微笑み返すことが出来るのも、何度も失いかけたこの命を拾って、繋ぎ止めてくれた人たちが居てくれたからこそここにある。だから私は、この今を生きることが叶わなかった命のためにも、掛け替えのない皆との時間をこれからも大切にしていこうと強く感じた。

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