第128話 奇跡を信じて


「これだわ……! リゼにはもう口を開けてものを飲み込む力なんて残ってはいないけれど、この水を直接傷口に掛ければ……きっと!」


 私は変若水アムリタの収められた容器をすぐさま開封し、リベラディウスの剣身が貫通した創傷部分に、その青白い液体をゆっくり注ぎ始めた。ただひたすらに、奇跡というものが今ここに起こることを信じて。


「あぁ神様、どうか……どうかお願い……! リゼを連れて行かないで、私のもとに今すぐお返しください……!」


 私が注いだ変若水は、間もなくリゼの受傷部位から内部へと浸透してゆき、やがてその淡い青の煌きが腹部から全身へと流れていくさまが見て取れた。すると驚くべきことに冷たくなっていたリゼの身体に仄かな熱が徐々に戻り始め、血色がすっかり失われていた蒼白色をした顔にも、俄かに赤みが差していくのが判った。


「リゼ……! これなら……!」


 リゼが見せた反応に確かな手応えを感じた私は、彼女の左胸の辺りに耳を宛てがい、再び生命の鼓動が触れる瞬間を待った。そして心の底から待ち望んだその時は、間もなく私の前に訪れた。


「聞こえ……る……リゼの生きている証が……ちゃんと、聞こえる……!」


 リゼから伝わってきた命の流れは、最初こそ今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯火のように弱々しかったものの、次第にその強さと速さとを増していき、青紫の色を帯びていたその唇には、本来の鮮やかな色差しが戻りつつあった。


「リゼ……んっ……」


 私は、リゼに自ら生命の息吹を吹き込むように、その唇に自身のそれを重ね合わせ、生きている熱と鼓動と、そして彼女への揺るぎない想いを伝えた。やがて柔らかな温もりの中で一つに溶け合ったそれらは、リゼの身体の奥底にも深く沁み込んでいったようで、終には二度と開くことはないであろう重い扉、その向こう側に果てしなく広がる闇に閉ざされた彼女を、再び光ある場所へと導く燈火となった。


「ん……んん……」

「リゼ……! 私よ、メルセデスよ! 私の声が聞こえて⁉」

「ん、んんっ……この、声は……メ……ル?」


 まだおぼろげな瞳の中に、自分の姿を見た私は、堪らずリゼの身体を抱き締め、全身で彼女という存在をこの肌を通して感じた。


「リゼ……! リゼぇ……! う……ううっ……よか……った……!」

「わた……しは……生き、て……?」

「そうよ、リゼ……! 生きているの……あなたは、生きているのよ! うっ……もうずっと、離さないんだから……!」

「わふっ……メ……ル! くるしい……苦しい……です!」

「私は、あなたが居なくなってしまうって思って、もっと苦しかったのだから……! 少しくらい我慢なさい……!」

「もう……大丈夫、ですよメル……私はもう、何処へも行ったりは……しませんから。これまでもこれからもずっと……あなたの隣に居させてください」

「当たり前よ……たとえあなたが離れようとしたって、鎖で括りつけて逃げられないようにしてやるんだから……」

「ふふ……メルに独り占めにされるのなら、本望……ですよ。それこそ死の半歩手前まで行った甲斐があるという……ものです」

「また何馬鹿なことを……それよりも、改めてあなたに言っておかなくてはね。……おかえりなさい、リゼ」

「……ただいま戻りました、メル」


 そうして一頻りお互いに抱き締め合い、その存在が確かにここにあるということを一緒に感じながら、不安と絶望とに満ちていたその胸を、ようやく撫で下ろすことが叶った。その後、水晶竜の鱗を使ってレイラたちと再び連絡を取ることが出来た私たちは、彼女たちと合流し双方が共に無事だったことを心から喜んだ。


「本当に良かったです……メル。こうしてまたお互いに目を見ながら、声を掛け合うことが出来て……」

「こっちも大変だったよ……妖魔がもう次から次へと出てきてさ、きりがなくって」

「けど、よく耐え忍んでくれたよ、エフェス」

「それでシャル、あなたたちが戦っていた妖魔は何処に?」

「あぁ、それなら――」


 シャルの話によれば、先に私がレイラと思念交信を行った時点で、彼女たちの居た空間に妙な気配が満ち溢れ、他の場所へと通じる出入口が悉く白い靄で覆われたかと思うと、そこから夥しい数の妖魔たちが現れ、突然のことに吃驚したシャルたちに容赦なく襲い掛かってきたのだという。


 そこでシャルたちはやってきた妖魔たちに対してすぐに応戦し、皆との連携を以て見事に返り討ちにしたものの、程なくしてまた同規模の集団が襲来、そしてそれを撃破するとまた新手が出現するといったことの繰り返しで、自分たちだけが一方的に疲弊していく状況を尻目に、まさに底無しとばかりに休み無く湧いてくる相手の勢力に恐怖すら覚えたという。


 そして継戦のための仙薬が全て尽き、いよいよ後が無くなったという時、突如として辺りに雷鳴のような大音響が轟き、それと共に妖魔たちを導いていた白い靄が嘘のように晴れ渡り、相手をしていた最中の妖魔たちも一斉に苦しみだしたかと思えば、その悉くが時を移さずに消滅したとのことだった。


「きっとそれは、あの落胤が滅び去った瞬間のことね……彼の妖気が消えたことで、それをもとに動いていた術式や魔紋が効力を失って、元通りになったんだわ」

「何はともあれ、あなたたちがその落胤を討滅してくれたおかげで、皆無事に乗り切ることが出来たわ……本当に、よくやってくれたわよ。ねぇ、ステラ」

「シャルの言う通りです……私からも心からの感謝を。仮にあと少し戦いが長引いていれば、今頃どうなっていたか想像するのが怖いくらいですもの……」


 レイラたちは自分たちも死を間近に感じるほど酷く消耗した状態で戦っていたにも関わらず、その皆が私とリゼとに深い謝意を表すと共に、温かな労いの言葉までをも掛けてくれたのが、私にはとても嬉しく思えた。


 もしも私が落胤にやられていたら、あるいはもしも落胤を倒すまでにもう少し時間がかかっていたら、私たちが今こうして言葉を交わすことは決して叶わなかった。しかし今ここに皆が無事に至る道を選んで、その先に辿り着くことが出来たのもまた、私たちの皆が命を賭して戦った結果だった。


「そうだわ……皆にも話をしておかないとね」


 そこで私は、落胤が私の父の肉体に長らく憑依した上で今回の事態を巻き起こしていたことと、激戦の末にその父から引き剥がした落胤が、あろうことかリゼの肉体を乗っ取ったものの、まだ辛うじて自分の意思が残っていたリゼの己すらも顧みない決死の行動によって、それを何とか討ち滅ぼすことが出来た旨を皆に伝えた。


「何というか、私たちが思っていた以上に、危険な状況を迎えていたのですね……もしエセルのくれたその霊水が無ったらと思うと……震えてしまいます」

「ええ、レイラ。あなたも魔素のほとんどを使い果たして、仮に早く合流出来ていたとしても治癒術を行使できるだけの余力は無かったでしょうから、あれをくれたエセルには心から感謝したいところよ……」

「時にメル、お父上様のお身体は……?」

「父は……落胤に憑依されていた間中、その心身共に相当な負荷がかかっていたようでね……命に別状はないようだったけれど、意識を取り戻すまでにはきっとかなりの時間が掛かると思うわ。元の記憶が残っているかどうかは、まだ私にも判らない」

「そうですか……となれば、事情を訊くのは随分と先の話になりそうですが、今のうちに打てる手は、先んじて打っておかなくてはなりませんよ……メル」


 アンリが直接言及せずとも覗かせていた懸念の色はおそらく、私の父が一連の事態を引き起こした張本人として処断されるであろうことに関してのもので、このロイゲンベルクの国家を転覆する寸前の状況にまで陥らせただけに留まらず、世界各国にも同様の危機を齎した事実が明らかになれば、父に対する極刑はもちろんのこと、いわゆる縁座――血の繋がりがある私や、元々ラウシェンバッハの家に仕えていたリゼにさえも、その責任の一端が及ぶことになりかねなかった。


「ただ私は、この国では事実上、お尋ね者の身分だから……まずは一連の事情を話して相手にそれを聞いてもらえるだけの信用が必要よね……」

「そこはきっと、女王陛下がお力を貸してくださいますよ……メルはフィルモワールの国民でもあるのですから。とにかく今のうちにお父上様の身体を船の中に運びましょう」

「ありがとうアンリ。面倒を掛けるわね……」


 それからややあって、最も多くの力を残していた師匠が父の身体を担ぎ、皆で揃って城内にある広場に移動して、其処に停めてある空中船に乗ろうとした時、私は向こう側から誰かがこちらに向かって走ってきていることに気が付いた。


「そこの者たち、止まりなさい!」

「……ん? あれって……もしかして」


 うねりながら燃え盛る炎のように、縦方向に幾重にも巻かれた長い髪に、紅榴石ガーネットの如く深い紅蓮の煌きを燈した明眸は、かつて学院で私やリゼと真っ向から対立したイングリートのそれと酷似どころか完全に一致しており、何より私の耳が捉えたその声色からしても、私の記憶の中にあるものたちが、紛う方なき同一人物であると首肯しているのが分かった。


「あなた……は、まさかメルセデス……⁉」

「お久しぶりね、イングリート……あなたは、どうしてこんなところに?」

「それはこちらの台詞でしてよ……わたくし、今は王城に仕える宮廷魔現士の一人としてこの国を守護している身ですの。そしてつい先ほどまでは多くの国民や王族の方々が避難しているローゼン・アルカディアンで他の仲間たちと共に、降って湧いた妖魔たちの襲来を防ぐ任務にあたっていましたわ」

「……ということは、今はあの学院が避難場所になっていると?」

「広大な敷地面積と堅牢な建物に加え、妖魔に対抗出来るだけの戦力が十分に揃っているといえばあの場所をおいて他には……しかし、国中を覆っていたあの妖雲が急に消え失せたので、何か重大な変化があったのではと考え、炎を用いた飛翔術が使える私が、単独でこちらに赴いたのですけれど……説明、していただけるかしら?」

「……そうね、お尋ね者の私が今どうしてここにいるかということ、よね」


 そこで私はこれまでの経緯について、途中リゼたちが加えた補足も踏まえながら、可能な限り解り易くイングリートに伝えた。私たちから齎された情報を受けて、彼女にはそれが相当な衝撃だったのか、時折酷く狼狽した顔を見せたものの、どうやらここに至るまでの状況を呑み込むことが出来た様子だった。


「お話は……解りましたわ。しかしそうなると……あの少女が言っていた話は全て本当だったということかしら……」

「ん……イングリート、あの少女というのは?」

「私たちが、国民を避難場所へと誘導する際に力を貸してくれた少女がいましたの。名前は聞きそびれてしまいましたが、その幼い見た目とは裏腹に凄まじい威力を持った魔現を使う子で……ちょうどそこに立っている子と、極めてよく似た形貌をしていましたわ。ひょっとしてあなたの姉妹なのではなくて?」

「えっ! 私と似てるって、それって……!」

「……エセルだわ! あの子、やっぱり生きていたのよ……! それで、今その子はどこに?」

「それが、一通り国民の避難が完了したあとに、名前も言わずに何処かへ消えてしまいましたの。ただそうして居なくなる直前に、あなたたちのことを話していましたわ。もうすぐあなたたちがここに来て、きっとこの嫌な雲を晴らしてくれる、と。それで全てが上手くいったなら、自分にもその最後の仕上げが出来る、とか……」

「最後の、仕上げ……? それは一体――」


 私がそこまで言った瞬間、地震と思しき大きな揺れが私たちに伝播し、そのあまりの振動に立っていられなくなった私たちは、揃ってその身を屈めた。


「こんな時に地震……? もう落胤は完全に倒したのだから、これ以上何かが起こることは無いはずよ……⁉」

「……はっ! メル、東の方を見て下さい!」

「えっ、東……? あれ、は……!」


 私がリゼの言う通りにその視線を東の空へと向けると、そこには虹色に煌く光の奔流が、恰も空を支える柱のように真っすぐと天を目指して伸びていく光景が広がっていた。それからやがて天の頂を七色に染め上げた輝きは、雪のようにはらはらと舞う温かな光の粒となって私たちの居る地上へと降り注いできた。


 まるで光の天使たちが大空から一斉に舞い降り、依然として妖気の残滓が多く残っているこの地平の全てを、美しく彩っていくかのように。

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