第127話 一秒の永遠
「よく見れば、ちゃんと息もしている……意識だけはきっとすぐには戻らないだろうけれど、この分ならそう遠くないうちに目を覚ますはずだわ」
落胤が居なくなった以上、おそらく私たちをここに閉じ込めていたあの白い靄のようなものも消えているはず。今は早くレイラたちと合流し、周囲の安全と状況とを確認しながら城を脱出して、まだ残っているであろう諸問題にしっかりとした対処をしていかなくてはならない。
それも、落胤を倒したこの今にあっては、部屋に散らばった道具を元の場所に戻すぐらいの軽作業であるように感じられる。
「さて……と。リゼ、こちらに来て一緒に父を――」
「はあっ!」
「いっ……⁉ ぐっ!」
それはあまりに突然のことで、尚且つ酷く消耗していた影響も手伝って、私は何者かによって振り下ろされた刃をこの身に受けてしまった。ただ僅かながらも、己の身体がその被害を減じるための動きを咄嗟に見せたことで、私の受けた傷は左の脇腹を斬られたぐらいに留まった。また不幸中の幸いか、その傷は決して深いものでは無く、何とか致命傷になることだけは避けられたようだった。
そして間もなく、私が恐る恐る自分を斬った相手の方に顔を向けると、その視線の先には、リベラディウスを右の手に携えながら、これまでに一度も見たことも無いほどに不気味な笑みを浮かべた、リゼの姿があった。
「ふ……ふふふ、どうやら上手くいったようだな」
「リ、ゼ……? 嘘……どうして、あなたが……」
「本来なら、あのまま滅びるはずだったが……消散しかかった身体を必死に繋ぎ止め、無我夢中でこの娘の中に入り込んだのだ。今も極めて不安定であることに変わりはないが、お前を始末するための急拵えとしては十分だろう。あとはこやつの身体を利用して、お前の仲間を一人ずつ消してやる」
「あぁ、何て……こと……! 返して……! 今すぐにリゼを返して!」
「その目……この娘はおそらく、お前がこの世で最も愛する人間なのであろうな。なら良かったではないか。たった今から己の命が、その最愛の存在によって奪われるのだからなぁ!」
「うっ……くあっ!」
私の身体は限界を超えて酷使した反動から、常のように動かすことは極めて困難になっていて、落胤が憑りついたリゼの繰り出した斬撃を避けようとしただけで、脚が
「死ねィ!」
「あああっ……!」
既に大きく天に向かって掲げられていた刃に対し、もはや転がって避ける気力すらも残っていなかった私は、両腕で頭を覆い隠すことぐらいしか出来ず、その刃が己の身に降りかかる瞬間を、ただ待つことしか出来ないでいた。
「ぬ……ぐ……な、何……だ⁉」
「えっ……?」
(メル……私の声が、聞こえ……ますか?)
(これは、リゼの声……? 一体、何がどうなって……⁉)
眼前に立つリゼの身体は、私に剣を振り下ろそうとした恰好のまま、空間に固く縫い付けられたかのように全身が硬直している様子で、さらにその彼女から水晶竜の鱗を通して思念による声がこちらに伝わってくるという、頭の理解が全く追い付かない状況になっていた。
(リゼ……! 聞こえるわ……あなたの声、ちゃんと聞こえているわよ!)
(メル、こうしてまた声を交わせて、良かった……です。私の身体は、見ての通り落胤の精神体に蝕まれてしまったようで、自分の意思とは関係なく動いています)
(リゼ、何とかしてあなたの身体から落胤を追い出すわ……!)
(それはきっと、無理です。仮に出来たとしても、今度はおそらくメルの身体が乗っ取られるでしょう。この今も……だんだん意識が遠くなってくる気が、します)
(だからって何もしないわけにはいかないわ! 必ず何か道があるはず!)
(よく……聞いてください、メル。私は、自分の意思がまだ残っている、間……に、この精神体に、最後の力を使って決定的な損害を……与えてみせます。おそらく落胤も、次の攻撃に耐えられるほどの力は……残っていない、でしょう)
(最後の力って……一体あなた、何をするつもりなの……?)
そのリゼの言葉に、私は酷く嫌な予感がした。リゼの言葉を反芻すれば、間もなく彼女の意思は落胤による精神の侵蝕によって呑み込まれてしまうものの、彼女はそうなってしまう前に、残された力を振り絞って落胤に致命的な損害を与える何らかの行動を起こすようだった。そして私の不安感を何よりも強く煽ったのは、彼女自身がその残存する力を指して、最後の力と形容していたこと。
(私には……私の身体がメルを傷つけるだなんて、自分の身を斬るよりもずっと、ずっと辛いことです。それにこのままではきっと、メルだけに留まらず、私を騙ってエフェスや他の仲間たちの命すらをも奪ってしまうことでしょう。だから私は……そうなる前に、今の私にしか出来ない手を打ちます)
(待ってリゼ、あなたもしかして……!)
(…………)
(自分を、犠牲にするつもりでしょう……! 駄目よリゼ、それだけは絶対に駄目! 約束したじゃない、皆で一緒にフィルモワールに帰るんだって……!)
(ごめんなさい……メル。その約束はどうやら、守れそうにありません……けど、もう一つの約束は、必ず守って見せます。たとえこの姿は見えなくなっても、このリーゼロッテは、これからも常にあなたと共にあります……願わくば、あなたを置いて先に行ってしまう私を、どうか……どうか、お許し……ください!)
(やめて……やめてよリゼ! お願い……! 私を……私を置いていかないで! ここであなたを失ってしまったら私……もう、生きてなんていけない!)
(私だって……私だって死にたくなんてありません……! 私はあなたのことをもっともっと知りたい! あなたと二人でまだ見たことも無い風景をたくさん見たい! ずっと、ずっとあなたの隣で、おばあちゃんになるまで生きていたい!)
(リゼ……! だったら……!)
(だけど……もう、時間が……! もうすぐこの身体は私の手から離れて、あなたを
(待ってリゼ……駄目! お願い、お願いだから早まらないで!)
するとリゼの硬直していた身体が再び動き始め、彼女はその手にしていた剣の柄を両手で掴み直すと、その切っ先を自分の方へと向けた。
「こ、これは……お前、もしや自分の身に剣を……! ぐっ……! な、何故だ……何故身体が、いうことを聞かぬ!」
それを見た私は、力の入らない足を置いて地を這いながら必死に彼女に近づこうとしたものの、もはやこの手が届くよりも先にリゼは、緩やかに流れ始めた時の中で、その両手にした剣の切っ先を迷いなく自らに突き立て始めていた。慈愛に満ちた優しい瞳の中に私を映して、太陽のように温かく微笑みかけながら。
(ありがとう……メル。あなたと出会えて、私は本当に……幸せでした)
「リ……リゼぇえぇええええぇ!」
リゼと過ごした日々が今そこにあるように色鮮やかに描き出される。
それは、私とあなたとが初めて出会った日。
それは、私とあなたが初めてお互いの名前を呼んだ日。
それは、私とあなたが初めて手を繋ぎながら一緒に眠った日。
それは、あなたと初めてお屋敷を抜け出して街に出た日。
それは、あなたと初めて一緒にお菓子を作った日。
それは、あなたと初めて湖に遊びに出かけた日。
それは、あなたに初めてこの命を助けられた日。
それは、あなたが初めて私のために涙を流してくれた日。
それは、あなたに初めて生きていく意味を教えてもらった日。
それは、あなたが初めて私のためにお弁当を作ってくれた日。
それは、あなたが初めて私のために激しい怒りを露わにした日。
それは、あなたが初めて自分の意思で共に育った場所を棄てた日。
それは、私が初めてあなたの気持ちを知った日。
それは、私が初めてあなたと一緒に本物の海を見た日。
それは、私が初めてあなたと唇を交わした、忘れられない日。
それらは、あなたと共に過ごしてきた美しく、時に痛みを伴う時間の記憶。しかしそのいずれもが、私にとっては全て大切な想い出であり、誰にも譲れない私だけの宝物。私が秘めていた密かな夢は、これからそんな掛け替えのないあなたと一緒になって、お互いの想いを綴ってきた日記に、新たな頁を刻んでいくことだった。
しかしそれはあなたがいつも私の隣にいてくれたからこそ、出来たこと。故にあなたが居なくなってしまえば、その夢の続きを描くことは二度と叶わなくなる。
その夢の続きを見ようと、私がどれだけ手を伸ばしても、瞳の中に居るあなたとの距離は近いようで無限のように遠く、私がいかにその身体に触れようとしても、この想いばかりが指間を抜ける砂の如く、ただ音もなく通り抜けていく。
そしてやがて永遠にも等しく感じられていた時が再び元の歩みを取り戻した瞬間、リベラディウスの切っ先が静かにリゼの身体の奥深くへと沈み込み、それは間もなく彼女の背中側へと通り抜けて行った。
「あ……あぁ……っ!」
「うっ、ぐぉおおぉおおぉおおっ!」
リゼは
するとリゼは、落胤の支配から自身の心身を取り戻したのかその眼に常の輝きを再び宿し、剣を自身の身体から抜き去ると、数歩分だけこちらに歩き出したのも束の間、携えた剣を手から落とすと共に、両膝を突いてその場に崩れた。
それを見た私は両肘を足代わりにして必死に地を這い、ようやく彼女の身体に手が届く距離にまで辿り着くことが出来た。
「う……うぅ、メ……ル……?」
「リ、ゼ……私は……私、は……!」
「ふふ……もう、暗くて、ほとんど何も、見え……ませんが……この、手に伝わって、くる、優しい温もりは……確かに、メルのもの……です」
「うっ……! ごめん、なさい……ごめんなさい、リゼ。私、あなたを救うことが出来なかった……こんなに近くに居ながら、何もしてあげられなかった……!」
「いいん……です、メル。だって、またこうして、あなたの……温もりに、包まれているんですから……今の私は……何も怖くなんて、ありませんよ?」
リゼの腹部は既に夥しい量の血で真っ赤に染まり、その背中には刻々と拡がりを見せる紅が描かれていった。その双眸は出血の影響からか、きっともう光を捉えることが叶わない様子ながらも、声の位置から私の顔がある位置がちゃんと判るようで、私に抱かれたリゼは急速に色を失っていくその顔を優しげに綻ばせていた。
「私は怖いわ、リゼ……あなたを失うことが……何よりも怖い……怖くて怖くて仕方がない……! どうして私は、目の前で消えようとしているあなたの命を救うことが出来ないの……⁉ なぜ私はこんなにも……無力なの……⁉」
「そんな、ことを……言わないで、ください……メル。私はもう、十分救っていただきました……よ? 私は、私のことを家族として……そして何より、私の想いを受け容れてくれたメル……あなたの隣に居られた、ことを……誇りに、思います」
「うっ、私だって……私だって、あなたがいつも隣に居てくれたからこそ、ここまで来れた……生き抜くことが出来たの……! だからお願い……これからもずっと、私の傍にいて……一人では何も出来ない私を支えて……お願いよ、リゼ……!」
「メル……あ、あぁ、もう声が……遠くの、ほうに……行って……」
「……嫌よリゼ、嫌ぁ! そっちに行かないで……私を置いて、行かないでぇ!」
「メ、ル……私、は……心、から……あなた……のことを、愛して、いま……す……いつま、で……も、だれ……より、も、ずっ……と」
その瞬間、リゼの双眸がゆっくりと閉ざされ、私が握り締めていた手に残っていた熱がするりと抜け落ちたような感覚を覚えた。
「嘘、でしょ……リゼ、寝たふりをしているだけ、なんでしょう? ねぇ……?」
私が幾ら問いかけても、その麗しい唇は時が凍てついたかのように動かず、その細く白い首は糸の切れた人形のように、力無くだらりと垂れていた。
「私……は、結局また……失っ……て……! あ……あぁ……!」
全身から四肢が抜け落ちたかのような感覚に支配された私は、既に冷たくなり始めていたリゼの身体に覆い被さるようにして、そのまま
「う……ううぅ……うぅ! あ、あ、あぁあぁあああぁああっ……!」
そして私が大きく前のめりになって深く項垂れたその時、私の懐中からふと何かが零れ落ち、全てが暈けている世界に閉ざされたこの私に、青白い光のようなものがそっと微笑みかけるように煌いたのが見えた。
「こ……れは……あの、時の……!」
それはかつてエセルが、この私に餞別と称して渡してきた菱形の容器で、その中には以前、二度と使い物にならないほど酷く損傷した彼女の左腕をも瞬く間に快癒させたという、青白い輝きを湛えた霊薬――
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