第124話 八紘燼滅
「グ……グウッ……! オ、オノレ小娘ガァ……!」
私の剣によって縦に切り裂かれた落胤の精神体からは妖血の代わりに凄まじい量の魔炎が吹き溢れ、辺りの床面には青紫色の炎が
「並の妖魔なら今の一撃で間違いなく討滅出来たものの、流石は落胤ということかしら。けど確実に損害を与えること自体は出来たはず……」
「ええ。ただそれと同時に、激しい怒りの炎を焚き付けてしまったのもまた、確かなようですね……」
落胤の巨躯から迸る魔炎の火勢はさらに
「塵スラ残サズ、消シ去ッテクレル……」
すると落胤の周囲を取り巻いていた猛炎が、たちまちその身体の中へと吸い込まれていき、その内部にまるで太陽を呑み込んだかのような圧倒的な熱量が充溢していくのを私はこの肌を通して感じ取った。
「このただならぬ気配は、何かとても嫌な予感がする……!」
かつて私が見た歴史的な災害に関する文献の中に、大地震の後に程なく押し寄せた津波によって海沿いの街が悉く壊滅的な被害を被ったとの記述があったが、その直前には驚くべき速度で波が沖へと引いていく様子が観察されたという。そして今のこの状況は、まさにその津波が来る前の静けさであるように私には感じられた。
そこで私は、即座にリベラディウスの切っ先に高密度の魔素を集約し、自身を中心として円を描いた上で、魔素を帯びさせた指先を使って剣身に素早く魔紋を刻み込み、その剣を自身の足元に突き立てて発動する、私が独自に編み出した防衛術を以て、おそらくこれから私たちに迫り来るであろう劫火の段波に備えることにした。
「
「メル、その術技は……?」
「説明はあとよリゼ! 今すぐに私の後ろについて、姿勢を低くして頂戴!」
「えっ、は……はい!」
「消シ飛ベ……!
「……来る!」
その瞬間、視界の全てが魔炎の
「くうっ……⁉ ぐっ……っくああああっ!」
「メ、メル! 私も、力を貸します!」
今にも大きく吹き飛ばされて、灰燼に帰してしまいそうな身体を後ろからリゼが支え、さらにその回された手から彼女の魔素が大量に流れ込んで来るのが判った。それは悲痛な叫びをあげるこの全身にも伝わり、不思議とその苦しみを和らげると共に、気を抜けば呑み込まれてしまいそうだった死の恐怖から私を遠ざけてくれた。
そして私たちを包む光の膜もより一層厚く、堅牢なものへと変化した。
「絶対に、耐え抜いてみせる……! はぁああああぁっ!」
やがて炎の津波が
「ふぅ……うぅぅ……」
「何とか、乗り切った……メ、メル! その身体は……」
私には後ろから支えてくれたリゼの想いと、自分で築き上げた光の膜に加え、リベラディウスによる防御が確かに働いていた。しかしそれでも襲い来る暴威の全てを無効化することは叶わず、纏っていた衣服は端々が酷く煤けて、自身の身体からは白煙と思しきものが立ち昇っているのが判った。
「ぐっ……何てことはないわ」
「何言ってるんですか……今すぐに水箪にある霊水を飲んでください!」
「しかし、これは水纏いの――」
「いいですから! それに水纏いならまだ私の武具に効力が残っています!」
不枯の水箪からは自然と霊水が湧出してくるというものの、一度枯渇すれば利用可能なほどの量にまで
とはいえ、リゼの言う通り私が負った火傷の影響が無視出来る範囲を超えているのは明白だったため、傍にレイラが居ない以上、何よりもまずはその傷害を治癒させるのが最優先だと感じた。
「んっく……んっく……はぁ……」
「……どう、ですか?」
「ん……」
ヴィーラ曰く、この私が口にした霊水には傷病に対して確かな効験を示し、特に熱傷に対しては驚異的な特効が得られるとのことだった。そしてその彼女の言葉は真実であったようで、それまで全身を駆け巡っていた痺れるような灼熱感と激しい
「すごい……焼け
「まさかここまでの効き目があったとはね……けど……」
もしあの落胤がもう一度同じような攻撃をしてきたら、今度は非常に危険だと感じた。この場所が実質的に閉じられた空間である以上、あれほどの広範囲を一度に蹂躙する術技を使われては回避することも出来ず、防御する以外には選択肢がない。それに防御に徹したところで、また先ほどのような損害を被ることになる。
「……二度目が来たら、ですよね。させませんよ……この私が絶対に」
「ふふ、頼もしいわ。あと問題は相手が今、どうなっているかよ」
おそらく落胤は、精神体の拠りどころである憑代では本来耐えきれないほどの規格外の力を無理を承知の上で強引に行使したと思われる。それ故に、術の反動といえる影響が相手の身体にも確実に残っているはずだった。事実、今の私には先刻まで感じられたはずのあの炎のように燃え盛る異質な妖力を感じ取ることが出来ない。
それからやがて私たちの周りを覆っていた白い靄が急速に薄らいでいき、それに並行して視程が一気に広がったその時、私は視線の先に黒い人影のようなものがあることに気が付いた。
「見えた……どうやらその身に纏っていた炎は全て消え失せたようね」
「しかし何でしょう、この異様な感覚は……さっきとはまるで別人のような」
落胤と思しき人影は、程なくこちらに向かって歩き出したようで、恰も焼け焦げたように黒い輪郭を持つその姿が次第に大きくなっていくのが見て取れた。そしてお互いの声が普通に届くほどの距離にまで近寄ってきたところで、相手の歩みがぴたりと止まった。
「……ほう、今の攻撃を受けて生きていたか。まさか人間がここまでやるとは」
「それはどうも……おかげで服がぼろぼろになってしまったけれど、ね」
「けど、今の燃えさし同然のあいつ相手になら、何とか……」
「燃えさし……だと? ふ、確かに先ほどまでの姿と比して、今の私はその
リゼの言う通り、今の落胤の姿はまさに灰を被った使用済みの木炭にも等しく、その身から発せられる妖気は、微かな残火がただ燻っているだけのように弱々しく感じられる。しかしそうあっても平静を損なわず、淡々とした口調で語れるのは一体何故なのか、それが判然としない現状に私はある種の不気味さを覚えた。
「負担が掛かったと言う割には、どうしてそんなに余裕があるのかしら……?」
「そんなものなどありはしない。ただあるとすれば、そうだな……自信だろう」
「自信って、そんなもの――」
私がそこまで言った時、目の前に居たはずの落胤の姿が突如として黒い霧に包まれたと共に忽然と視界から消失し、またそれと同時に背後に異様な気配を感じた。
「えっ……!」
「メ――」
「ふんっ!」
これまでの経験からか異変を察知した身体は独りでに反転し、私は即座に身構えようとしたものの、振り向きざまに背後から突き立てられた魔素の塊のようなものに私のリベラディウスが接触し、猛烈な衝撃波を受けた私は大きく吹き飛ばされ、かなり距離のあった壁面にまで強く叩きつけられた。
「うっ! ぐうっ……!」
背中に激痛が走ったものの、痛みを味わっている余裕など無く、すぐさま相手の追撃が来ることを想定して、私はしっかりと握り締めていた剣を構えた。私に攻撃を加えた落胤には、リゼが即刻対応したであろうものの、いざそちらに視線を向けてみると、既に落胤の姿はそこには無く、ただ辺りを小刻みに見回すリゼの様子が見受けられるだけだった。
「くっ、一体どこへ……」
「……っ! メル! 上です!」
「何っ! ふっ!」
音よりも早く私の頭上から赤黒い炎を纏った、剣のようなものを振り下ろしてきた落胤に対し、リゼの声によって反応出来た私は何とか防御に成功したものの、両腕には骨がどうにかなってしまいそうなほどの猛烈な圧力が掛かり、そのあまりの重さに、私の両足が俄かに床面へと沈み込んだのが判った。
「くあっ!」
「ふ、しぶとい奴め」
時を移さず追撃を重ねてきた落胤に対して、私は全神経を集中させながらその一撃一撃を受け留め、合間に挟まれた足払いも回避しながら、一旦距離を取ろうと後ろの壁面を蹴った瞬間、相手の鋭い刺突がその壁にめり込み、先の衝撃で既に脆くなっていた様子の壁面が大きく崩壊した。
「あの剣のようなものは、妖気を物質化したとでもいうのかしら? いずれにせよ、あんな攻撃をまともに喰らったら……ひとたまりも無いわね」
その後、煤けた床を何度か飛び回るようにしてリゼの居る方へと素早く移動した私は、彼女とお互いに見合いながら、奇妙な攻撃を仕掛けてきた落胤について思念を通して言葉を交わした。
(大丈夫ですか、メル……?)
(ええ、何とかね……それにしてもあの攻撃、あなたはどう見る?)
(最初は、私たちの想像を超える速度で移動しているとのではと思いましたが、ひょっとするとあのエセルのように転移法を使っているのかもしれません)
(転移法……確かに、こちらが視認できないほどの高速で移動したとしたら、伝播する衝撃波や音から判断がつくけれど、さっき私が背後を取られた時はそれも無かった。けどそれも転移攻撃だと仮定すれば腑に落ちるわ)
(ただそうなると、こちらが攻撃や回避の動作を終えてその動きが静止した瞬間に、背後や頭上といった死角をとられる可能性がありますね……)
(そうね、ここから先は本当に全身を目にするぐらいの注意を払わないと……間違いなく命を落とすことになるわ)
世の理から遥かに逸脱した転移法を利用しながら致命的な攻撃を難なく繰り出せるというのであれば、僅かな判断の誤り一つが即刻死に繋がることが容易に想像出来る。しかし私はリゼや他の皆と全員が無事で帰ることを互いに誓い合った。こんなところで自身はもちろんのこと、決して誰かの命を失うわけにはいかない。
それにこうしている間にも、レイラたちは無数に現れる妖魔たちと戦闘を継続しているはずで、この落胤との戦いが長引くようなことがあれば、そのうち誰かの継戦力が尽きてそこから一気に総崩れになる可能性すらもある。
だからこそ私とリゼは、何としてでも相手の攻撃に対応しつつ、さらに反撃に転じるための活路を可能な限り早く見い出す必要があった。彼女と二人で力を合わせれば、必ずこの窮地をも乗り切れるものと信じながら。
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