第121話 幻の桃源にはためくもの


 リゼがその右の拳でマリオンの身体を貫いたあと、その状態のままでマリオンを地上へと強く叩き付けると共に、両の拳に魔素と思しき光を湛えながら、篠突く雨の如き勢いでそれを眼前の相手へと叩き付けた。


猛虎千裂掌もうこせんれつしょう!」


 リゼが繰り出す拳の一つ一つが極めて重い一撃であることは火を見るよりも明らかで、私の足元には近くで巨人が地団駄を踏んでいるのかと錯覚するほど、実に鈍重な地響きが絶え間なく伝播してきており、それは仮に生身の人間であれば、とうに原型を留めていないと言えるほどの凄まじい猛攻だった。


鸞舞天翔脚らんぶてんしょうきゃく!」


 次いでリゼは反応が無くなった様子のマリオンを足で巧みに掬い上げると同時に、地に着いていた方の足先と天高く上げた足先とが垂直な一直線を描くようにマリオンを蹴り上げ、その身体が部屋の天井に届く勢いで上昇すると、重い震脚を踏んだリゼがその両手首を腰元で重ね合わせ、間もなくその手元が眩い光に包まれ始めた。


「今、木っ端微塵にしてあげるわ……臥竜滅砕叭がりょうめっさいは!」


 そしてリゼが両の掌から撃ち出した凄まじい魔素の塊をその身に受けたマリオンの身体は、激しい閃光に包まれてその全てが消滅したように感じられた。


「リ、リゼ……あっという間にあいつを……ん?」


 一度に多量の魔素を放出した反動で息が乱れたのか、しばらくその場に留まりながら呼吸を整えていたリゼの真上にあった天井の壁面が俄かに変化しはじめ、それがやがて人の形を象り始めたのが見えた。


「まさか……リゼ! 今すぐ其処から離れて!」

「えっ、は――」


 その直後、上からリゼが居る場所へと黒い影のようなものが垂直に急降下したのも束の間、彼女が立っていた地面を深く抉り取り、破砕した床面の残滓が方々に飛散した。なおリゼは私の声を受け、寸でのところでそれを回避した様子だった。


「ちッ……外しちまッタか、ダガ爪先にハ手応えがあッタねェ」

「……っ、くっ!」

「リゼ! 今のは……!」

(大丈夫ですよ、メル。少し背中を引っ掻かれてしまって、けど、ただの掠り傷でしたから)

(それなら良かったわ……ただ――)


 リゼは確かにマリオンを捉え続けていたはずだった。それは彼女の拳が相手の身体に打ちつける度、鈍い衝撃音が伝わってきていたことからも確かで、最後にはマリオンを蹴りで打ち上げ、それに凝縮した魔素の集合体を直撃させた瞬間も、私もこの目ではっきりと見た。


 マリオンは実体を持たせた影を操る能力を確かに持っているものの、影像ならばあれほど鮮明にその姿を写し取ることが出来ないはずで、私にはどうにも今其処で何事も無かったかのように立っているマリオンの姿に釈然としないものを感じた。


「気ニなるカい? お花チャン?」

「な……」

「まァ知ッタところデ何も変わらナイから、別ニいいカ……? 影分身とイうヤツだよ、今のハ」

「影分身……ですって?」

「私ガ影法師を操れるコトはもう知ッテの通りサ。けどねェ、私ハそれに己ノ命ヲ強ク吹き込ムことガ出来るンだよ」

「影に命を、強く吹き込む……? 一体どういうことよ……それは」

「己ノ妖力を分け与えルことデ、私と全ク同等の存在――傀儡姿くぐつしを生み出せるのサ……私ノ妖力ガある限リ、幾ラでもねェ……クッ、フフフフフ」


 こちらを見て不気味な笑い声を轟かせるマリオンの背中から、間もなく全く同じ姿をした存在が生み出され、それは間もなくリゼの方を向きながら全く同じ声を響かせ始めた。


「どうやら以前の能力にシャルの物質化マテリアライズとほぼ同じ性質が加わったようね……全く、とんだ傀儡子くぐつしだわ」

「構いませんよ、メル。私たち二人でどちらも粉々にぶち壊してやりましょう!」

「ええ、リゼ。いずれにせよ全部叩き潰せばいいだけだもの、簡単よね?」

「ハッハッハッハ、言ッテくれるねェ。やれるモンなら……やッテみな!」


 それから二人のマリオンを相手にすることになった私とリゼは、再び激闘に身を投じた。しかし大変恐ろしいことにリゼがマリオンの分身を幾ら倒しても、本体であるマリオンの影からさらに新しい個体が生み出され、また本体は本体で私からの致命的な一撃を一時的に生み出した三体目を盾にすることで悉く回避し、このままではこちらが一方的に疲弊してゆくだけだと感じた。


 魔素を回復する仙薬にも限りがあるため、落胤との戦いを前にこれ以上の損耗はどうしても避けたいところだった。


(全く、これでは埒が明かないわ……リゼ、何かいい考えはないかしら?)

(本体だけを確実に叩くことさえ出来れば、あるいは……しかしこの忌々しい分身に邪魔をされて、そう簡単にいきそうにはありませんね。何か本体だけに効くものがあれば良いのですが……)

(影には通らず、本体だけに通るもの、か……戦いの中で、強い光は一時的にあの分身の動きを止められることが判ったけれど、それを壊しても結局またすぐに次の個体が湧いて来る……)

(こちらも同じように姿を幾重にも偽装して、相手の眼を欺ければ本体に致命の一撃を与えるきっかけもあるはずですが、私に幻体は使えませんし、メルが使うにしてもかなり消耗が激しいはずですよね)

(ええ、幻体を生み出すには確かに多くの魔素を要するから……けど、それならあいつだって同じはず。一体どこからあれだけの分身を生みだす妖力が……?)


 そう感じた私は、相手の攻撃を受けないように注意しながらも今居る部屋の隅々にまで視線を送り、マリオンに妖力を供給しているものが無いかどうかを確かめた。しかしそれと思しきものはどうにも見当たらず、私はひょっとするとこの空間そのものが、マリオンに力を与え続けているのではないかと考えた。


(リゼ、そっちは何かマリオンに力を与え続けているようなものは見つかった?)

(いえ、残念ながら。やはりこの妙な空間全体にあいつと同じような妖気が満ちていることからして、この場所はあいつにとっての天国なのかもしれません)

(全く……私たちの邪魔をしているのは本来、ただの幻だというのに……ん、幻……?)

(何ですか、メル? ひょっとして何かを思いついたのですか?)

(……ええ、上手くいくかは判らないけれど――)


 自分で呟いた幻という言葉で、私はかつてアシュ砂漠で相手にしたラムル・ドゥーダなる巨大な蚯蚓ミミズの化物が、私たちを捕らえるために広範囲に渡って散布したあの幻覚物質の存在を思い出した。


 同じ砂漠地帯で生育するロフォテ・ペヨルテという仙人掌さぼてんから得られる特有の物質には幻覚作用がある反面、痛みや興奮を抑える強力な鎮静効果もあったため、私はシャルを通じて取り寄せたその素材をもとに屋敷の練金工房で調合に利用し、これまで痛み止めや睡眠薬を創り出しては、不安で眠れなかったレイラたちに配布したこともある。


 同物質を大量曝露した際に生じる幻覚作用には耐性が生じるものの、錬金術で成分の調整を行い用法と用量を守った使用範囲内では、その鎮静効果が減じることは無かったため、使い勝手が良かった。


 そしてアンリたちが行う偵察に同行した時に、滞在先での使用を考えて多目に持ち出した薬剤の一部が、今も私の懐中にある。


(あいつに効くという保証はないけれど、試してみる価値はあるはずよ。手持ちの鎮静薬を魔導を以て全て霧状に変化させた上で、今からこの部屋全体に充満させるわ。ただ、幻覚作用への耐性が今の私たちに残存しているかは判らないから、念のため無呼吸法アプニアで行くわよ。私が合図をしたら、深く息を吸って頂戴)

(承知しました!)


 無呼吸法は私とリゼとが学院で習得した技術の一つで、本来は毒の霧を用いる相手や水中での探索時に利用される。


 それによって多量の空気を取り込んだ肺に自らの魔素を加えたものを全身へと行き渡らせ、呼吸を要しない活動のための力と転じれば、この室内に充満した幻覚物質を吸引することなく戦うことが可能になる。ただし、決してそう長くは続かない術のため、これを行う際には短期決戦が必至となる。


「行くわよ、リゼ!」

「はい!」

「んア……? 急に飛び上がッテ何スルつもリだァ?」

「こうする……つもりよっ!」


 私は左手の一杯に掴み、魔導によってその性質を変化させた大量の鎮静薬を地上に居るマリオンに向かって投げつけ、地上に叩きつけられた薬剤は落下時の衝撃を受け、たちまち霧状の煙を巻き起こしながら室内に拡がり始めた。


「何ダ、この煙ハ……?」

(さて、問題はここからだわ……)


 飛散した幻覚物質は吸入されれば速やかにその効験を見せ、私たち自身が以前そうなったように、曝露した相手からその意識なり思考なりを奪い去る。ただそれはあくまで人間や一般的な動物に対しての話。今のマリオンのように妖魔化した元人間にも有効であるという保証は何処にも無かった。


「お、蝶々ガひらヒラとはためイテ見えらァ……フッフ、お花チャンは、また蝶々ニなったのかェ?」


 マリオンは私たち二人には目もくれず、其処に居るはずもない蝶々の幻影を追いかけ始めたようで、その手にした鋭利な鉤爪やもう片方の腕と一体化した斧を頻りに振り回し、何とかそれを捕えようと空を切っているさまが見て取れた。


(何とか上手く行ったようだわ、リゼ……!)

(やりましたね、メル! 影の分身も本体との繋がりが途絶えたのか、姿が消えてしまったようです)


 ならばもはやこれ以上、あれを相手に無駄な手間と時間を掛ける必要はない。

 それにあんな輩でも幻覚作用で苦痛を感じないであろう今ならば、この私も憂い無く、その生命の灯火を吹き消すことが出来る。


(行くわよ、リゼ。腕を振り回しているマリオンの動きが次に止まったら、私が渾身の一撃を仕掛ける……あなたには、その仕上げをお願いするわ)

(任され、ました……あいつへのトドメは、この私が必ず刺します!)


 そしてその時は、程なく私たち二人の前に訪れた。


一刀アブシュナイデン!)


 私がマリオンの背後からその身体と両腕とを真一文字に凪ぐと、間髪を入れずしてマリオンの頭上から飛来したリゼが、その両肩に落着すると同時に、両耳の後ろ辺りを目掛けて、自身の拳を左右から一気に突き入れた。


翳風裂刺えいふうれっし……!)


 何らかの技を叩き込んだリゼは即座に後方へと宙転し、近くの地面へと着地した。両腕を失い、今にも二つに分かれそうな胴体から夥しい量の妖血を溢れさせるマリオンは、其処からその状態のままで数歩動いたのちに再びその口を開いた。


「ヤッと、捕まえ、タ……! ハッハッハッ……ハァ……んグぼァッ!」


 その瞬間、マリオンの首から上が突如内部から破裂したかのように吹き飛び、多量の紫を方々へと噴騰させながら両膝を突き、間もなくその場にくずおれた。


(これでもう、あのマリオンが起き上がってくることは二度と無い……けれど、何て後味が悪い戦いなのかしら……)

(そう、ですね……けど、相手と自分たちの両方を救えそうな道なんて、もう何処にもありませんでした。こうでもしなければ、ああなっていたのは私たちだったのかもしれないんですから……止むを得ませんでした)

(ええ、リゼの言う通り……ん?)


 マリオンが倒れて程なく、私たちの居た室内、即ち空間の全体が大きな地震に見舞われたかのように、縦横に激しく揺れ始めた。


(何……? 地震?)

(ひょっとしてあいつを倒したことが引き金になって、この妙な空間が崩壊し始めたのかもしれません……ここから早く脱出しましょう!)

(けど、ここには来た時から出入口なんて無かったはずよ……? このままここに居ても大丈夫なのかしら……)

(あっ……あっちを見て下さいメル! さっき壁だった場所から新たに通路のようなものが伸びて、その奥から光のようなものが見えます!)

(本当だわ……とにかくあそこに行ってみましょう!)


 そして私とリゼの二人は、その光が伝わってくる先を目指して、醜く変形し始めた室内をただひたすらに駆け抜けた。其処にこの空間から脱出する抜け穴のようなものがあると信じて。

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