第120話 断界ノ狭間


「ダンカイの狭間? それにしてもこの声、どこかで……」

「私も、前に聞いたことがあるような気が……」

「クッフフフ、嬉シイことを言ッテくれるじゃナイ、お花チャン」

「えっ? あなたまさか……マリオンなの?」

「ご名答。私のコトをちゃあんト覚エテいてくれたダなんてねェ……」

「何てこと……また、あいつが!」


 それは以前、私たちがフランベネルに向かってルーネの谷に架けられた橋を越えようとしていた最中、ロイゲンベルクが放った刺客たちと遭遇し、その撃退に成功したと思った矢先に、レイラを人質に取られて私たちと一戦を交えることになった、異様な言動が特に際立っていた性別不詳の奇人――マリオンだった。


 その戦いの中で、マリオンが放った麻痺毒が塗られた暗器により、リゼが危うくその命を落としかけたことは、今も鮮明に覚えている。


 間もなくこちらに振り向いたマリオンの顔は死人の如く蒼白で、その双眸には遠目からでもはっきりと判るほど、狂鬼の如く紅い光に満ちていて、それを見た私はどうやらマリオンが既に人ではなくなってしまったことを直感的に悟った。


「どうしてあなたがこんな所にいるの? それにあなたの言うダンカイの狭間とは何のこと? 答えなさい、マリオン!」

「ここハ、新たニ世界ノ王となられルお方がオワす、玉座へト通じル間ノお部屋。分不相応ナ者たちヲ、おいソレと通すワケにはイカないからネェ」

(メル、きっと落胤は別空間に居るんですよ。つまりここは元の空間と落胤の居る場所とを繋ぐ間の通路みたいなもの……差しづめあいつは、その番人といったところでしょう。しかし出入口らしきものは、今のところ見当たりません)

(ここもどうやら特殊な空間のようね……さっきから例の法具を通してレイラたちに思念で呼びかけているけれど、全く反応がないわ)

「そウいえバ、あなたハ死んデいなかっタんダネ? 思った以上ニしぶといようダ」

「お生憎様……私はまだ、死ぬわけにはいかないから。それと、あの時の借りはここできっちり返してもらうからね。今度は絶対に、逃がさない」

「ええ。言葉が通じない相手にはやはりこの刃で語るしか、ないわよね」

「キッヒッヒッヒ……! こレは楽シクなりソウだネェ!」


 マリオンはそう言うと、異様な形状をした右腕からガシャリと、硬い金属同士が摩擦した時に起こるような音を発しながら、殺意をそのまま具現化したかの如く極めて鋭利な鉤爪を右の腕先に覗かせ、さらにもう片方の腕には肘の辺りから突出している斧のような大型の刃が怪しく閃き、よく見ればそれは、さながら肉体の一部と言わんばかりの外観で、腕と同化しているように感じられた。


(あれはもう、きっと人の身ではありませんね、メル)

(ええ。きっと妖魔化したんだわ。けど理性らしきものが保たれているあたり、きっとまた別の方法で変化したのよ。おそらくは自らの意思でね)

(ならもう、純粋な妖魔ともほぼ変わりがないと?)

(おそらくはね。それにヴィーラの言葉通りなら、自らの意思でそうなったものは、炎の洗礼を受けた私たちの武器を以てしても、元には戻らないと言っていたわ)

(構いませんよ……私は、私を死の淵にまで追いつめ、そして私とメルとの関係を貶めたあいつを絶対に許しはしません。たとえメルがまた止めても、今度ばかりは必ずトドメを刺しますから)

(その懸念は不要よ、リゼ。存分に、やってやるといいわ。この相手に関しては正直、生かしておいたことを後悔したくらいだから……ね)

(ふふ……承知、しました)

「おヤ……考エごとハ終わりカナ? それじゃア、死ねィ!」

「ん、来るわ!」


 次の瞬間マリオンは、その手からかつてリゼの手首を容易く貫いた、あの暗器のような刃をこちらに幾つも投擲してくると共に、驚くべき速度を以てこちらまでの距離を一気に詰めてきた。


「やらせない! 修羅千鏨脚しゅらせんざんきゃく!」

「合わせるわ! 双牙裂空閃ツヴァイ・クリンゲン!」

「オオッとアブない、ヒッヒッヒ! 楽シイ、楽しいネェ!」


 先に攻撃に転じたリゼが放つ怒涛の蹴撃を阻害せず、また刃が誤って彼女のほうに飛んで行かないように己の剣が描く線をしっかりと見定めた上で、マリオンが見せるであろう僅かな隙も見逃さず、先読みをも交えながら深く斬り込んでいく。


 しかしマリオンはもはや人が持つ反応速度を大幅に超えているようで、それは単純に魔素で強化した身体能力をも遥かに凌ぐほどの敏捷性を以て、その巧みな転回を交えた体捌きと刃弾きとで、私たちの剣と拳とを悉く受け流して見せた。


 また、マリオンはその足先にも極めて硬質な刃を仕込んでいたようで、こちらの攻撃に対して回避と防御を行う一方で、そこに鋭い反撃を加え始めてきた。それはいわば相手の上半身と下半身とが防御役と反撃役とにそれぞれ分かれた上で、さらにそれが状況に応じて刻々と入れ替わっていく、そんな感じだった。


「これハすごいネェ……お花チャンたちも人間じゃナイよ、キッヒッヒッヒ!」

「そんなこと……ふっ! あなたに言われたくなんて……ないわっ!」

「全くですよ……今からこの私が、二度とそんな減らず口が叩けないようにしてやりますから……!」


 リゼは怒髪天を衝くといった勢いで、マリオンに対する忿怒に満ちた激情を炎のように滾らせ、その全身に殺気にも似た闘気を纏いながら、休む暇など与えまいと、研ぎ澄まされた真剣の刃と比しても全く遜色ないほどの鋭利さを誇る蹴りの連撃を、絶え間なくマリオンへと浴びせかけていた。


空爬裂斬蹴くうはれつざんしゅう!」


 宙を蹴りながら幾度もその姿勢を転向させ、恰も仙女が空を泳ぐように移動しながら鋭い連続蹴りを以てマリオンへと畳みかけていくリゼの姿を見ていると、今が命のやり取りをしている戦いの最中であることを忘れて、思わず見惚れてしまいそうになるほどに、極めて美しく感じられた。


 ただ、その一方で、リゼからの攻撃に全て対応してみせるマリオンに対しては、ある種の寒気のようなものを感じずにはいられなかった。そこで私はリゼが再び間合いを取った瞬間を見逃さず、すぐさまマリオンへの攻撃に移った。


空刃衝裂破・弐式ルフト・シェーレ・ツヴァイター!」


 いかに優れた身のこなしを誇っていようと、死角から無数の真空の刃が一度に飛来してきては、さしものマリオンも無傷ではいられないはず。こちらはまだ落胤との戦いが控えているが故に、無駄な力の消耗は極力避けつつも相手に確実な損害を与えるべく、攻撃に移行する時機と技の種類とを慎重に選択する必要がある。


「これで確かに損害を……ん?」

「クックック、妖魔ってモノはいいモノだネェ。勝手ニ傷が閉じてイクのさ……コレなら痛みのおかワリが幾らデモ出来るネェ」

「くっ、こいつも純粋な妖魔特有の再生能力があるみたいね。無限とはいかないでしょうけれど、損害を無視して襲い掛かってくるというのは脅威だわ。やはり生半可な攻撃では駄目か……」

「なら、嫌になるぐらい痛みを与えてやりますよ……私があの時に受けた身体と心の痛みは、まだまだこんなものじゃありませんからね!」


 リゼは尚も攻撃の手を緩めず、マリオンに次々と技を打ち込んでいく。私たちは予め集団との戦闘を考慮していたため、私が調合した魔素を回復する琥珀糖と同様の効験を持つ仙薬を皆に多く持たせてある。そのためかリゼは消耗が激しいと思われる技も惜しみなく繰り出していった。


鷙皇涛旋襲しこうとうせんしゅう!」


 リゼは空中で回転と半回転とを巧みに利用し、その身体の位置と体勢とを絶えず変化させつつ、両の掌から交互に凝縮した魔素を激しく打ち出し、さらには魔素を打ち出した際に得られる反動をも滞空を持続させるための力に転化させているようで、彼女はマリオンの頭上付近を舞いながら、執拗に攻撃を繰り返していた。


 ただリゼの身が長く空中にある以上、慎重に攻撃をする必要もなく、こちらも地上にいるマリオンに対して同じような遠隔攻撃による追撃を加え易かった。


嗷波千裂空タウゼント・ヴェーレン!」


 空中と地上の両面から、魔素を凝縮した苛烈な衝撃波がマリオンへと降り注ぎ、そのあまりの攻撃量に全てを捌ききることが不可能になったマリオンは立て続けに被弾し、堪らず部屋の天井近くにまで飛び上がった。


「ふっ、上に逃げても同じことよ……空刃双ドッペル――」


 その瞬間、私の足が急に何かに掬われたようになって宙を滑り、私は大きく転んで仰向きに倒れ込んでしまった。


「くあっ! いっ……何? これは……! そうだわ、あいつ確か影を!」

「はっ……メル! あいつ……!」


 私ともあろうものがすっかり失念していた。マリオンは以前にも自身の影に実体を持たせた上でそれを巧みに操るという奇術を使って見せ、同じように私の動きを封じたことがある。それ故にその能力が妖魔化に伴って自分以外の影に干渉出来るようになっていたとしても、何ら不思議ではない。


「いけない、今ので剣が……! んっ!」


 私はすぐさま近くに転がっていたリベラディウスを拾おうとしたものの、地面から伸びた黒い手――マリオンの影に四肢を強く拘束されて思うように動けず、極めて無防備な状態のままで地に張り付けられた格好になってしまった。


 これではまるで以前にも液体を操る妖魔にしてやられたのと同じ。しかしこの影に魔素を伝えてその性質を変化させるという芸当はもはや人が持ちうる力ではない異能の領域で、真似をして出来るような代物ではない。


 そしてリゼが私に攻撃が通らないようマリオンの行動を必死に妨害している間に、私がその枷を一気に振り解くべく全身に魔素を溜めていると、近くにあった剣が独りでに動き出し、間もなくその切っ先が私に対して突き立てられた。


「くっ……! 嘘……影が剣を操って⁉」

「メ、メル……! 今、私が!」


 リゼは私に訪れた危機を目の当たりにするや否や、血相を変えてこちらへと急行し、今にもこの身体を目掛けて振り下ろされようとしていた剣と私との間に、閃雷の如く勢いで拳を正面に突き立てながら飛び込んできた。


獅子雷掣掌ししらいげきしょう! んっ、くあああっ!」

「リ、リゼ!」


 眩い光と激しい火花とが一度に散り、次の瞬間には私の傍らで片膝を地に着けた様子のリゼと、その反対側にリベラディウスが転がっていた。どうやら私の剣がリゼの身体を貫くという最悪の事態からは免れたようだった。


 それから私は手足に纏わりついていた影を振り解き、素早く身体を前転させつつ近くに落ちていた剣を手にし、追撃を行ってくるであろうマリオンに対して即応出来るようにすぐさま迎撃態勢を取った。


「はぁ……ごめんなさい、リゼ。私の不注意で危険な目に遭わせてしまって……」

「嘘……びわ、が……」

「えっ?」

「私の、大切な指輪、が……今の衝撃で……」


 リゼの手元をよく見ると、私が先に彼女へと贈った指輪がその左手の薬指から消えていた。普段彼女の手元は、強固な手甲と魔素によって防護されているために拳で殴っても全くびくともしなかったものの、どうやら先ほど私に突き立てられたリベラディウスから受けた苛烈な衝撃を代わりに受けた際に、私が予め指輪にかけていた守護術が発動したらしく、千々ちぢに砕け散ってしまったようだった。


「どうか気にしないで、リゼ……きっと私が仕込んだ守護術が発動したのよ。こういう時のために、あなたには常に肌身離さず付けるように言っていたのだから」

「私の……メルからもらった、私の宝物……」

「キッヒッヒッヒ……! 命びろイしたなァ、お花チャン? だガきッと次はもうナイぞ……?」

「ゆる、さない……絶対に、許さない……。よくも、よくもよくもよくも……私の大切な想い出を奪ってくれたわ……! ふ、ふっふふふ……、次がないのはあんたよ? たとえこの手足から肉が削げ落ちて骨だけになったとしても、あんたの身体が朽ち果てるまで何処までも深く刻み込んでやるわ……この私の、痛みをねぇ!」


 リゼがそれまで纏っていた炎の如き闘気から熱が急速に失われると共に、凜烈な冷気が彼女の全身から立ち昇り始め、さながら白魔の化身となったように感じられた。一度こうなってしまった彼女にはきっと、あのマリオンを跡形も無く滅ぼし尽くすまで、この私の言葉すらも届きそうになかった。


「……いくわ」


 そう言ったリゼが音も無く私の眼前から消え、一刹那のうちに不敵な笑みを浮かべ続けていたマリオンの懐へと入り込み、対するマリオンがリゼの接近に気付いた素振りを見せたのも束の間、リゼの突き出した右の拳がその目の前にあった異形な長躯を容赦なく貫いた。


「……ぐふぉわッ!」

「な、なんて速さなの……!」

「さぁ……あんたの大好きなお楽しみとやらを、始めましょうか」

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