第117話 ただ光が導く方へと


「も、ものすごい数の幽鬼が壁から次々と湧いてきます……メル!」

「振り返っては駄目よリゼ! 今は向かって来るやつらだけを見ていて!」


 煉獄の底から抜け出そうとしている私たち二人の存在に気付いた無数の幽鬼たちが、こちらが放っているであろう命の匂いを嗅ぎつけたのか、何を置いてでもそれを喰らわんと欲する勢いを以て絶え間なく群がってきていた。


「さっき二人で上から降りて来た時には全くの無反応だったのに、どうして今になってこんなに多く……!」

「はっきりとは分かりませんが、多分私たちの通ってきたところに何か特有の匂いのようなものが残っていて、それに惹きつけられてきたのかもしれません」

「全く……こんな亡者たちに捕まるわけにはいかないわ。リゼ、私の後ろに付いて頂戴! 向かって来るやつらをこの霊枝で創り出した剣で全て弾き飛ばしてやるわ」

「は、はい……!」


 私たちを捕えようと伸びてくる白い腕の波間を必死に掻い潜りながら、それでも勢いの衰えを見せない亡者の大群を私が剣で薙ぎ払い、ただひたすらに地上を目指して上昇していると、やがて厚い雲の切れ間から光が差し伸べるように、常闇の彼方から色の無い空がこちらを覗いているのが微かに見えた。


「よし、もうすぐ地上だわ! あともう一息よ、リゼ!」

「はい! このあと地上に出たら、ええっと……」

「こちらに来た時と同じよ! あの分厚い雲を抜けたら、私たちが通ってきたあの光の門が発する波動を感じ取って、それが伝わってくる場所に目指せばいい!」


 そして頻闇の裂け目から抜け出た私たちは枯れ果てた大地を離れ、沖天の勢いで頭上に棚曇る無色の叢雲むらくもへと駆け上がって行った。また、私たちを捕えようとしていた無数の幽鬼たちは見えない天井にでも遮られたかのように、その裂け目の内側からは出られないようだった。


「何とか上手く、逃げ切れたようね……しかし、この暗く沈み込んで見えた大地でさえ、あの漆桶のような暗闇と比べたらずっと明るく見えるわ……」

「本当ですね……ん?」

「どうしたの、リゼ?」

「いえ、何か向こうの方に白い布のようなものが棚引いているような?」

「白い布、ですって?」


 リゼにそう言われて辺りの空を見渡して見ると、彼女の言うようにとても長い白布らしきものが、一つでは無く方々で遊弋しているのが確かに見えた。しかしよく目を凝らすと、それは布ではなく先端部分が頭蓋と思しき形状をしていて、さらにそこから白煙のようなものが絶え間なく発生しては後ろへと揺曳しているのが判った。


「リゼ、きっとあれも亡者の成れの果てだわ! どうやらこちらはこちらで、私たちの存在を貪らんとする物の怪が蔓延っているようね」

「しかも群れをなしてこちらへとどんどん近づいて……くっ、一難去ってまた一難ですか! 追いつかれないように全速力で駆け上がり続けるほかありませんね!」


 ちょうど現世で言うところの人魂だと見受けられるそれは、私たち二人の存在を感知したのか、あの地下に犇めいていた幽鬼たちと同様に、その存在を貪らんとこちらに大挙して押し寄せ始めていた。


「向こうからも次々と新たな大群が……でもあとは出口を目指すだけだもの、きっと大丈夫よ、リゼ!」

「はい! それにこの速度を保ちさえすれば、きっと追いつかれはしません!」


 持ちうる限りの存在の力を消費して、仄かな明かりすらも失せた虚空を突っ切る翼へと変える。それは執拗に私たちの跡を追ってくる冥府の住人から逃れるには十分過ぎる程の力であるように思えたものの、私は急に強い息苦しさのような感覚を覚えた。この半霊体の身では呼吸など必要がないにも関わらず。


「これは……どういう、こと……何だかとても、苦しいわ……」

「え、えっ! 急にどうしたんですかメル!」


 私は降って湧いた水火の如き苦しみから、それまで保つことが出来ていた全速力を維持することが叶わず、いつの間にかずっと後方にいたはずのリゼの姿が、もはやこの手の届きそうなところにまで近付いていた。


「身体が何かおかしいわ、これは一体……はっ!」


 その時、私は霊枝を握り締めていた自分自身の右手の指先が消えかかっていることに初めて気が付いた。しかもよくよく見ればそうなっているのは右手だけではなく、私の足元も明らかに完全な透明へと変容し始めているさまが見て取れた。


「これは、まさか……私がさっき存在の力を、使い過ぎた……から? 消滅がずっと早まって……いけない、意識がだんだん、薄っすらとして――」


 急速に透明化し始めた身体の一部を目の当たりにして、意識が遠のきかけた瞬間、そんな私の左手に温かい熱がじんわりと伝わってきたのが判った。そして私がその感覚に呼び覚まされたかのように自然に下へと落ちていた顔を上げると、その目の前には私を強い眼差しを以て見詰めるリゼの姿があった。


「ん……リゼ?」

「離しませんよ、絶対に。あの日に、約束したじゃないですか……たとえ何があってもあなたを護る、と」

「……ええ、そうね、そうだったわね、リゼ」

「だから私はメルを、あなたを誰にも渡しはしません。たとえ今死神があなたの足元を掴んで両目を覆い隠し、空を飛ぶための翼を捥ぎ取ったとしても、私があなたの手を引いて必ずあの光のある場所にまで連れて行ってみせます。それが……それこそが、いつもあなたの隣にある、私だけが成すことの出来る役目ですから!」


 リゼはそう言うと、私の手を優しく且つ強く握り締めて、より一層大きくなった翼をはためかせながら無のみが支配する空間をひたすら上へと駆け上って行った。しかし追手たちもそんな私たちをみすみす逃すつもりは全く無い様子で、前以上の速度を以てこちらとの距離を縮めようと殺到しているのが判った。


「う……亡者があんなに、たくさん……この、ままでは……」

「大丈夫ですメル! この私を信じてください!」

「ええ……信じているわ、リゼ……今もこれまでも、これから先もずっと……ね」

「……ええ!」


 それから間もなく意識が大きく遠のいた私は、目に入り込んで来る光景が次第に断片的になっていき、リゼの声も途切れ途切れにしか聞こえなくなっていた。ただそんな中にあってもリゼから伝わってくる暖かな光だけは途絶えることなくこの私を包み込み、やがて本当にリゼの腕に抱かれているような感触を肌に感じながら、私はその慈愛に満ちた想いの揺りかごにこの身を委ね、深い眠りへと誘われた。



 ***



 失われたはずの意識の中に広がっていたものは、再びの常闇。しかし其処はあの奈落とは異なり、幽鬼や人魂のような存在は絶無であるようだった。しかもその暗黒はどうやら帳のように向こう側があるようで、私は自身の姿が見えない中にあって確かにこの腕を伸ばし、その裏側を確かめようとして、そっとその帳を掴んだ。


「……ル!」


 次の瞬間、辺りを取り巻いていた漆黒の闇は眩いばかりの光へと移り変わり、私がその中で肺一杯に空気を満たすと、それと同時に全身に重さのような感覚が拡がっていき、強い光で暈けていた視界が急速に鮮明になっていくのが判った。

 そうして完全に五感を取り戻した私は、そんな私の身体を強く抱き締めながら、左の耳元で涙声を響かせるリゼの姿をはっきりと認識した。


「本当に心配……したんですよ、私。メルが、こっちに帰って来てからも、ずっと息をしていなくって……」

「そう、だったの……ごめんなさいね、リゼ。私はまたあなたに、とても大きな心配を掛けてしまったようね。もう二度とあなたにこんな心配は掛けまいと思っていた矢先にこれなんだから、本当に私って駄目よね……」

「……良いんです。こうしてまたちゃんと、私のところへ無事に帰って来てくれたんですから。それだけで私は……幸せ、ですから」


 リゼの肩越しにはそんな私を見て胸を撫でおろした様子のレイラたちの姿が見えて、彼女たち皆にも、その気を酷く揉ませてしまったことが窺えた。


「皆もごめんなさい……あなたちにもきっとまた心配させてしまったわよね」

「リゼが戻った後もメルだけは息をしていなかったので、本当に背筋が凍りそうでしたが……本当に何よりです、メル」

「私はリゼお姉ちゃんと一緒だから大丈夫だろうって考えてたけど、さっきのあれを見てたら、今回ばかりはちょっとまずいかなって思ったよ……でも良かった!」

「ええ、本当に。それにこちらは太陽が昇ってくるよりも先に眩しい光景をありありと見せつけられて、身体が妙に熱くなってしまったわよ。ステラ、私もまた後でじっくりと癒して頂戴」

「えっ? あ……はい……」

「はは……とにかく、一連の事態が完全に落ち着いたら、皆それぞれにお詫びのしるしを示さなくてはいけないようね」


 すると脇からそんな私たちのやり取りを見守っていた様子のヴィーラが私たち二人のもとに歩み寄り、声を掛けて来た。


「二人共、よく無事に戻ったな」

「あ、はい……ヴィーラさん。リゼの助けもあって、何とか二人でこちらに帰ってくることが叶いました」

「うむ……して、炎の方はどうじゃ?」

「そちらもしっかり頂いて参りました。この鞴の中にたっぷりと蓄えてあります」

「良かろう。洗礼の儀式はこの私に任せるがいい。お前たちは武具だけをここに預け、あの船に乗って元来た場所へと戻って休んでおれ。儀式は明日の朝までには終わっているじゃろうて」

「そんな……よろしいのですか?」

「構わんさ。どのみち洗礼の儀式は私にしか出来ん上に一日掛かりの大仕事となる。なら、少しでも自分たちの時間を有効に使える場所の方が何かと良かろう」

「……お心遣い、大変痛み入ります」


 ヴィーラの厚意に与ることにした私たちは、各々の武具を一旦彼女へと託し、空中船を駆って一度フィルモワールへと戻ることにした。アンリは其処で仲間たちと様々な情報を共有した上で、落胤が居るであろうロイゲンベルクの王城へ踏み込む作戦を練るとのことだった。私たちも屋敷で休息を取ったあと、アンリたちに協力することにした。そして帰るための空中船に皆で乗り込む時、リゼが私に言葉を掛けてくれた。


「それとさっきは言いそびれてしまいましたが……おかえりなさい、メル」

「ええ……ただいま、リゼ。こうして無事に戻ってこれたのは、あなたが傍に居てくれたおかげよ」

「ふふ、私はいつだっていつまでだって、ずっとメルの傍にいます……本当の闘いはこれからですが、メルと一緒でなら必ず上手くいくって、信じていますから」

「私もよリゼ……さぁ、屋敷に戻って皆で休みましょうか。今日は特に疲れたから、ゆっくりと寛ぎたいところね」

「あ、何でしたらまたお風呂で按摩でも如何です? 今度はくすぐったくないようにもっと丁寧にやりますから」

「ん……なら、またお願いしようかしらね」

「ふふ……承知しました。では、参りましょうか!」


 そうして私たちはヴィーラの居る神殿を後にして、フィルモワールへの帰路についた。この後に控えているであろう落胤との戦いに対して万全を期するために。

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