第116話 海より深く夜より暗い地で
今自分の足元には私とリゼの身体があり、傍らには辺りを見回しているリゼの半霊体と思しき姿が存在していた。ヴィーラの言っていた半霊体の身は、私が想像していた以上に生身の人間を見ているのと変わらないように感じられて、自覚が無ければそうとは判らないほどだった。また私たちが仮死状態となる前に手にしていた神器である霊枝と
「本当に影がない……けど今や私もこの枝も実体がないはずなのに、一体どういう理屈で触れることが出来ているのかしら?」
「これが半霊体? わ……すごいですよメル、身体が軽々と宙に浮いちゃいます! 鳥のように空を飛ぶって実際はこんな感じなのでしょうか?」
「確かにこう、自分の身体が空気と同化したような感覚で、思いのままに何処へでも飛んでいけそうな気はするわね」
リゼは自在に空を飛べることに感動したのか、あっという間にレイラたちが居る天井部の方まで舞い上がり、彼女たちの目には見えていないことを確認してまたすぐにこちらへと戻ってきた。
「レイラもエフェスも、目の前まで行って華麗に宙返りをして見せたのに全くの無反応でした……今の私たちって、本当に誰にも見えていないんですね」
「ええ、何といっても半霊体だもの。さぁ、時間を無駄にはしていられないわ。早速ヴィーラが言っていた通り、あの光の柱に向かうわよ」
天の頂に座す月へと向けた神鏡と、最上部に配置された複数の反射鏡によって、私たちの目の前には空に向かって
「光がどんどんと上の方に遠のいていくわ……これはもう幽門を越えたということなのかしら?」
「分かりませんが、さっきまで居た場所とは全く違う空間に入ったのは確かだと思います。それと気のせいかもしれませんが、視界が黒の一面に変わったずっと下に落ちて行っているような感覚があります」
「私もよ。きっと今私たちは冥府へと下っているのでしょう」
無にも等しい空間をひたすら落下しつづけること約十数分ほど、私たちは終に地面と思しき場所にその足を着けることが出来たようだった。この目に映るものを一言で表せば、生きとし生けるものたちが発する色と熱とが一つも存在しない世界。際涯も無く広がる荒野のような大地を幾ら見渡しても、私たち二人以外には何物も認められないように思えた。
「何だかとても寂しいところ……ですね。いや、もはやその寂しいという感情ですらも、そのうち何処かへ消え失せてしまいそうな……」
「ヴィーラの話では、ここは天国にも地獄にも行けなかった魂が流れ着く場所であるらしいけれど……こうして足を踏み入れることは最初で最後になることを祈るわ」
ヴィーラが
「熱を感じる……か……」
「私も……やってみます……」
リゼと共に双眸を閉ざし、無にも等しい空間の中でただ一つの存在を求めた。するとやがて私が蜘蛛の巣のように張り巡らせていた感覚の網に、温度の無いこの世界においては明らかに異質と思える、太陽のような暖かさをもつ存在が、この地のさらに奥深い場所にあるように感じられた。
「きっとこれのことだわ……この感覚、リゼも感じたかしら?」
「はい……この太陽のような熱の源は十中八九、例の炎だと思います」
「なら、この反応を辿ればいずれは其処に……行きましょう、リゼ」
限られた時間の中で判断を迷っている暇など何処にも無い。そこで私は己の感覚が導くままに動くことに努めた。肉体を持たない私たちの存在は私たちの意思に呼応し、その姿を一時的にでも変転させることが出来るようで、まさに大空を往く一陣の風と化した私とリゼは、熱が伝播してくる方へとただひたすらに向かって、色素を失った天穹を無心で駆け抜けた。
「あ……見て下さいメル、あそこがちょうど裂け目のようになっています」
「本当ね。おそらくはあの裂け目から炎のある場所にまで下れるかもしれない。十二分に注意をしながら行きましょう」
私たちが見つけた大地の裂け目は、一見すると底無しの闇であるようで、それこそ奈落の地の底まで深く穿たれているように感じられた。しかし熱が伝わってくるのは間違いなくこの裂け目を下った先にあるようで、互いに目を見合った私たち二人は、意を決して常夜を纏ったような断崖を伝って遥か下方を目指した。
それからずっと遠くに感じられていたはずの熱源が、いよいよこちらの視野の中に捉えられそうなほど近くにまで迫ってきた時、私は自分の足と呼べるものが再び地面を捉えたことに気が付いた。どうやら私たちが求める炎は、今私たちがいる場所と同じほどの深さにあるようだった。
「ここまで何物とも遭遇しませんでしたが……流石に炎に至るまでには何かしらと出くわす可能性があります。気をより一層強く引き締めて、参りましょう」
「ええリゼ。もし幽鬼なり獄卒なりが現れたとしても、こちらの存在に感づかれないように慎重かつ冷静に動けば、きっと大丈夫よ」
炎が発する熱を辿りながら黒炭のような様相を呈した岩窟を進み始めてしばらく経った後、私たちは道中にいた一つ目の巨人や地を這うように四つ足で歩く異形の怪異をその複雑な地形を利用しながら何とかやり過ごし、こちらの気配を感知されることなく、燐光のような青白い煌きを頭上に戴く祭壇へと無事にその歩みを進めることが出来た。
「あれがきっと禊祓の炎なのね……けど――」
「はい。あれは炎の番人とでもいうべき存在なのでしょうか……異様に大きな図体をした化物が立っていますね……」
問題の炎が据えられた祭壇、その手前には際立って醜怪かつ魁偉な巨怪が二体いて、一方が牛の頭をしたものが大斧を、そしてもう一方の馬と思しき頭をしたものが夥しい数の棘が付いた棍棒と思しきものをそれぞれ構え、巍然とした雰囲気を全身に纏いながら屹立していた。
「どうしましょう……メル?」
「私に考えがあるわ。ヴィーラから受け取ったこの霊枝は、こちらの思念に応じて形状を変えるだけではなく、魔現の真似事みたいなことも出来るようなの。だから今から私がこれを使ってあいつらの注意を引いてみる。あなたはその間に鞴を使ってあの炎を出来るだけ多く吸い込んで頂戴」
「……解りました!」
そして私は手にした霊枝に強く念じて私と同じ姿をした幻体を生み出し、それを牛頭と馬頭の前を素早く横切るように飛行させた。それを見てすぐに反応を示した二体は、大きな足音を響かせながら通路の向こう側へと幻姿を追っていった。
「いいわリゼ、今のうちよ……! 私が通路の向こうからあいつらが戻って来ないかどうかを見ているから、この隙に鞴で炎を!」
「はい! すぐに取り掛かります!」
リゼがヴィーラに教えられた通りに蛇腹式になっている鞴を両手でゆっくりと開き、その先端が禊祓の炎を吸い込み始めると、間もなく鞴全体が輝き出した。鞴はその見た目以上に多くの炎を内部に蓄えられるらしかった反面、その蛇腹構造はほんの少しずつしか拡がっていかなかった。
「……幻体はもう消えたはず。もういつこちらに戻って来てもおかしくないわ。どうかしら、リゼ。炎は十分に吸い込めた?」
「あと、もう少し……」
「早くしないと、厄介なのはあいつら以外にも……ん?」
その時私は、リゼの足元に何か雫のようなものが落ちてきたことに気が付いた。それは一滴、二滴、さらには三滴と次々と降ってきているようで、一体何処から滴下しているのかを確認するべく視線を上に向けると、其処には大きな口から涎を垂らし、三つの目を光らせている醜い怪異の姿があり、歪な空中通路のような場所からその両手を広げて、今にも真下に居るリゼに襲い掛からんとじっと覗き込んでいるのが見て取れた。
「どうしたんですか、メル? もしかしてもう……?」
「いえ。違うの。それよりリゼ、何があっても決して上だけは見ないで。それと今から私が言うことを落ち着いて聞いて頂戴。いいこと?」
「は、はい」
「リゼの頭上に、あなたを喰らわんと大口を開けている化物が居る。おそらく今あなたがその炎の近くを離れた直後に襲い掛かってくるつもりだわ」
「な……!」
「だからリゼ、作業が終わってその鞴を後ろに背負ったら、最初に私たちが来た方に向かってすぐに飛んで……後は、この私に任せて」
「メル……了解です」
やがてリゼが十分な量の炎を蓄えた鞴を自身の背中側に回すと、私の指示通りに動き出した彼女は、元来た場所へと向かって一目散に飛び出した。すると上からその光景を見ていた化物が彼女の後をすぐに追わんとして、空中通路から降ってきた。
「今だわ……光よ、捕らえて!」
幾ら思念に応じて姿を変えるといっても、あの化物を貫くほどの力は流石に無い。しかしその身体を一時的にでも捕らえることが叶った以上、相手が身動き出来ない僅かな間にリゼと二人でここを脱出する!
「ん……! 戻ってきた……⁉」
私がリゼに襲い掛かろうとしていた化物を拘束したのも束の間、炎の前に立っていたあの牛頭と馬頭がこちらに戻ってきたようだった。再びその重々しい足音を響かせながら。
「ちょうどいいわ……ふんっ!」
例の二体がこちらに向かって突進しようとしていた様子だったのを私は逆に好機と捉えて、私は霊枝から伸ばしていた光の綱で拘束していた件の化物を、その二体に目掛けて思い切り投げ飛ばした。果たしてそれは先頭を走っていた牛頭の足元に直撃し、さらに前のめりに倒れ込んだその巨躯に躓くかたちで、すぐその後ろに続いていた馬頭の脚をも掬った。
「ふふっ、上手く行ったわ……! あとは全力で……逃げるのみよ!」
そうして私は先にこの場から退避したリゼの後を追って、まずは地上を目指すことにした。まるで死体の匂いを嗅ぎつけて
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