第112話 お腹の虫が笑う時


 リゼは夕食の時間ということで私たちを呼びに来たらしかったものの、いざ現地に向かってみればあの有様だったため、宿に戻った私たちはレイラからの治療を受けた後、師匠と二人して正座をした上で、リゼにこっぴどく絞られることになった。


「……全く! あんなところでまた殺し合いみたいな修行をして! この大事な時にもしも命にかかわる大怪我をしたらどうするつもりだったんですか! いつだってレイラの治療が都合よく間に合うとは限らないんですよ!」

「ご、ごめんなさい……リゼ。久々のことでつい、熱くなってしまって……」

「ベアトリクスさんもですよ! 指導を行う側の方であれば物事の限度というものが解っていて然るべきではないですか? 一体お幾つのつもりなんですか……!」

「す、すまない……それと年齢は、記憶が無くて全く判らん」

「いや、そういう話ではなくてですね……とにかく二人共、今回はやり過ぎです! ここでしっかりと反省してください! それまで夕食は抜きですからね!」

「……うわぁ、リゼお姉ちゃんって本気で怒るとものすごい迫力だね……私もあそこまで怒られないようにしなくっちゃ」

「ふふ……そうねエフェスちゃん。まさに怒髪、天を衝くといった感じかしら。けど、私はそんな彼女の言葉の端々から愛のようなものを感じるわ。ああ言っているのも、二人のことがそれだけ心配だったことの裏返しなのでしょうね、やっぱり」


 リゼからきついお灸を据えられた後、私は師匠と顔を見合わせながら、思った以上に白熱してしまった手合わせのことを宿の部屋で反省する一方で、おあずけとなってしまった夕食に思いを馳せていた。そしてそんなことを考えてしまったがために、間もなくお腹の虫があちらとこちらから独特な音を奏で始めたようだった。


「……腹が減ったな、メル」

「もう、こうなったのは一体誰のせいです……?」

「お前だって乗り気だったろうに。ともあれ、今回のことは両成敗だ」

「はぁ……今頃リゼたちは、外で美味しい夕食を頂いているんでしょうね」

「そういえばこの宿は釣り道具も貸し出していると言っていたな……なら今からあのだだっ広い運河に出て、其処で一緒に釣った魚でも焼いて食うのはどうだ?」

「いや、それは流石にちょっと……でもあとでリゼたちにちゃんと許してもらったら、二人で何か頂きに外に出てみましょうか」


 それからしばらくの間、空腹から意識を逸らせるために二人で取り留めも無い会話を続けていると、途中からどういうわけか私が師匠から山中で巡り会った意外な食物についての話を一方的に聞かされることになった。

 結局話が食べ物のことに及んで、本末転倒だと私が感じたちょうどその時、ふとこの鼻腔に、何か良い香りが流れてきたことに気が付いた。


「……それがな、また意外に美味だったのだ」

「ん、待ってください師匠……何だか良い香りがしてきませんか?」

「ふむ……確かに。これは山中や森でも嗅いだことのない香りだが、自然とこう、身体に染み入るような感じがしてくるな」

「やはり師匠にも? なら幻覚ではないですね……それにこの香り、何故かその濃さをどんどんと増してきているような……一体これは何処から?」

「いかんぞ、メル。このままこんな香りを嗅ぎ続けていたら、私たちの腹の虫がどうにかなってしまうやもしれん」


 その師匠の言葉は半ば冗談めいて聞こえたものの、同時に言い得て妙であるようにも感じられた。いずれにしても私たちが常とは比較にならないほど酷く食べ物を欲しているのは明らかで、その理由も二人してあれだけ激しく動き回っていたことを考えれば、もはやお互い言うに及ばずといったところだった。


「あれ……よくよく考えれば、この香りって前にどこかで――」

「ただいま戻りました、メル」

「あ……アンリ。おかえりなさい。えっと、船の調子はどうだったのかしら?」

「はい。アシュ砂漠でかなり練習を積んできましたので、もうエフェスを酔わせるようなことは無いかと……ちなみに船は町の近くの雑木林に隠して来ました」

「それは何よりだわ。ところで……リゼたちとは会わなかった?」

「あぁ、それなら下にある自炊用の調理場でずっと何かを煮込んでいるみたいでしたよ。あとで私にも振る舞って頂けるそうで、ありがたいことです」

「えっ、煮込んで……? それって、もしかして……」


 するとアンリに引き続いて、エフェスが部屋に戻ってきた。そして彼女は私たちの姿を認めると同時に少し意外そうな表情を浮かべながらその口を開いた。


「あっ、二人共本当にちゃんと居る」

「……エフェス、ひょっとして私たちが何処かに行くとでも?」

「うん。私は二人がお腹があまりにも減り過ぎちゃって、途中で部屋を抜け出すんじゃないかなって思ってたから」

「……なかなかどうして鋭いな、あの子も」

「いや、私はさっき外に出ようと誘ってきた師匠を一応止めましたからね?」

「とにかくほら、下に皆で一緒に食べれるところがあったでしょ? 今からあそこに来てって、リゼお姉ちゃんが。もちろんアンリもね」


 それからアンリと共にエフェスに導かれるかたちで部屋から移動した。リゼたちが居るという階下にあるその場所は、宿泊客が室内に設けられた調理場を利用して自炊を行い、また木材をそのままのかたちで利用した長机と長椅子があるところに集って食事も行えるということだったものの、リゼたちは外食に出ていると思っていたので、まず使うことはないと考えていた。

 しかしどうやらアンリの言葉通り、リゼたちはその調理場で何かを煮込んでいたらしく、室内は私たちのいたところにまで漏れてきていたとても食欲を擽る香りに満たされているのがすぐに判った。


「あの香りはここからだったのね……ひょっとしてリゼたちは、外で食べてきたのではなく、商店から食材を仕入れてずっとここで調理をしていたのかしら……?」

「あっ、来ましたねメル。エフェスから聞きましたが、二人共部屋を抜け出さずにちゃんと反省されていたようですね」

「と、当然でしょう? 幾らお腹が空いたからって、途中で勝手に部屋を抜け出して、外に食べに行ったりするものですか……」

「ふふ、よく我慢出来ました。ではその代わりといっては何ですが……私たちが調理した煮込み料理を食べてもらおうと思います。さぁ、そちらにお座りください」


 リゼに言われるがまま木製の長椅子に着席すると、木の長机上には緑黄色で奇麗に彩られた野菜の盛り合わせがある以外には、主菜はおろか他におかずと思しき副菜も見られず、その煮込み料理とやらの姿は何処にも無かった。


「あら……? お野菜しか無いようだけれど、これはどういう……?」

「ふふ、慌てないでください。今日の主役はこちらになります」

「ん、これってもしや……」


 リゼが配膳した皿には、真珠のように美しい光沢を湛えた白米がこんもりと盛られていて、さらにその上からかつてアル・ラフィージャで頂いたカリーと思しきものとよく似たソースがたっぷりと掛けられていた。ただあの時よりもそのソースはさらに色濃く、またとろみがあるように見えて、そこにはニンジンやジャガイモ、そしてタマネギといったお野菜に加え、エビや貝の剥き身、それから輪切りにされたイカといった魚介類が、芳醇な香りを漂わせる海の中に幾つも浮かんでいた。


「えっとですね、これはフィルモワールで食べられているカリー・オ・リと呼ばれる煮込み料理で、予め様々なお野菜と果物とを一緒にして煮込んだ鍋に、この町で得られたカリーの粉末に小麦粉を合わせたものをバターで炒めたルゥというソースを加え、さらに別に炒めた海の幸をそこに足したものを、ふっくらと炊き上げたお米の上に惜しみなくたっぷりと注いだお料理です。とっても美味しそうでしょう?」


 リゼ曰く、本当は主な具材の一つにお肉を使うところであるらしかったものの、この町に深く根付いた宗教上の観点からそれを魚介類に差し替えたという話だった。しかしフィルモワールでも海の幸を主役にしたカリーは数多くあるそうで、その相性は折り紙付きだという。

 やがて配膳が終わり、皆がそれぞれの席について食前の祈りを捧げたあとに、私は早速スプーンで掬った一口をありがたく迎え入れることにした。


「……んっ、これは……とっても深くて、ものすごく美味しいわ……」


 以前アル・ラフィージャで頂いたカリーとはまたかなり趣きが違って、そのルゥというソースには野菜や果物から染み出た自然の甘みや俄かな酸味に、魚介から得られた深みのある煮汁と現地から調達した様々な香辛料と思しき刺激とが絶妙な塩梅での調和を見せているようで、とても奥行きがあるまろやかな味わいがあり、さらに多くの具材が合わさって出来た一種のとろみといったものがそこに加わることで、白米にもよく絡み、まるで飲み物のように胃袋へと流れ込んではそれを喜ばせているのが判る、実に素晴らしい煮込み料理だと感じた。


「いや……本当に、身体に沁みるな……これは。腹の虫も今頃は歓喜の舞いを披露していることだろうさ」

「ふふふっ……お二人共、喜んでくれたようで何よりです。レイラやエステールさんに手伝ってもらった甲斐があったというものですよ」

「だってこれ本当に美味しいし……んぐっ、んもっ」

「あらあら、エフェスちゃんは相変わらずの豪快な食べっぷりね。まるで飲み物を頂いているよう……ふふ、いつ見ても飽きないわ」

「まだまだ沢山ありますから、遠慮なくおかわりしてくださいね」


 皆で食事を楽しみながらしばらく思い思いの感想を言い合っていると、やがてアンリが申し訳なさそうな表情を浮かべながら、話をし始めた。


「あの……せっかくの和やかな雰囲気に水を差すようで申し訳ないのですが……砂漠で飛行練習をしていた際、世界地図を頼りにアル・ラフィージャや周辺の都市を上空から観て回った時に、気が付いたことがありまして……」

「そういえばあなたの意思通りに視点が自由に動くのだったわね……それで、アル・ラフィージャ周辺はどうだったの?」

「それが……首都周辺は恐らく大量に備蓄されていた炎水の影響からか、市民の大規模な妖魔化は免れたのでしょうが、そこから少し離れた都市は既に相当数の妖魔によって支配されている様子でした。被害が及ばなかった人たちはおそらく首都にある王城などの堅牢な守備を誇る建物に避難したと思われますが、他所から押し寄せた妖魔が襲来すれば、そう長くは持たないでしょう」

「……そう、だったのね。やはり根元を断つ以外には、被害を食い止める方法はなさそうだわ。ただ……」


 私にはまだ懸念材料があった。元凶を排除するにあたっては、当然ロイゲンベルクにまであの空中船を使って乗り込むしかないものの、そこに辿り着くまでには必ず妖魔化させられた人間たちとの交戦を余儀なくされるに違いない。果たして私はその時、一切の迷いを捨て去って襲い掛かってくる妖魔たちを退けることが出来るのかどうか、あるいは現地では躊躇っている余裕など微塵もない中、私を含めた皆が精神的にちゃんと戦える状態を維持することが可能なのか否か、とても心配だった。


「ええ。メルの憂いも解っているつもりです。そこでそのために必要な情報が残っていないかどうか確かめるために、私に一度、エフェスと見たというリコリアに触れさせてはもらえませんか? 以前クリストハルトは、この指輪でもその中身を見ることが出来ると言っていましたから」

「なるほど……確かにあの時は、全ての情報を読み取ることが出来ていなかったかもしれない。では食事が終わったら、改めて情報の解析をお願いするわ」

「はい、実際に見れるかどうかは不明ですが、試してみます」


 そうして私はアンリにエセルから託されたリコリアの中身を再度確認してもらうことにした。ひょっとしたら私たちが探りきれていなかった情報がまだ中に残っていたかもしれない。もしもその中に、ロイゲンベルクの王城がある一帯だけでも、妖魔化を鎮めるための術が隠されているとしたら、それは願っても無いことだった。

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