第109話 邪気を払う力


「……ん、んん……」

「着きましたよ、メル」

「あ、あぁ……ごめんなさい。私、眠ってしまったようね」


 私はいつの間にかリゼたちと共に座席に着いたまま眠っていたらしく、アンリに声を掛けられて目を覚ました。ただ彼女の仲間を除いて、私以外のほぼ全員が同じようにして寝息を立てていた様子で、昨夜は皆があまり睡眠を取ることが叶わなかったことから、その分の疲れがここに来て一気に出てしまったのだろうと感じた。


「いえ……きっと皆さん、昨日はあまり眠れなかったのですよね。本当ならもうしばらくこちらでお休みになっていて欲しかったところですが……」

「ありがとうアンリ。けど、それには及ばないわ。さぁ、地上に出てそのスプーラという町の様子を探りに行きましょうか」


 それからややあって地上へと達した私たちは、薄明に包まれている空を見て、世界がこれから朝を迎えようとしていることに気が付いた。どうやら私たちは昨日の午後にあの列車に乗ってから、皆で眠っている間に日にちの境界線を大きく飛び越えてしまっていたようだった。


「スプーラの町はこちらです。まだ暗いので足元には注意してください」


 アンリに導かれながら歩みを進めた私たちは、砂漠地帯という土地柄でありながらも辺りにはそれに見合わぬほど多くの緑が広がっていたところから、それはきっと現在地がグラウ運河からほど近い場所であるが故のことだろうと感じていた。


「ねぇリゼ。私、さっきからずっと魔素のような反応を感じるのだけれど、あなたはどうかしら? それも段々と強くなってきているような気すらするのよ」

「確かに……私も似たような反応を感じ取っています。それも、町があるほうから。ひょっとしたらこの先に何かがあるのかもしれませんが、妖気のようなものは不思議と感じませんね」

「あ……皆さん、町が見えてきました。ここから見る限り火の手や煙があがっている様子はありませんが、どうか警戒だけは怠らずに参りましょう」


 しかし慎重に歩みを進めた私たちの不安に満ちた想いとは裏腹に、町の周りには妖魔はおろか妖獣の気配すら感じ取ることは出来ず、その入り口にも外界からの襲撃を防ぐような障害物や防柵の類は一切見受けられなかった。


「これは……どういうこと? とても喜ぶべきことではあるのだけれど……」

「まさに平穏そのもの……ですね。町はこれからいつも通りの朝を迎えるといった感じがします」

「よ、良かったじゃないですか……私、今にもまた戦闘になるんじゃないかって、どきどきしていましたから……」

「レイラの言う通りよ。戦わないに越したことはないもの。けど、少し前にメルが言っていた通り、どうやらこの町は強い魔素で満たされているようね、ステラ」

「ええ。近傍に魔術学院があるわけでも無いというのに、とても不思議です」


 予想に反する平和な光景に皆で首を傾げながらも、内心は揃ってその胸を撫で下ろしていたであろう私たちは、少し和やかな雰囲気を取り戻して、町の中央広場と思しき場所へと辿り着いた。そこには翠玉にも等しい、見目美しい輝きを湛える大きな貴石が鎮座していて、方々に向けて仄かに温かい光を放っているようだった。


「私たちが感じた魔素の正体はこれだったのかしら……フィルモワールの王城にある、ロイエの魔柱石マナリスと似たような雰囲気があるけれど」

「ん……ここに、マネスの魔洸石レムライトと書かれていますね……えっと、この説明文によると、どうやらずっと古い時代にここからほど近いマネスと呼ばれていた場所で偶然発見されたらしく、以降はこの地から邪気を払う霊石として永く崇められてきたそうです」

「なるほど……リゼが今言った、邪気を払うという言葉からしても、この巨石からあの空間結界に似た作用が自然発生的に生み出されているのかも知れませんね」

「何はともあれ、この町が無事だったことは何よりです……ただここには、国が管轄しているものとは別に、私の組織が所有している密輸の監視所があって、其処には私の仲間も居たはずなのですが、どうしてこれまでに誰とも連絡が……」

「とにかく何処かに宿を取りましょうよ。妖魔たちが攻めて来ないと言うのなら願っても無いことだわ。ほら、行くわよステラ」


 程なく目ぼしい宿を見つけた私たちは、お金に糸目をつけないシャルの支払いで二階にあった大部屋を難なく取ることが叶い、アンリは監視所の仲間がどうなっているかが気になるとのことで、一旦私たちとは別行動を取ることになった。

 なおシャルは緊急時であるとはいえ、一度もお風呂に入らずに夜を越してしまったことがどうにも気になったらしく、湯浴みか水浴びが出来そうな場所を宿にあった案内板から探していた。それも一人ではなく、皆で入れるようなところを。宿には一応内湯があるものの、複数人で入るにはどうしても手狭だった。


「とりあえず皆でお風呂、というか湯浴みが出来る場所は……この公衆浴場だけかしらね? でもこれは……どういうことかしら、ステラ」

「……ふむ、この辺りは昔から宗教上の戒律があって、女性は夫か家族以外の人間には、たとえ同性であっても裸を見せてはならないという決まりがあるそうです。まぁ、水着を着て入れば特に問題は無いということでしょう」

「仕方ないわね……こんな時のために一応持ってきておいて正解だったわ」


 私たちも次にお風呂に浸かれる機会がいつになるかは全く判らないため、シャルの勧めもあり、皆で公衆浴場を訪れることにした。まだ午前中という時間帯であることも手伝って、浴場の広さの割に利用している客の数はかなり少なかった。

 ちなみに師匠の分の水着や替えの衣服は、その身の丈がほぼ一致するシャルが余分に持っていたものを貸してもらうことにした。


「はぁ……こんなところで温かいお湯を頂けるのは、とても嬉しいですねメル」

「そうね。何でもこの付近で採掘できる、炎水フロガムの力で熱を得ているらしいわ。近年になって魔鉱に変わる魔導機関の動力源として注目されているあれよ」

「難しいことは分かりませんが……こうしてメルやリゼと一緒に温かいお風呂に浸かっていると、何だかお屋敷に戻ったみたいで、心が落ち着きますね……」

「このお風呂もかなり広いし普通に泳げそう! せっかくだしちょっと……」

「あっ、ちょっと! ここは皆で使うお風呂だから駄目だよ、エフェス。シャルのお屋敷の大浴場で遊ぶのとは違うんだから」

「ちぇっ……つまんないの……」

「ふふっ、エフェスちゃん。帰ったらまた存分にあちらで楽しむといいわ。だからそれまでは少しだけ、我慢をしていて頂戴ね」

「なぁ……ところで、このひらひらしたものは一体何なのだ、メル。ただ水に入るための装いだというのに、何か意味があるのか?」

「ん、師匠はフリルを御存じないのですか? 私としてはそれが付いていた方がずっと可愛らしくて、昔からとっても好きなのですが……」

「正直に言って邪魔ではないか? こんなもの戦いでは何の役にも立たんぞ?」

「いや、役に立つとか立たないとかそういう問題ではなく、そもそも戦いとは無関係の話で……はぁ、記憶を失っていても以前と全く変わらないじゃないですか……」


 皆でこうしているとほんの僅かな間ながらも、いつも通りの日常を取り戻したかのように感じられる。私たちがフィルモワールに辿り着いてようやくにも手にしたあの平穏な時間を。しかしここの町から離れれば、きっとまたすぐに残酷な現実と向き合うことになる。だから今は少しだけでも長く、この穏やかで温かな雰囲気の中に身と心とを浸していたいと思った。


「それにしても、ここに妖魔が攻めてこなかったのは本当にあの霊石だけのおかげだったのかしら? どちらかというとあの地下列車に通じる出入口の付近からして、妖魔や妖獣が訪れた気配の残りすら無かったような気がするのだけれど」


 通例、大勢の妖獣などが群れで移動すると、その付近には妖気の残り香のようなものがしばらく残留しているものの、この町の付近にはそれも全く感じられなかった。それはつまり、この町を中心とした広い範囲が、一度も妖魔や妖獣の集団に侵入されていないことを強く示唆していた。


「ん……あの霊石は確かに大きかったですが、町の外側まで広く妖魔たちを退けるほどの力があるかと訊かれれば、流石にそこまでとは思えませんね。あのロイエの魔柱石のようにもっと巨大な石だったならば、それも分かりますが」

「でもリゼ、私はきっとそれと何か関係があると思うのよ……ひょっとしたらそこから妖魔化を防ぐための手立てを得ることが出来るかも知れないわ」

「おそらく、自然魔素だな」

「えっ……師匠? もしや記憶が……?」

「いや。しかしそういうことは覚えているらしい。この町は、最初はあの石から発せられている自然魔素が町中に満ちているのかと思ったが、よくよくその根源を探れば、あちらこちらから濃い魔素の塊のような漏れ出ているように感じられるのだ。あるいはこの一帯の土地、そのものからも俄かに染み出ているのやもしれん」


 魔素が土地から染み出ているようだとの言葉を受けて、私はあることに気が付いた。アンリから聞いた話ではこの付近では炎水、即ち魔導機関にとって新たな燃料源となる天然資源が多く産出され、それがグラウ運河を通じてマタール王国方面やフィルモワール方面に輸出されているそうであるものの、現在は大陸各地で発生している異常事態の影響によって、運河の区間ごとに幾つも設けられた閘門が閉じられている状態であり、その物流も滞っているとのことだった。

 即ちそれは、多くの自然魔素を含む輸出用の炎水が行き場を失い、町中で大量に保持されたままの状態であるといえる。


 それにそういった土地柄から、炎水の採掘や運搬作業に従事している町人も多いはずで、さらに多く地下に存在しているというその炎水から発生した魔素が、この今も地上へと染み出ているとしたら、この町だけでなく辺り一帯にも比較的濃度の高い自然魔素が存在している理由にも説明がつく。そうなればこの地に住む人たちの体内には、高濃度の自然魔素が知らずのうちに蓄積しているはずだった。


「もしかして……ねぇ、リゼ。この町の人たちは、炎水や霊石由来の濃度が高い自然魔素に日頃から曝されていたことで身体がある種の魔導化状態になっていて、人間を妖魔化させるという例の黒い霧の影響を受けなかったのかも知れないわ」

「……それは、一理あるかも知れませんね。そう考えると、他の町で被害に遭わなかった人たちは偶々霧を吸い込まない環境下にいたか、あるいは自らの体内で高濃度の魔素を生成出来る私たちのような資質を持っている場合に限られるかと」

「試してみることは出来ないけれど、いつか例の霧を避けて通れない時が来たら、体内の魔素を高めた状態を可能な限り維持したほうが良さそうね……」


 その時私が胸に抱いたのは、既に妖魔化してしまった人間に高濃度の自然魔素ないし私たちのような人間が持つ生体魔素の塊だけを浴びせれば、ひょっとしたら元に戻るのではないかという淡い期待だった。その有効性を確かめるのは非常に困難であるものの、もし機会が得られるのであれば一度試してみる価値はあるはず。

 あとでアンリと合流したら、一応この考えを伝えておこうと思った。

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