第104話 姿の見えない恐怖


 アンリとの話を終えて屋敷に戻って来た私は、玄関口から入ってすぐのところに置かれていた長椅子の周りで、暗く沈んだ表情を湛えているシャルたちの姿に気が付いた。彼女たちの様子からして、リコリアに収められていたあの一連の情報をリゼによって伝えられた後であろうことが窺える。


「あら……メル、おかえりなさい。今、戻ったのね」

「ええ、ただいま。シャルたちは……もう、リゼから話を聞いたようね」

「はい、私が皆を集めて話を……それで、アンリは何か言っていましたか?」

「とりあえず彼女の組織にある過去の記録を参照してみるそうよ。恐らく事件の当事者である私以上にあの妖魔に関する詳しい情報は得られないと思うけれど、万が一ということもあるからね……」

「そうですか……しかしその妖魔の所在が判然としない以上、こちらから先んじて打って出ることが出来ないので、何とももどかしいです……」


 姿の見えない相手は、この世界の在り方そのものを自分の都合の良いように改変しようと今も何処かでそのための活動を絶え間なく続けているはず。特にその企てに深く与していたであろうクリストハルトからの連絡が途絶えたことを知れば、様々な段階を一気に飛び越えて、より大きな行動に出てくる恐れもある。


 それにレイラが元々暮らしていたアル・ラフィージャでも同様の失踪事件が起きていたことを考慮すると、他にもクリストハルトのような人間が各地に点在していても全く不思議ではなかった。もしあの妖魔がそういった配下にも等しい人間たちに対して何かしらの一斉行動を命じるようなことがあれば、きっとその日を境に世界中で大きな異変が同時多発的に発生するはず。


 言うまでも無く、それはこのフィルモワールとて決して例外ではなかった。


「とりあえず今は、あの時リコリアから伝わってきた情報を整理しながら、何か出来ることが無いかを皆で考えるぐらいしか……」

「うぅ……もう明日から学校行くの止めようかな……」

「気持ちは解るけどそれは駄目だよ、エフェス。それはそれで今のエフェスにしか出来ないことなんだから、しっかり続けなくっちゃ……」

「はぁい……」

「皆さん、夕食の支度が整いましたよ。こんな時こそしっかり食べてくださいね」

「ありがとう、エステールさん。ほら、皆行きましょう。もしもの時、お腹が空いたままじゃ出せる力も出せないでしょ?」


 その後、皆で囲んだ食卓にはエフェスが好きな肉料理が所狭しと並べられていたものの、エフェスだけではなく、皆が一様に元気を何処かに置き忘れたように暗鬱な面持ちを浮かべていて、あまり食が進んでいないようだった。何よりあの食に目が無いリゼでさえも似たような状態であることから、あのリコリアが齎した衝撃がいかに大きかったのかが手に取るように判った。


「リゼ、さっきから全然食べていないじゃないの……あなたの持つ怖れはとてもよく解るわ。他でもないこの私が、最もね。けれどあなたがそんな状態では、いざという時に守れるものも守れなくってよ」

「あ、はい……すみません、メル。私がこんな顔してちゃ駄目ですよね……いつでも戦えるようにしっかり食べておかなくっちゃ……はむ……美味しい……」

「ほら、レイラも。明日、作業中に針で指を刺してしまうわよ?」

「あっごめんなさい……何だか少し、ぼうっとしていました」


 ――私だって怖いわよ……? 今あるこの平穏な時間の全てをこれから失うかもしれないことが。私から全てを奪ったあの妖魔に、また何もかも奪われてしまうことが。部屋の隅で震えながら頭を抱えて蹲ってしまうくらいに。けれど姿の見えない恐怖にただ慄いているばかりでは何も出来やしない。


 そんな状態で本当に何かを奪われそうになった時、それに抗う力を持つことなんてもっと出来ない。だから今はたとえ自分に嘘をついてでも心を強く持たなくてはいけない。きっと大丈夫、きっと何とかなる、きっと全ては上手くいくからって。


「ごちそうさま……」

「あらエフェス、もういいの? 今日はあなたの好きなものばっかりでしょ?」

「うん、でも何だか食欲が無くって……」

「これは、思った以上に重症ね……ふぅ」


 このままでは本当に駄目だと感じた。

 このままでは呑まれると思った。

 だから私は、私を曝け出した。


「皆……いつまで、いつまでうじうじしているの! この中で誰が一番あの妖魔のことを恐れていると思っているのよ! 私はあいつにお母様とお兄様の命を奪われ、父は心を殺された。私だって死にかけた……そしてこの今も、皆との時間を奪われるかもしれないっていう見えない恐怖とずっと戦っているの! 私はあなたたちがそんなままなら、たとえ一人きりでだって戦ってやるわ! 何も起きていないうちから、まだ実際に戦ってもいないうちから、全てを諦めたような顔をしないで頂戴!」

「あ……そ、その! ご、ごめんなさい……!」

「メ、メル……⁉ は……はは、私どうしてここまで怖気付いてたんだろう。そんな妖魔なんかより怒ったメルの方がよっぽど怖いのに……ねぇ、エフェス」

「う、うん……でも何だかメルお姉ちゃんが居れば、大丈夫そうな気がしてきたかも……」

「どういう意味よ、それは……」

「ひっ! 目が、目が怖いって!」

「ふ、ふっふっふ……全く、メルの言う通りだわ。妖魔が何だって言うのよ。もし大挙して押し寄せて来るというのなら、皆で全て返り討ちにしてやればいいだけのことだわ。そうでしょ、ステラ」

「はい、シャル。それにこのフィルモワール周辺にまで張り巡らされた空間結界に侵入するということは、純粋な妖魔にとっては地獄の業火に身を晒すようなものだと聞いています。有事の際にも備える余裕は十分にありますよ」


 柄にもなく昂った感情を露わにしたのがかえって奏功したのかも知れない。恐怖は恐怖のまま変わらず其処にあり続けているとしても、それに対する皆の心構えぐらいには発破をかけられたというか、良い変化を与えられたような手応えを感じた。


「さ、食べましょ食べましょ。せっかくの美味しいお料理が冷めてしまうわ。レイラ、悪いけれどこのお皿にそちらの鴨肉を少しよそってもらえるかしら」

「あっ、はい。えっと……これくらいでいいですか?」

「あれ、さっきまで食欲が無かったのに、急にお腹が空いてきたような……」

「ふふっ、私もだよエフェス。一緒にたくさん食べよう!」


 それから皆は先ほどまで流れていた暗然とした空気が嘘であったかのように、常の団欒を取り戻した様子で、豪勢な夕食を楽しむことが出来ているようだった。やはり場の空気や心の在り方次第で、料理そのものの味も大きく変化してしまうもの。事実、この舌と心とがそのことを如実に伝えてきているのだから間違いない。


「ほらエフェス、このファルス……だったっけ? こうして肉詰めにしてあればピーマンやトマトも一緒に食べられるでしょ?」

「うん、こうしてあればあんまり気にならないかも」

「この赤ワインで煮たっていう牛さんのほほ肉も蕩けるようですね、メル」

「ええ、本当に美味だわ。こんなのが自分で作れたらすごいわよね、リゼ?」

「へっ? あ、はい! いつかは私もこういったものをメルたちに振る舞えるようになってみせますよ」


 いつも通りの和やかな雰囲気を保ったまま食事を終えた私たちは、先日まで滞在していたイル=ロワーヌ島でそれぞれが買って来たお土産の話などで盛り上がった後、揃ってお風呂を頂き、また明日からも始まるであろういつも通りの日常生活に備えて、各自が早めの休息を取ることにした。


「あ……エフェス、もう寝ちゃったみたいです。私とメルに挟まれていると、やっぱりすごく安心出来るみたいですね」

「それは何よりだわ。ちょっとだけ過保護かも知れないけれど、エフェスはこれまで本来であれば親から受けるべき愛情を全く受けられずに育ってきたのだから、このくらいでちょうど良いわよね」

「はい……物心ついた時に両親が世界の何処にも居ないという気持ちは、私にも痛いほどよく解りますから。妹まで失って本当の独りになった時、家族のように接してくれたメルや母君様たちの想いが、本当にどれほど嬉しかったことか……」

「あ……ひょっとしてリゼ、久々に私からいい子いい子ってして欲しいの?」

「えっ……そ、そんなわけないじゃないですか! 子供じゃあるまいし……」

「あらそう? 残念だわ、次に二人で眠る時にしてあげようかと思ったのに」

「えっ! ちょ、ちょっと……待ってください。その、メルがどうしてもしたいっていうなら、その……私は構わないですけど……」

「ふふっ、リゼが私にお願いしてくるまではしてあげないから」

「いっ! そ、そんなぁ……!」


 ふと気が付けば、私たちはもういつも通りの私たちを取り戻していた。つい何時間か前までは冗談の一つすらも言えず、このリゼが食べ物がほとんど喉を通らないという異様な状態だったのを考えると、底無しの恐怖に呑み込まれてしまうことだけは無事に避けることが出来たようだった。そして他にも不測の事態に備えて今のうちから打てる手があるとすれば、私は積極的にそれを行っていきたいと思った。


「ん……そうだわ、リゼ。前にあの巨大サソリが残していった甲殻の破片って、まだあなたの手元にあるのかしら?」

「あぁ、えっと私の自室を探せばすぐに見つかると思いますけど、それが何か?」

「明日それを調合の素材として使いたいから、屋敷を出る前に練金工房の何処かに置いて行って欲しいのよ」

「分かりました。では、明日自室に戻った時に軽く探して、見つけたら言われた場所に置いておきますね」

「ええ。それを使ってあなたのこれからに役立ちそうなものを作ってみせるから、楽しみにしていてね。あ……今のうちに必要な寸法も計っておかなくては」

「あっ、私のために何か作ってくれるんですね? ありがとうございます、メル! 出来上がりを楽しみに待っていますね!」


 これからもし、多くの妖魔を一度に相手にするような事態に陥ったら、重要になるものはやはり瞬間的な最大攻撃力と継戦能力。お母様が遺してくれた高度な錬金術とシャルが用意してくれた最新式の練金工房とがあれば、その力を向上させるための装備が新たに創れるかも知れない。あとは私の腕次第ながら、挑戦あるのみ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る