第103話 短い休日の終わりに


 夕方前にはもうフィルモワールへと戻ることになっていた私たちは、シャルの家が所有する件の砂浜に再び訪れ、恐らく今年最後となる海水浴を皆で楽しんでいた。


 私はリゼから泳ぎ方を教わり、レイラはエフェスと一緒にあの球技で使った水にも浮く半透明の球を使って遊び、そしてシャルは大きな日傘を据えた白い長椅子に横たわりながら、潤滑油のようなものを手に付けたエステールから全身の按摩あんまを受けているようで、恍惚とした表情を浮かべているようだった。


 なお、その様子を時折遠目がちに眺めていたリゼは、自分もあんな風に私の疲れを癒してあげられることが出来たらなと零し、今度エステールから按摩のやり方に付いて訊こうかなとも語っていた。確かにあんなに気持ちよさそうなシャルの顔を見ていたら、私自身も一体どんなものなのか、体験してみたくなってきた。


 そうして一頻り海を楽しんだ私たちは、エステールが予め用意していた昼食を頂きながら、次に遊びに行くとしたらどんな場所があるか、などといった話に喋々ちょうちょうとして、また新たな花を咲かせていた。

 それからやがて昼食後の休憩を取っていた時、例の話を切り出す時機をずっと窺っていたであろうリゼが、終にその口を開いた。


「ごめんね、エフェス。ちょっと良いかな?」

「ん? どうしたのリゼお姉ちゃん」

「その、お屋敷に戻ってからでいいんだけれど……エセルから預かった水晶玉みたいなものって覚えてるよね?」

「ええっと確か……リコリア、だったっけ? それがどうかしたの?」

「そう、リコリア。その中身をね、エフェスに見てもらいたいんだ。エセルがほら、今はちょっと遠くに居るじゃない? だからあの子の代わりに……」

「うん、いいよ。中を見ればいいだけなんでしょ?」

「そうそう。ちなみにその時は私やメルも傍に居るから、途中で気分が悪くなったりしたらすぐに見るのを止めて、私たちに言ってね」

「うん、分かった!」


 休憩の後、道具小屋から持ってきた大型の浮具でただ海の上を漂ったり、シャルから教わったあの球技に興じるなどして、私たちは日が暮れ始める頃までその砂浜での楽しい時間を皆で過ごした。


 そして帰りの船の中で、今度はアンリやエセルも一緒に連れて来たいなと語り合いながら、必ずまた皆でここに訪れることを目標に、気を新たにしてこれからの毎日を再び頑張って行こうとそれぞれが誓い合った。



 ***



 屋敷に戻った私とリゼは、他の皆が各々の自室に戻ってお土産などの荷物を整理しているであろう中、二人してエフェスの自室を訪れ、彼女にリコリアの中身を確認してもらうようにお願いした。


「本当に疲れてるのにごめんね、エフェス。代わりといっては何だけど、今日の夕食は出来るだけエフェスの好きなもの、一杯用意してもらえることになったから」

「えっ、そうなの? それは楽しみ! えっとそれじゃあ早速、リゼお姉ちゃんが言ってたやつの中身を見てみようかな」


 エフェスは間もなく、布にくるまれた状態で置かれていたリコリアを取り出し、近くの寝台に腰掛けながら、右手にしたそれに何かを強く念じ始めたようだった。


「ん……」


 するとそんなエフェスの意思に反応したのか、彼女の右手にあるリコリアが仄かに紅い輝きを放ち始めた。私とリゼにはそんな彼女を見守ることぐらいしか出来ないものの、おそらく直に触れているエフェスには今、クリストハルトが残した何らかの想いや情報が流れ込んできているはずだった。


「んん……何、これ……」

「大丈夫? エフェス。お姉ちゃんがもう片方の手、握っていてあげるね……」


 そう言ったリゼが少し難しい表情を見せ始めたエフェスの左手を徐に握ると、リゼは急に何かを感じたのか、目を瞑りながら俄かに呻き始めた。


「ど、どうしたのリゼ? 一体何が……」

「み……見えるんです、きっと今エフェスが見ている光景が……メル、ひょっとすると私の手を掴んでもらったら、そちらにも伝わっていくかもしれません」

「どれ……試して、みましょう……んっ!」


 思わず後ろに仰け反ってしまうような衝撃を全身に受けたかのような感覚を覚えたあと、私のものでは決してない、クリストハルトのものと思しき想いが映像や感情を伴ってこちらの中へと大量に流れ込んできた。


 ――この世界の色は、間もなく無数の妖魔によって黒く塗り潰される。

 異界より訪れし忌むべき御落胤ごらくいんが、この地を彼自身のものとして書き換える。

 人は妖魔に、獣は妖獣に、生きとし生ける全てのものが新たな世界の糧となる。


 人に非ざる異能を前に、人はあまりにも無力で、触れることすら叶わない。

 しかし彼とて今はまだ完全な存在ではない。受肉を得るためには数多くの妖魔とその魂とを喰らう必要がある。そのために取るに足らない人そのものをただ滅するのではなく妖魔へと変貌させ、彼に対する供物として捧げるのだ。


 そしてその過程に際し、多大な貢献と絶対的な忠誠を示した選ばれし者たちには、来たるべき新世界において大いなる力を拝受し、永遠にも等しき生を謳歌することまでもが叶う。そうすればこの私が長らく恐れて続けていた老いることと、死そのものを克服することすらも出来る。


 ただし、この私もただ黙って阿諛追従あゆついしょうし、あの落胤に支配されるつもりはない。いずれ彼が受肉を経て形あるものとしてこの世に現れたその時にこそ、その玉座を簒奪さんだつする機会が生まれる。


 大義の前の小儀を成すために得た借り物の知識は、そのための力と手段とをこの私に示し、授けてくれる。今はただ彼の与り知らない地の底で、来るべき時のために備えを万全に期すことに専念するほかはない。例え如何なる犠牲を払おうとも、やがてはそれが人という種が生き延びる唯一の術となる。

 

 ならばもはや、是非に及ばず。

 それを成せるのはこの私、ただ一人を除いて、他には居ないのだから。


「な……なに、何なのこれは……どういう、こと……?」

「全ては理解……出来ませんでしたが、でもこれで今まで感じてきた多くの疑問に、説明が付きます……」

「分からないよ、リゼお姉ちゃん……これって一体、どういう意味なの……? そもそもごらくいんって何のこと?」

「御落胤っていうのは……その、特に偉い男の人が、自分のお嫁さん以外の女の人とこう……色々あって外に出来ちゃった子供のことで……複雑な事情からその子はお父さんから自分の子だって認められないことが多々あるっていうか……」

「何、それ……? けど何だかものすごく怖い感じがした……妖魔にそっくりだけど、それよりもっとずっと大きなのがこう……一気にぞわぞわって」

「……でも知っているわ、私。この気配が、何なのかを……」

「えっ、どういうことですかメル? 知っているって……?」

「これは、かつて私の……私のお母様とお兄様の命を一度に奪ったあの……黒い、妖魔が纏っていたおぞましいほどに暗晦あんかいとして重々しい気配、そのもの……だわ」

「な……! そんな、何て、こと……!」


 あの時、私の心身に激しく喰らい付きながら全身の毛を逆立たせ、この背筋の芯までをも悉く凍てつかせた底無しの怖気おぞけ。その感覚を忘れたことは今に至るこの時まで一度たりとも無かった。


 そして私から全てを奪い去り、父をも変容させてしまった元凶――黒い妖魔。それは全てが鮮明なまま残っている記憶の中で唯一、暗く暈けた霧のように映りながら、消えない黒黴くろかびのようにこびり付いていた異質の存在。どうやらクリストハルトの言う異界からの忌むべき落胤とは、あの妖魔そのものを指しているようだった。


 クリストハルトは何らかのかたちを以てその妖魔と接触し、同志を集めた上で、彼を中心として回る恐ろしい世界を形作る者として一翼を担い、表向きには善人の皮を隠れ蓑にしながら振る舞いつつ、裏では人を妖魔に変え、さらにその妖魔を使って自分の企みを現実のものとするべく暗躍を続けていたに違いない。


 しかしクリストハルトは、その妖魔に忠誠を示す一方で、やがて彼に成り代わって新世界の支配者にもなろうとしていたようで、現在では知り得ないはずの古代の知識までも駆使しながら、いずれ反旗を翻すための準備を秘密裏に進めていたことが窺える。また先日、あの遺跡の地下で見た無数のミスパルたちも、そのための対抗戦力だと考えれば合点がいく。


「しかしこれは、私たちの手には余り過ぎるほどの一大事だわ……。一刻も早くアンリにも知らせておかないと、いずれ取り返しが付かない事態にも成り兼ねない」

「私怖いよリゼお姉ちゃん……これから、何が起きるの……?」

「落ち着いて、エフェス。きっと今すぐにどうこうなるってわけじゃないから。ほら、こうして手を握り合っていれば、安心出来るでしょう?」

「……リゼ、しばらくエフェスのことを見ていてもらえるかしら。私はとりあえず、今からこのことをアンリにも伝えてくるわ。もちろん他の皆にもあとで、ね」

「分かりました。こちらはお任せください」


 屋敷から出た私は、前にアンリ自身から教えてもらっていた、緊急時の訪問先に指定された施設へと向かった。現在は件の遺跡とその周辺の調査に携わっていると聞いているものの、今其処に行けば偶然彼女に会える可能性がある。もし仮に彼女が不在だったとしても、その時は伝言を残すなり伝書鳩を送るなり、彼女と連絡を取る手段は他に幾らでもある。


 そしてやがて私がその施設を訪問し、アンリの所在を確かめると、幸運なことに彼女は偶々其処に居合わせていたところだった。


「……その様子からして、ただ単にお土産を渡しに来たというわけでは無いようですね。ひょっとして、リコリアの中身が解析出来たのでしょうか?」

「流石に鋭いわね。その通り……エフェスの協力で私はあの中に秘められた情報を見ることが出来たわ。いい? アンリ。これから私が話すことを、どうか落ち着いて聞いて頂戴ね……」


 そして私の話を一通り聞き終えたアンリは、眉を寄せながらも慌てふためくようなことはなく、あくまで冷静さを保った様子で、何かを思案しているようだった。


「この話が全て本当だとして……その落胤とやらは、一体今何処で何を……?」

「そこまでは判らなかったわ……あのリコリアには直近のクリストハルトが抱いていた想いや強い意思だけが収められたものだったから」

「ですがメル自身は、その落胤と思しき妖魔に一度、遭遇しているんですよね?」

「ええ。私にとっては忘れようとしても忘れられない記憶だから確かなことよ。遭遇したのはロイゲンベルクにあるフィーン・アジールという大樹がある場所だわ。もう今から七年も前のことだけれどね」

「承知しました。こちらで過去に他国で起きた異変の記録を参照して、該当する案件がないかどうか詳しく調べてみます。何か判ったらすぐにお伝えしますね」

「……分かったわ。どうかよろしくお願いするわね」


 あの妖魔の所在は当時からようとして知れず、父自ら指揮した討伐隊が駆逐したのも周辺で突然変異を起こしたらしかった妖獣がほとんどだったと聞いている。この七年間、一体どこでどんな悪計を巡らせていたのかを考えただけで、私は背筋が酷く震え出して、それがそのまま止まりそうにもなかった。

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