日が暮れるまで

第100話 秘湯に身体を委ねれば


 フィルモワールから東南の沖合に向けて発進した魔導船に揺られること半時あまり、私たちは若返りの神効があるとされる温泉を幾つも従えた火山島、イル=ロワーヌへと無事に到着した。ここでは火山や島周辺を流れる暖流の影響もあり、気温だけでなく海水までもがフィルモワール本土よりもずっと暖かく、浜辺では今の季節でも十分に海水浴が楽しめるとのことだった。


 また今回は私の勧めもあって、シャルの執事であるエステールも同行している。ただ残念だったのはアンリを誘えなかったことで、彼女は例の遺跡調査の件があったため、今日ここに来ることは叶わなかった。


「ここがイル=ロワーヌなんですね……メル」

「ええ、何でもあの山間やまあいにシャルの言う隠し湯があるらしいわ」

「ほら見てごらんエフェス、あれが火山だよ! 今でも生きているんだって」

「生きてる……? それってどういうこと?」

「えっと、いつかはまた噴火……つまりあの山の頂上から溶岩がどっかんと吹き出してくるかも知れないってことだよ」

「えっ……どっかんって……爆発、するかもしれないの?」

「んもう、そんな心配そうな顔しなくなって大丈夫だから。ほら、行こう?」


 エフェスはリゼと一緒になって眠ってから大分その心が楽になったのか、昨日よりもずっと明るい表情を見せているように感じられた。一方レイラは、彼女自身にとって温泉というもの自体が初めての経験であったらしく、とても楽しみにしているさまがその全身からありありと満ち溢れている様子だった。


「ここから隠し湯がある場所までは少し歩くことになるけれど、そうした方がかえって湯に浸かった時により心地よく思えるはずだから、頑張って歩きましょうね。夕食にはこの島の先住民族の調理法であるバルバコア……私たちはバーベキューと言っているものを皆で楽しみましょう」


 シャルも久しぶりに大勢の女性を引率するのが嬉しいのか、極めてうきうきとした調子でそう言いながら、目的地を目指して先頭を歩き始めた。


「あの……メルさん、ありがとうございます。お嬢様からお話は伺いました。何でも私を誘ってはどうかとメルさんから提案して下さったとか……」

「いえ、礼には及びませんよ。私たちも日頃からお世話になっている身ですし、シャルも……エステールさんに話したいことがあるみたいでしたから」

「えっ、お嬢様が私に……?」

「シャルはシャルできっと近しいが故に照れくさくて、普段は伝え辛いことがあるのかもしれません。向こうに着いたら、温泉に浸かりながらシャルと二人でお話をしてみてはどうですか?」

「そう……ですね。何とか機会を作って……話をしてみます」


 ――あとは二人に任せておけば、きっとその関係にもこれまでにない変化が起こるはずだわ。シャルはあの取り巻きの子たちを失って、独りぼっちになったと思い込んでいるようだけれど、もしシャルの言うエステールの想い人がシャル自身で、身分の違いなどからずっとその想いを伝えることが出来なかったとして……またシャルの考えもそんな彼女を見ていたが故の思い違いだったとしたら、全てが明らかになった時、とても素敵なことが起こるかもしれないわ。


「あれ、どうしたんですかメル。何だかとても嬉しそうな顔をされていますね」

「い……いえ、何でもないのよリゼ。それよりここの温泉街とやらも、雰囲気が良さそうなところね。帰るまでには一度寄ってみましょうか」

「あっ、良いですね。何か面白いものがあるかもしれませんし、楽しみです」


 私たちはお互いに取り留めも無い会話を交わしながら温泉街がある場所を越えた後、シャルのあとを追ってさらに小半時ほど坂道を登り続け、ようやく長い坂道から脇に伸びた平坦な林道の奥へと進んでいくと、やがてその先に白煉瓦で築かれた瀟洒な佇まいを見せる別荘と思しき建物が見えてきた。


「あそこがそうよ。隠し湯はあの屋敷の敷地内にあるわ」


 それから間もなく別荘の中に通された私たちは、その実に広々とした奥行きのある空間や豪奢な内装に加え、別荘というには持て余すほど数多くの部屋を備えているところから、まるで本物の温泉宿に訪れたかのような錯覚に陥った。


「ここもすごいよリゼお姉ちゃん、ずっと走っていられるほど広いもん!」

「あっ、また勝手に走って……んもうエフェスったら、駄目でしょう……!」

「ふふっ、元気なのが一番じゃないですか。ねぇ、メル」

「ええ、レイラ。暗く沈み込んだままよりずっと良いわ」

「何処でも好きな部屋を選んで頂戴。早い者勝ちよ? 部屋を決めて荷物置いたら、またこの居間に集まってね。湯があるところに案内するわ」


 私たちはそれぞれ分かれて自分たちの部屋を選んで手荷物を室内の適当なところに置いた後、シャルに言われた通り居間へと集合し、そのまま彼女に導かれるまま湯があるという場所に赴いた。


「はぁ……これはまた、すごいわね……」


 自然の岩場と其処から自噴したであろう美しい乳白色を湛えた秘湯をそのままのかたちで利用したらしいその広大な浴場からは、ヴェルメリアの滄海とまだ多くの蒼を残した翠巒すいらん、そして抜けるような群青を誇る碧落を借景とした実に見事な眺めを余すところなく一望することが出来た。


「ふふ……とっても素敵な眺めでしょう? ここなら誰にも憚ることなく、生まれたての姿で湯と自然そのものを心行くまで楽しむことが出来るわ」

「生まれたての……確かに、ここには皆しかいないのだから、わざわざ水着で隠す必要もないわよね」

「そうよ、メル。水着なら下の浜の方で遊ぶ時にでも身に着ければいいわ。さ、ここに来るまでに一汗かいたことだし、早速お湯を頂くことにしましょうか。ここで一度汗を流して、また夜頃にでももう一度入れば、違って見える景色も併せて二度楽しむことが出来るはずよ」


 程なく浴場の一つ手前にあった脱衣所にて一糸纏わぬ姿になった私たちは、湯浴み用の手拭いだけを持った上で改めて、湯煙だけが薫る大自然の中で、何者にも憚ることなくその身を晒した。


 そして近くにあった木桶を使って掛け湯だけを一通り行い、湯を含ませて軽く絞った手拭いを頭に乗せたあと、いよいよその乳白色に輝く湯の中に足を入れ、そのまま自分たちの身体を浸した。


「あぁ……これは……」

「……ね? 自然を感じながら頂くお湯は、実に気持ちがいいものでしょう?」


 その湯はさながら絹であるかの如く滑らかで、この全身を優しく揉み解すかのように温かく包み込みながら、それが毛穴の一つ一つを通して身体の奥深くにまで染み入ってくるような心地よさを覚えた。


 シャルが少し前に語っていた、一度入った者はその若さを長く保ち続けるという神効も、今ではあながち誇張ではないように感じられる。


「リゼお姉ちゃん、このお湯すっごくさらさらしてるね!」

「そうだね。エフェスのお肌もきっと今以上にすべすべになるよ! ふふ」

「これが温泉……何て気持ちがいいんでしょう……。本当に身体だけではなく、心からあったまるというか……」

「ええ、その感覚はとてもよく解るわ、レイラ」


 私たちが思い思いの感想を述べながら、色々な疲れが溜まっていた身体を癒すように湯煙の中でその心地よさに浸っていると、いつの間にか少し離れたところで言葉を交わすシャルとエステールの姿が見えた。


「こんな素敵なお湯をお嬢様と共に賜れる日が来るとは……」

「ふふ、相変わらず大袈裟ね……こんなのでよければ、またいつだって連れてきてあげるわよ……ステラ」

「お嬢様……その呼び名は、昔の……」

「小さい頃以来かしら? まぁたまにはいいじゃない……あなたも今日は仕事じゃないんだから、シャルって呼んでも良くってよ。それと……いつも本当にご苦労様、ステラ。その……これまで中々あなたのことを気に掛けることが出来ていなくて、ごめんなさいね」

「……っ! ありがとう、ございます……うっ……」


 ――これ以上は二人だけの言葉だわ。耳を傾けるのは無粋というもの。

 願わくば、ここからまた何か二人の間に良い変化が生まれると良いわね……。


「ねぇ、リゼお姉ちゃん」

「ん? どうしたのエフェ……わっ!」

「ううんとね、どうやったらこんなにおっきくなるのかなって思って」

「ちょ……こら! あっ……や、やめなさいってば、エフェス!」

「わわっ、お姉ちゃんが怒った!」


 すぐ近くではエフェスが、リゼの後ろ側から彼女の立派なものを無邪気にも力任せに鷲掴みにしてしまったようで、今私の目の前でこっぴどく叱られている。もはや今のエフェスの顔からは、昨日まで色濃く見えていた憂いや悲しみの色がほぼ無くなっていて、それと入れ替わるようにして普段通りの明るい表情を浮かべているように見受けられた。


「ふ……何というか、すっかり元気を取り戻しちゃったみたいね、エフェスは」

「本当、そうみたいですね。昨日、リゼと一緒に眠るまで沢山お話をしたと言っていましたが、エフェスにとっては、その時間が何よりのお薬になったんじゃないでしょうか。きっとリゼだけにしか使えない、心の治癒術があるんですよ」

「なるほど……ふふ。それは、効果覿面てきめんに違いないわ」


 そのお薬――リゼが振るう心の治癒術が持つ力は、この私が一番よく理解している。それは彼女自身が、本当の寂しさを知っている者であるが故に持っている、身分や血の繋がりを易々と越えて、ただ純粋に相手を想いやり、そして深く慈しむことが出来る想いのかたち。この私自身もそれに何度心を救われたか判らないほど。


 そう言った意味では、これまで長く与えられた道に沿ってでしか進むことが出来なかったエフェスにとって、初めてその外側へと踏み出すきっかけになったリゼとの出会いは、本当に幸運であったに違いないと改めて思った。


「心が元気を取り戻したら……どうかまた力を貸してね、エフェ……ん?」

「うぅん、やっぱりリゼお姉ちゃんに比べると、ずっと小さく感じちゃうかも。でも握ったら違うのかな……? えいっ」

「ああっ……!」


 その瞬間、私の両胸からこれまで感じたことのないような極めて奇妙な感覚が電撃のように全身を走り、私は間もなく後ろから誰かに強い力でそこを掴まれたことが判った。そして思わず背筋が反り返ってしまうような不可思議な感覚は、間髪を入れずして再びこの私を襲った。


「い……いやぁ!」

「うわっと!」

「こ……くぉらぁ! エフェス! よりによってメルに、何て……ことを! 今日という今日は絶対に許さないからね!」

「わっ、これはまずいかも……! レイラ、助けて!」

「えっ、ええっ! ち、ちょっとエフェス! そんなこと言ったって……わあっ!」

「待ちなさい! エフェス!」


 突然のことに吃驚して声を上げた私がすぐさま我に返って辺りを見回すと、其処にはレイラの周りで激しく水飛沫を撒き散らしながら、大捕り物よろしく追いかけっこを繰り広げているリゼとエフェスの姿があった。

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