幕間 幸せな時間
幕間 第14幕 七色に映る世界
「あれ、ちょっと明るくなってきた……? はぁ……結局あれから一睡も出来なかったんだ、私……でも――」
このフィルモワールに辿り着くまでにも、こうしてメルと一つの寝台で手を繋ぎながら一緒になって眠ることは時々あったことなのに、どうして今の私は昨日までと全く違うように感じてしまうのだろう。繋いでいない方の手を伸ばせば、すぐに届きそうなほど近くにある、メルのこの綺麗で穏やかな寝顔だって何度もこの目にしてきたというのに、今はその麗しい唇を見ただけで胸の鼓動がドクドク高鳴って、耳から炎が吹き出てしまいそうなほど、身体の奥底が熱くなってきてしまう。
「私、本当にこの唇と……自分の唇を重ねたの……?」
そう小さく口にしながら指で自身の唇をなぞり、自分の記憶の中に刻まれた永遠にも等しい瞬間を思い返す。それが本当に夢ではなく、現実に起きた出来事なのかどうかを強く訝りながら。しかしこの唇と全身に残されたあの蕩けるような感覚と、閉じた瞳の奥から漏れ伝わってきたメルの吐息や微かな声は、今でも鮮やかにこの眼裏に描くことが出来て、実際に流れた時間はほんのごく僅かでしかなかったであろうその短い時間を、ゆっくりと何度も味わい、そして貪るように、私はいつしかその記憶の引き出しを開けっぱなしにしてしまっていた。
「あぁ……しちゃったんだ……しちゃったんだわ、私。だめ……この気持ち、抑えきれなくて、頭がどうにかなりそう……! 一体どうしたら……!」
これはきっと、幸せな気持ち。もっと正確に言えば、幸せ過ぎて怖い気持ち。
私は、私の中にあった大きな夢が叶ったことでさらなる欲が出て、自分の心の奥底に居るもう一人の自分が姿を現し、これまで押し留めていた邪な欲望を一気に満たそうとして、私という存在を受け容れてくれたメルをいたずらに貪り、その想いを穢してしまうのではないかという恐怖を、何処かで感じているのかもしれない。
「そうだ……! こういう時には……外に出て走ろう……!」
今だけは私が独り占めにしているメルの寝顔に後髪を強く引かれながらも、私はメルと結んでいた右手をゆっくりと解いて、気を許せば自分の奥底から止めどなく湧き上がってきそうな邪なるものたちを全て振り払うように、今も空に夜の色を残した朝まだきの中をゆっくり走ろうと思った。
「……って、まだ下着姿のままじゃない。ここはメルを起こさないように、そっと着替えて静かに出なくっちゃ……」
時節はこれから本格的な夏を迎えようとしているものの、普段の鍛錬でならまだこの時間帯の外気は涼しいを通り越して少し寒くすら思えるはずだった。
しかし、私の身体はさっきからずっと火照ったように熱いままで、何とかそれを発散しようと走りながらも、あの唇の感触が頭の中に何度もちらついて、私は思わずのぼせ上がってしまいそうだった。
「ふぅ……こんなんじゃだめだ、私。もっと普通に……メルにこの、ありのままの私を受け容れてもらったことを喜ばなきゃ……だって私たちはきっとここから、また新しく始まるんだもの。そしてこれからだっていっぱい……ああいうことが、あるんだから、いつまでも茹でた
――それに、これから他のみんなにも、私たちのことを伝えなくちゃいけないんだよね。特にまだ会ってほんの少ししか経っていないのに、私のメルへの想いをすぐに見抜いたあのシャルにも……ちゃんと自分から本当の気持ちを言えたんだってところを見せなくちゃね。そう……私はもっと胸を張って、堂々とすればいいんだ。
あのメルに、受け容れられた者として。
「……あと私はもっと、楽しいことを考えるべきだよね。これから私が、メルと一緒にどんな時間を過ごしていくのかな……とか」
これからは何も憚ることなく、メルに私のこの想いを伝えることが出来る。私はメルのことが誰よりも一番大好きで、またメルもこの私のことを何よりも大切に想ってくれている。それはただの妄想や期待などではなく、あの時あの砂浜で唇を交わしたあの瞬間から、確かな事実として私たちの記憶の中に深く刻まれたのだから。
そう思っていたら、私は知らず知らずのうちに、その想いを交わした場所へと自分の身体を運んでいたようだった。
「これからは、私たちの想いもずっと一緒なのよね……メル。もし私が抱き締めて欲しいってメルに言ったら、きっと優しく強く……私のことをぎゅってしてくれて、そしてもし私がメルの唇を自分から欲しがっても……メルは嫌な顔一つせず、その都度私の想いに応えてくれる、そんな気がする」
そしてそう考えていたら、私は今この目に映る全てのものが空に架かる虹の如く、七色の輝きに満たされているように感じられた。この空も海も風も、朝の訪れを告げようとしている光とそれに彩られた雲も、そしてあの波打ち際のくすんだ砂の色でさえも、その全てが愛おしく煌いているように思えた。
これからの私が生きていくその世界は、きっと何もかもが素晴らしい、そんな世界に違いなかった。
「さて……メルのところに戻らなくちゃ。起きた時に私が其処に居なかったら、きっと寂しいものね!」
帰り道、こちらに現れては通り過ぎていく色々なお店に時折顔を傾けながら、メルと二人で其処に訪れて、楽しい一時を過ごしている様子を空想する。それはお互いに洋服を選んだり、装飾品を交換しあったり、あるいは甘いものを食べ比べたりといった、美しい宝石のような輝きを放つ素敵な時間たち。
しかしこれからの私は、自分の気持ち次第でそれをただの甘美な夢として終わらせず、全て現実のものとして描き出し、自らのもとに招き寄せることが出来る。
――あっ、今の看板に描かれてあったお菓子、とってもおいしそうだったなぁ。今日の午後にでも時間が出来たら、メルを誘って一緒に行って見ようかな……ふふっ。
陽が昇るよりも先にこの顔が太陽のように明るくなってしまいそうだった私は、はやる気持ちをやんわりと制しながら、きっとまだ夢の
私が外に出ていたのはものの一時間ほどで、朝というにはまだ遠く感じる。ここはメルが目を覚ます前にもう一度布団に入り直して、外がすっかり明るくなるまでその傍らで幸せな時間を噛み締めながらゆっくり
「まだ起きて……ないよね? よし……」
お互いに下着と、その上から羽織った半透明の薄衣以外には何も纏っていない姿であるせいか、触れ合うものは肌と肌とが接する時のそれと限りなく近い感触ばかりで、あの口づけを交わしてからはずっと、時折メルの身体が独りでに動いてそのごく薄い衣と下着などが擦れ合う刺激だけでも、今の私には劇薬であるかのようにこの胸の奥底が敏感に反応してしまう。
一度変温器がある快適な生活を味わった以上、それが無いことで感じてしまう季節特有の寝苦しさを、これまでは下着のみというあられもない姿で過ごすことで出来るだけ和らげようと努めていたものの、そうしていることが今、かえってある種の快い感覚を齎してくれているのは本当に望外だった。
「……リゼ」
「……えっ、メル……?」
「少し前に……怖い夢を見て、はっと目が覚めた時、ここにあなたの姿がなかったのだけれど……一体何処へ行っていたの?」
「やはり起こしてしまいましたか……ごめんなさいメル。その……ちょっとあの瞬間のことが思い出されて、どうにも胸が高鳴ってしまって……恥ずかしながらその気持ちを落ち着かせるために、少し外を走ってきました」
「駄目よ……リゼ。ちゃんと私の傍に居て……くれないと。私、リゼが居なくなってしまう夢を見た後で、あなたの姿が本当に見えなくなっていて……本当に、とっても怖かったのだから……!」
何処か艶っぽい声色でそう言いながら私の胸元に顔を寄せ、上目遣いでその想いを訴えかけてくるメルの姿が、私には背筋が震えるほどに
「あっ……ごめんなさいメル! 私、つい強く……!」
「やめないで、リゼ。いいの、私なら大丈夫だから。それよりどうか、もう少しだけこうしていて……? すごく落ち着く、から」
「あ……! は、はい……」
「ふふ。お母様以外の人にこんなにも力強く抱き締められたのなんて、初めてかも……けど、何だかとっても安心……出来るわね。きっとリゼだから、かしら」
「メル……苦しくは、ありませんか?」
「ええ、ちっとも。むしろあなたに包まれている感じがして、心地良いくらい。こうしていると、あなたの優しさがこの心臓の音を通して伝わってくるようで……」
つい先ほどまでならきっと、動悸の如く激しく波打っていたであろうそれは、さながら凪いだ湖面に舞い落ちた羽根が生みだす
「ねぇ、リゼ。朝が来るまで……こうしていてくれる?」
「はい……メル……」
「ふふっ。良かった……」
そうして瞳を閉じた私は、この柔らかな感覚に身と心とを任せた。
たとえこのままずっと朝が来なくても構わないと、強く思いながら。
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