第90話 夜天の月が満ちる時


 役所にて皆がそれぞれに希望する姓名を記した書類を提出し、後日交付された身分証を受け取った私たちは、生活拠点もそれまで滞在していた宿泊施設から、シャルの屋敷へと移し変える準備を始め、そこでようやく自分たちのこれからに対して具体的な展望を心の中に描くことが出来るようになった。


 私はかたじけなくもシャルからの惜しみない支援を得て、自分のお店を開くための場所を何とか押さえることが出来た。其処は前に異なる店舗同士が雑居していたという三階建ての建造物であったものの、いずれの店舗も皆移転してしまったらしく、現在は全て空室になっていた。


 そこを内装も含めて大幅に改築し、資材の搬入も進めながら、私はお母様から受け継いだ錬金術を駆使することで創出する、私にだけしか作れないものを受注ならびにそのまま販売も行う店舗を一階部分に開店することにした。


 最初、私一人が使うには持て余すほどの建物をシャルがどうして勧めてきたのかはかなり不思議だったものの、どうやら彼女にはリゼとレイラにも其処に店を開いてもらおうという考えがあったようで、レイラのために彼女が既に持っている非常に高度な裁縫の技術を余すところなく活かせる仕立て屋を二階部分に設け、また三階部分は以前リゼが作ってみたいと言っていたピッツァを振る舞える飲食店を将来的に開くことが出来るようにと場所を押さえたらしく、それまでは私とレイラが店で使う資材の置き場にでもすれば良いと語っていた。


 あとから話を聞かされたレイラは少し戸惑いながらも、その裁縫の技術に期待を寄せられたのがとても嬉しかったらしく、最終的には仕立て屋を開店する決意を固めたようで、一方のリゼもピッツァ作りには本当に強い興味があったこともあり、シャルの人脈を通じた紹介もあって、国内でそのための修行を行うことになった。


 当初、店を開くのは私だけだと考えていただけに、とんとん拍子に進んでいく話にまだ少し頭の整理が追い付いていかないものの、これから始まる新たな生活に、一抹の不安と非常に大きな期待とを同時に感じていた。


 なおエフェスは、あれからリゼとの話し合いを何度か経た上で国内の学校に通う決心をし、国が行っている適性検査を受けたところ、知識にはかなりの偏りがあるものの規格外の魔術資質を有している事実が判明したとのことで、かつてシャルも通ったサント・ペトリエール魔術女学院への入学が特例的に認められ、次の週からさっそく登校する予定になっていた。

 

 それによってエフェスは初めて、社会生活の第一歩を踏み出すことになり、誰かに言われた通りに歩むしかなかったこれまでの人生にようやくの終止符を打つことになった。


 そして私は、朝をまだずっと遠くに控え、瑞々しい光を湛えた満月のみが支配する夜の浜辺にたった一人で佇み、彼方より流れてくる柔らかな潮風に身を任せ、寄せては返す優しげな波音に耳を傾けながら、今ここに至るまでの道のりを本の頁をめくるようにゆっくりとその眼裏まなうらで想い返していた。


「ふぅ……本当に色々あったけれど、それを全て乗り越えてきた私たちは、もうすぐそれぞれのこれからを歩んでいくのね」

「……何お独りでしみじみと感慨に耽っているんですか? メル」

「えっ……リゼ! あなた、どうしてここが……?」

「夜中に急に目が覚めて起きてみたら、ずっと隣で寝ていたはずの人が何処にも居なくなっていまして。でもここに来たらその人と出会えるような気がしたので、一か八か向かったのですが……やはりその勘に間違いはなかったようですね」

「そう、だったの……? あなたたちを起こさないように出来るだけ静かに部屋を抜け出してきたつもりだったけど、リゼにだけは何かが伝わったのかしらね」

「ふふ、そうかもしれません。隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろんよ」


 そうして私の右隣りにまで歩み寄ってきたリゼは、間もなく砂の上にその腰を下ろし、私と同じように膝を少し曲げた恰好で座った。


「メルはここで、何を考えていたんです?」

「そうね……これからのことを考えるつもりだったのだけれど、知らず知らずのうちに、またここまでの道のりのことを想い返している自分が居たわ。あなたと一緒にロイゲンベルクを離れたことが、つい昨日のことのように思い出されてね」

「……そうですか。けど本当にここまで色々ありましたよ。ごく最近でも、自分を賭けの対象にしてしまうようなとんでもない人が居ましたし……」

「ん……そのことだけは何度頭を下げても許してもらえそうにはないわね……」

「ええ。私、それだけはきっとずっと許しはしませんね。二度とそういうことが起きないようにするためには……メルのことをいっそ、私のものにしちゃうくらいしか他に方法は無いかなって、思ったくらいで……」

「えっ……?」


 するとリゼは自分の両膝を抱えた状態で俯き、しばらく沈黙した後、やがてその恰好のまま、微かに聞き取れるほどの小さな声で呟き始めた。


「メルは放っておいたら、いつも独りですぐに何処かへ行っちゃうんですから。私の気持ちも知らずに……メルが一人で遠くへ行くと、いつもこの胸が苦しくなって、その姿が何処にも見えなくなると息が出来なくなっちゃうことなんて、メルは全然何も知らないんです。こんなにずっと長く、一緒に居るのに……」

「リゼ……あなた……」

「……小さい時は何も考えず、とても仲の良い友達みたいな関係がずっと続くと思っていました……でも、身体と心が大人に近づけば近づくほど、あなたへの想いはどんどん強くなっていって……そしていつしか仕える立場でしかない私が、己の身も弁えず、抱いてはいけない感情を抱くようになってしまいました」

「抱いてはいけない感情、って……」

「メル……あなたが……あなたのことが好きだという気持ち、です。ただの好き、ではなく、心から……の。だって、生まれながらにして高貴な存在であるはずのあなたは、こんな孤児院育ちの私に身分の差など何も感じさせず、いつも同じ目線で同じように悩んで、血の繋がり合った実の姉妹であるように温かく接してくれた。あの時から今に至るまでずっと、変わらずに……」


 全身に突如として火が熾ったかのような熱が立ち昇り、自分の心臓が異様な高鳴りを告げ、その大きさがさらに増していくのがはっきりと分かる。その鼓動の音がもはや傍らに座っているリゼの耳にまで届いているのではないか、と感じるほどに。


「私は信じ続けました。この想いはきっといつか、身分や血の繋がりさえも飛び越えられる翼にすら成り得るって……けど、唯一何処までいっても越えられない壁が私の前にありました。それは、この私が女性であったことです。そう、私は……同じ女性であるあなたのことを心の底から好きになってしまった。その気持ちに自分が初めて気が付いた時、自分ではどうすることも出来ない炎のように激しい想いだけがこの全身を支配して、時には……」

「…………」

「時には……メルの肌身に常に接している下着に……この手を伸ばし、自分の部屋に密かに持ち込んではそれを身に着けて、あなたという存在をこの肌に感じようとしたことすら……あります……気持ち、悪いですよね……軽蔑、しますよね……メルに隠れてそんなことを、して……あなたに嫌われるようなことだけは、絶対に避けたかったのに……この身体が、どうしても私の言うことを聞いて、くれなくて……私は……うっ……!」


 リゼの身体は震えていた。それはこれまでにないほどとても弱々しく、まるでその存在がこのまま泡沫のように宙へと吸い込まれて、そのまま何処かへ消えてしまうのではないかと思えるほどに。


 だから私はその想いが、彼女の存在が、私の手が届かない何処に行ってしまわないように、私よりもずっと小さくなってしまったリゼの身体にそっとこの両腕を回して、ぎゅっと強く抱き寄せた。


「……っ、メル……!」

「気持ち悪くなんてない……軽蔑したりなんて絶対にしない……私は、私は……嘘偽りのない、そんなありのままの姿を見せてくれるあなたのことが……誰よりも一番、大好きよ。これまでも、今も、そしてこれからもずっと、ね……」

「あ……あぁ……!」

「本当はね……? ずっと前からそんな気がしていたの……でも、私は貴族の令嬢だなんて名ばかりで、実際は酷くちっぽけな存在で……そんなあなたの想いをしっかりと受け留めきれる自信が、ずっと持てなかった……けど、この地にまでやってくることが出来た今の私になら……そんなあなたの気持ちに応えることが、出来るはず……だから、受け取って欲しいの……今の私の……この、想いを」

「…………! …………」


 重ねた唇から伝わる、何処までも暖かくて柔らかな感触は、やがてこの全身を優しくとろかすかのように緩やかな拡がりを見せ、刻まれる一秒の連続が永遠に感じるほど長く思える時の中で、自らが秘めていた想いとリゼから流れ込んでくる炎のような熱とが互いに溶け合って一つになっていくのを確かに感じた。


 全てを包み込むように広がる、瑞々しい月の光に照らされながら。


 私たちの間に紡がれた確かな絆は、これから何が起ころうともきっと変わりはしない。何故ならその繋がりは友人よりも強く、姉妹よりも近く、そして恋人よりも深い、私たち二人だけのものなのだから。


 そして私はこうも思った、今私が眼前のリゼと共に感じ合っているであろうこの想い……きっとこれこそが、いかなる富や権力を以てしてもそれらだけでは決して得ることが叶わない、真に人を愛するという気持ち、そのものなのだと。

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