第89話 寄り添う蝶々


「どう? レイラ。 何かこれっていう名字は浮かんだかしら?」

「いえ……まだ何も。他の皆はもう決まっているのにすみません、メル」

「あぁそんな気にしないで頂戴。これからこの国でずっと名乗り続けるであろうとっても大事なものだから、簡単に決められなくて当然のものよ」


 シャルの屋敷で開かれた食事会を終え、一旦宿に戻った私は一番風呂を頂いた後、次いで入浴し終わったレイラと窓辺に並んで涼んでいた。変温器のような高級設備がここに無い以上、湯上りはこうするのが一番だと感じる。なおリゼとエフェスは先ほど二人で一緒に浴室へと入って行ったばかりで、リゼはシャルから聞いた話のことでこれからエフェス自身の意思を確かめようとしていた様子だった。


 何でもシャルによれば、このフィルモワールでは教育の無償化が徹底されていて、エフェスもリゼが保護者となってその身分が保証されれば、魔術学院などの教育機関に就学が出来る権利を有する状態になるらしく、おそらくリゼたちは今そのことについて共に話し合いをしているはずだった。


 そして一方ではレイラが、新たに姓を名乗るにあたって、良い候補が中々出てこずに悩んでいるとのことで、私がその相談に乗っていた。彼女の場合は特に、元々名字のようなものを持っていなかったことが大きく影響している。


「そうねぇ……レイラはお母様の旧姓というか名字はやっぱり知らないのよね?」

「はい……おそらくあることはあるはずなんですが、記憶の何処にも無くって。確実に知っているのは私のお父さんだけなのですが、私がうんと小さい頃にその姿を見たっきりで、今何処で何をしているのかは見当すらも付きません」


 以前にもグラウ運河を渡る際に彼女から話には聞いたことがある。彼女の父親は妖魔であり、人間に扮するのが得意で、よくマタール王国の商人を騙っては詐欺紛いの商法で大金をせしめていたとか、その金を用いて普通の人間も利用しながらさらに巧妙で大規模な騙事かたりごとをはたらいていただとか、彼女自身も人伝いに聞いた話でしかないと言っていたものの、とにかくろくな噂を聞かなかったという。


「レイラ、あなたの父親のことに関しては、あなたのせいではないわ。決してね。それから彼の現状や所在が掴めないというのもかえって良いことなのかも知れない。私が言うのも差し出がましいことだけれど、おそらく彼が今のレイラの境遇を知ったら、あなたに自ら近づいて巧く利用しようとするかもしれないもの」

「……確かに、それも否定はできませんね。しかしこの私にとっては血の繋がった、今では唯一の肉親であることに違いはありません。いくら善人ではないと言っても、せめて生死くらいは知りたいと思っていたところですが……でも、そもそもこんな話は名字のことには全然関係がありませんよね。ごめんなさい、メル」

「いえ、それは全く構わないわ。そういえば何か父親の手掛かりというか、はたから見て彼だとすぐに判る特徴みたいなものは無かったのかしら?」

「ええっと……そうですね……」


 レイラはそう言うと、満月にはほんの少し足りない待宵まつよいの月に対して星々が何処か控えめに瞬いている夜空を仰ぎながら、かつて父親と共に在った遠い日を想っているような素振りを一頻り見せた後、やがてその結んでいた唇をゆっくりと開いた。


「その……おぼろげではあるんですけど、確か左か右の腕に入れ墨のようなものがあったんです。それは人間に姿を変えた後でもちゃんと残っていて……」

「入れ墨? それってどんな感じの?」

「えっと……そう、ちょうど蝶々のような感じの入れ墨だったかと思います」

「蝶々の……? となると腕に、蝶々の入れ墨があるわけね……ん、けどそれって前に何処かで見たような気が……」


 言いながら自分の記憶を辿っていく中で、私はレイラの挙げた特徴に一致する存在が確かに居たことを思い出した。それはまだロイゲンベルクを離れて間もない頃に訪れたドルンセンの町で、幾人かの町人と共謀して町の水源に毒を放ち、それに対する特効薬と称した解毒剤を法外な高値で売り捌く商人の姿を騙っていた存在。


 この私がリベラディウスを以て斬り伏せた……あの妖魔。


「まさか……! でもそんな、ことって……!」

「ん? どうしたんですかメル? 急にそんな驚いた顔をして……ひょっとして私と出会う前に何処かでお父さんらしき人を……?」

「……レイラ、これから私が言うことを、どうか落ち着いて聞いて頂戴ね……」

「え? あっ、はい……」

「……以前、私とリゼが訪れたドルンセンという町で人の姿を騙りながら陰で毒を流し、その解毒剤を法外な値段で町人に売りつけようとしていた妖魔が居たという話は、グラウ運河を往く船の上で少しだけしたことがあったわよね?」

「そういえば確かにそんな話をされていたような……でも、それが何か?」

「その妖魔が人間の姿を騙っていた時、右腕に蝶の……入れ墨があったの」

「蝶の……って……嘘……それってもしか、して……」


 その瞬間、月光と星明りとに洗われたレイラの顔が、矢庭に暗く沈んでいくのが見て取れた。断言こそは出来ないものの、腕に蝶の入れ墨という極めて限定的な特徴の一致や大掛かりな巧詐を実際にはたらいていたという事実は、かつて私が退けた妖魔が彼女の父親であろうことを非常に強く示唆していた。


「その……本当にごめんなさい、レイラ。私、あの妖魔があなたの父親だったなんて、夢にも思わなくって……。あの時あの町の危機を救い、そしてまた自分たちの命を守るためには……ああするより他に、無かったの……」

「……良いん、です。メル。むしろ私は、感謝をしないといけない、ぐらいで。その妖魔が間違いなく私の父親だったとして……メルたちはその悪事がさらなる大事になる前にそれを未然に防いでくれたのですから」

「レイラ……」

「悲しい気持ちが一つも無い、っていえば嘘になりますけど……でも、メルがそれをこれから気に病むようなことだけは、どうかしないでください。メルは確か、その妖魔が町に放った毒によって命を落とした方が居たとも言っていましたよね……だったらなおさら、さらに多くの命を奪うことにならなくて、本当に、良かったです」


 私にはそう答えたレイラが、努めて気丈に振る舞っているように思えてならなかった。彼女の父親が現実に人の命すらをも奪った悪党であったとしても、既に母親を失っている以上、レイラにとって彼の存在は唯一血の繋がりを示す最後のよすがだった。そして避けようのない不可抗力であったとはいえ、この私がその繋がりを永遠に断ってしまった事実に変わりは無い。


 きっとレイラが胸中で描いているであろう心模様は、察するに余りがあり過ぎて私には彼女にかけるべき次の言葉がすぐには見出せなかった。なぜなら彼女は今、自分の父親の命を奪い、また自身の命を救った人間と行動を共にしているのだから。


 誰かの命を絶つということは、たとえそれが妖魔相手であったとしても、やはり途轍もなく重い行為なのだと私は改めてそう感じた。


「レイラ……私は……」

「いえ……どうか、本当に気にしないでください、メル。メルたちはただ、正しいことをしただけなんですから。でも、たった一つだけ……私からのお願いごとを聞いてもらってもいいですか?」

「お願いごと……何、かしら?」

「いつかその、ドルンセンという町にこの私を連れて行ってください。私のお父さんが命を奪ってしまった方のお墓参りと……それからお父さんが最期を迎えた場所に、この足で行ってみたいのです」

「……分かった。必ずいつか、あなたを其処へ連れて行くと約束するわ」

「ありがとうございます、メル」


 私が二つ返事でレイラからの申し出に了承すると、彼女の表情は幾分か晴れやかになり、それからややあって彼女はさらに何かを思いついたような様子を見せ、再びその言葉を紡いだ。


「あと、ちょうど思いつきました……私の名字。私はこれから、ファラーシャという姓を名乗ろうと思います」

「ファラーシャ……何だかとても良い響きね。何か特別な意味があるのかしら?」

「私の国でかつて使われていた旧い言葉で、蝶々……を意味するものなんです」

「そう……ならきっと、その蝶々はこれからあなたの傍に寄り添って、ずっと見守っていてくれるはずだわ」

「はい……。そうであってくれるといいなって……強く、願っています」


 ――ドルンセンは偶然に知り合ったあの幼い双子も居る町で、リゼもまたいずれは再訪したいと願っていた場所。そして町の近くに広がる雑木林を切り拓いて作られた野営地は、彼女の父がその最期を迎えた終焉の地。

 いつか皆で再び町を訪れた際には……二匹の蝶も再会を果たせるといいわね。

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