第88話 玉座の間


「あなたがメルセデスなのですね。さぁ、こちらに顔をよく見せてくれますか?」

「は……」


 王城での表彰式を終えた後、私は女王陛下からの招聘を受け、玉座の間にて拝謁を賜ることになった。しかしまだ正式に亡命の認定すら受けていないこの私が陛下の御前に招かれ、拝顔の栄に浴することは、きっとこの国においても異例中の異例であることに違いはないはずだった。


「シャルレーヌからあなたとその従者たちのお話は伺っています。本日はこちらの急な招請にもかかわらず、よく来てくれましたね」

「滅相もございません……女王陛下におかれましては、私のような浪客めにその麗しきご尊顔を拝する機会を与えてくださり、恐悦至極に存じます」


 玉座におわし、霧氷の如き清雅な霓裳げいしょうをお召しになっている女王陛下の窈窕ようちょうたるお姿は、こちらが想像していた以上にうら若いご様子であらせられ、透き通るように艶やかな煌きに富んだ金色の長髪はそれだけで絵になるほどお美しく、さらにその藍玉アクアマリンを想わせるかのような淡い海色を湛えた明眸は、遠くからでも明瞭にその麗しさが伝わってくるようだった。


「どうかそんなにかしこまらないで、メルセデス。私は確かにこの国を治めている者ですが、あなたと同じ人間であることに変わりはありません。今日あなたをここへ招いたのは、私からあなたに一言、お礼が言いたかったからです」

「陛下が自らこの私めにお礼などと……身に余るほどの光栄にございます」

「先日、あなたは人の心を揺さぶるほどの、実に見事な試合を私たちに見せてくれましたね。この私も感銘を受けたものの一人として、全国民を代表してあなたに感謝の意を表します。ありがとうメルセデス、本当に素晴らしい試合でした」

「は……! この私めには実に勿体なきお言葉、おそれ多くもありがたく頂戴し、畢生ひっせいの徳といたします」


 事実今の私は、身分や職業はおろか、住居すらも定まってはいない一浪客に過ぎない人間。そんな流民も同然の私が、一国を統べるほどのお方から直接感謝の言葉を賜るだなんて望外にもほどがある。そしてそれは同時に、この私が己の命を懸けてまでこの地を目指した甲斐が確かにあったのだと心から誇れる瞬間でもあった。


「時にメルセデス、私はあなたが我が国民になることを兼ねてより熱望していると聞きました。あなたほどの人であれば、きっとこの国の未来にも大きな貢献を果たしてくれることでしょう。そこでこの私、ベルトラード・ジェルメーヌ・ド・ラ・トゥール・フィルモワールの名において、今この瞬間よりあなたとその従者たちをこのフィルモワールの真正なる国民として迎えることをここに宣言します」

「な……この上ない幸甚に存じます……! 此度は畏くも過分なご高配を賜り、本当に感謝の言葉もございません」

「ふふ、あなたは本当に礼儀にあつい人のようね、メルセデス。けれど、私はもっとあなたらしい、普段通りの言葉で私に話しかけてもらいたいのです」

「畏れながら、陛下を前にして左様な真似は――」

「ならば、正式に国民となったあなたに女王として命じましょう。メルセデス……いつもの言葉で、私とお話をしてもらえますか?」

「承知いたしま……いえ、分かりました」


 すると陛下は玉座からお立ちになり、婉然たる挙措を伴って、その端麗なご面貌がありありと見えるほど近くにまで歩み寄られた後、私の顔にその豊麗な眼差しを向けながら、白魚と見紛うほどの繊艶な手指をこちらに差し伸べるや否や、

「あなたからはとても大きな可能性を感じます。いずれはあなたの力が必要となる時が来るかもしれません。その時あなたは、この国のために力を貸してくれますか?」

 と、玲瓏な声音を以てそうお訊ねになった。

 

 私にとってみれば、陛下から直に助力を仰がれるなど光栄の極み。そんな時が本当に来るのかどうかは判らないものの、日々の鍛錬だけは怠らないようにしておかなくてはならないと思いつつ、その差し伸べられた手にこの両手を捧げながら答えた。


「は……もちろんです、陛下。もしこの私めの力が必要とあらば陛下の手足となり、必ずやそのご期待に添えるよう尽力いたします」

「ふふ……ありがとう、メルセデス。それから正国民となるにあたって、あなたたちは新たに姓を名乗ることが出来ます。後ほど侍従を通じて専用の申請書類を渡しておきますから、それぞれ希望の姓名を添えて役場に提出してくださいね」

「分かりました……本当にあらん限りのご厚情に、深く御礼を申し上げます」

「礼には及びませんよ。では、本日のところはこれで。近い内にまたお話をしましょう。それと、出来れば次回はもうちょっと柔らかい言葉でお願いしますね」

「は、はい。善処を尽くします……それでは、これにて失礼いたします」


 ――久方振りに全身が硬直してしまうほど酷く緊張したわ……。幼い頃には王城で催されていた式典などで何度かお母様たちと国王陛下の御前に集ったことはあったけれど、こうして一個人として、しかもあれほど近い距離での拝謁を賜るだなんて夢にも思わなかったから、普段の言葉で話すようにと言われた際にはどう対応していいものか本当に困ってしまった……次にお会いする時が、今からとても心配だわ。



 ***



「……ふふっ、そうでしたか。でも私、その緊張してがっちがちになったメルの姿を近くで見てみたかったですよ」

「んもう、笑い事じゃないわよリゼ。粗相があってはならないと思って、こちらは王城に入る前からずっと神経を尖らせていたのだから」

「そうですよ、リゼ。まぁ私もちょっと見てみたかった、ですけど……ふふ」

「レイラまでそんなことを言って……全くもう、あなたたちは……」

「けど私の言った通りだったでしょう、メル。陛下はいかなる相手に対しても可能な限り近い目線で、とても友好的に接してくださるお方だって」

「ええ、確かにシャルの言っていた通りの、実に素晴らしいお方だったわ。何故この国が個々の意思を何よりも貴んでいるのかも解った気がしたもの」

「ところでメル、正国民として迎えられるにあたって、姓を名乗ることが許されたみたいですが、一体どんな姓にするんです?」

「そうね……私は……」


 私はラウシェンバッハの家名を棄てて以来、ただのメルセデスとして生きてきた身。その間、家名なんてあっても無くても変わらない飾りでしかなかったものの、もしそんな私が敢えて名乗るとしたら、候補として挙げられるものが一つだけある。

 それは――


「リーフェンシュタールの名を頂こうかと思っているわ」

「へぇ、リーフェンシュタール……ですか。あれ、でもその名は以前何処かで聞いたことがあるような……ん、もしかしてそれって……」

「ええ、お母様の旧姓よ。ラウシェンバッハの家に入る前の、ね」

「あ……やっぱり母君様の! どうりで私にも聞き覚えがあったわけですよ」

「だから私はこれから、メルセデス・リーフェンシュタールの名を名乗るわ。良い名前でしょう? それで、リゼはどうするの? やっぱりベーゲンハルトの姓をそのまま名乗る感じかしら?」

「うぅんと……そうですね……」


 するとリゼは顎先に右手を宛がい、そのまましばらく考え込むような素振りを見せた後、ふと何かを思いついたような面持ちで、

「えっと、私がベーゲンハルトの姓を名乗るとして……あの、エフェスもそこに組み入れるっていうか、同じ姓を名乗ることって出来るのでしょうか?」

 と、私に訊ねてきた。そして私がリゼの疑問に答えるべく関連書類に再度目を通そうとした時、傍らに居たシャルが私の代わりに彼女に答えた。


「ああ、えっとね……この国ではいわゆる養子縁組といった関係がまだ正式に成立していない段階でも、スーという准位称号を姓名の前に冠すれば特に問題はないわ。そうすればあなたの事実上の家族として、同等の権利を得ることが出来るはずよ。もちろん役所で細かい手続きが別途必要になるけどね」

「おぉ……そうなんですね! だったら……エフェス?」

「ん? なぁに、リゼお姉ちゃん」

「エフェスは……私と同じ名字……つまり、私と家族になっても構わない?」

「んんっと、かぞくっていうのはあまり良くわからないけど、これまでと同じでお姉ちゃんと一緒に居られるのならそれで良いよ!」

「そっか……! ふふ、ならそうするね」


 ――続柄的にどういう扱いになるのかまでは判らないけれど、リゼのあのとても嬉しそうな顔を見ていたら些事はどうでもよく思えてくるわね。たとえ事実上でも、あるいは血が繋がっていないとしても、彼女たちがお互いを姉妹として想い合っていればそれはもうきっと、本当の家族に違いないのだわ。

 あとはレイラが自分の名字をどうするのかも、気になるところね。

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