第92話 見えない足跡


「でもエセルが姿を消したって……彼女はあなたたちの厳重な管理のもとで収監されていたはずでしょう……?」

「それが……彼女の酷く損傷していた左腕から何かの悪気が入り込んだようで、ある日突然高熱を出して昏睡状態に陥った後、一時的に医療施設に移送され、其処で応急処置を受けていたのですが……定期的に容態を確認していた際には依然として意識不明だったにも関わらず、いつの間にか忽然とその姿を消していて……」

「なるほど……それで、彼女の足取りは掴めているの?」

「可能な限り多くの人員を割いて捜索を行っているものの、未だ……もう既に国内には居ないものと思われますが、どうか注意だけは怠らないでください。このお店とあなたたちが住んでいる屋敷の周辺は、特に警備と監視体制とを厳重にしておきます」

「話は分かったわ。本当はもっとあなたとゆっくり話したかったけれど……どうやらそれもまた先延ばしになりそうね。早速、リゼたちにも話を伝えて来るわ」

「ええ……こちらの不手際が招いたことで本当に申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。それと、もし何かあったら……こちらの紙に書かれた場所を訪ねてきてください。それでは、今日のところはこれで」


 すると今度は店をあとにしたアンリと入れ替わるように、外階段から降りてきたリゼが裏口から姿を現し、その彼女の手元にはやや大きめのお盆の上に乗せられた少し焦げた様子の焼き菓子らしきものが幾つも見えた。

「ごめんなさいメル……ちょっとだけやっちゃいました。あの加熱器具、取り出すのが遅れるとすぐこうなって。でもきっと全然食べられますから、はい!」

「それは全然構わないのだけれど……ちょっと、レイラもここに呼んできてもらえるかしら。今すぐあなたたちの耳に入れておきたいことがあるのよ」


 間も無く私から、エセルが移送先の医療施設から失踪したという話を聞かされたリゼとレイラは、まさに寝耳に水といった感じでその顔色がみるみる暗く沈んでいき、特にリゼはまだ学院から帰ってきていないエフェスの身を相当に案じているようで、明らかに気が気ではなくなっている様子だった。


「……私、すぐにエフェスを迎えに行ってきます!」

「待って、リゼ! 動くなら皆で一緒に……! ……行って、しまったわね」

「メル、私たちもすぐに追いかけましょう!」

「ええ……けど少し待っていて頂戴。今視察に出ているシャルに、伝書鳩で送る手紙をここですぐに書いてしまうから。レイラ、今のうちに戸に掛けてある営業看板を裏返しにした後、休憩所に置いてあるリベラディウスを持ってきてもらえるかしら。あと、戸締りの確認もしっかりしておきましょう」

「わ、分かりました!」


 シャルが今すぐに合流出来るような状態でないことは、私たちにとってかなり不運であったものの、この現状を知ればきっとすぐにこちらに駆けつけてくれるはず。エフェスも居る場所が場所であるだけに、すぐに襲撃されるということはないように思えるものの、相手があのエセルである以上、一切の油断は禁物だといえる。


 そしてその時、レイラが表の営業看板を裏返しにして閉店した旨を知らせた後であったにも関わらず、誰かの来店を告げる鈴の音が耳に入り込んできた。


「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが本日は急用につき、お店はもう――」

「甘いもの一つ、くださいな」

「…………! そん、な……!」


 目の前には本来其処に居るはずの無い、最も招かれざる客人が泰然とした様子で佇んでいて、憂いの無い微笑みを浮かべながら私の瞳を覗き込んでいた。

 あの象徴的な帽子こそ無いものの、端々が煤けて切れた墨色の外套は私が最後に会った時の姿、そのままであるように感じられる。ただ以前とは違って、あの時に重傷を負ったはずの左腕には黒い長手袋が装着されていた。


「あ、なにこれ……お菓子? ちょっと焦げてるみたいだけど、一つもらっていいかな? ……ん、見た目より結構いける感じだね、これ。しかも中に紙が入ってる……んと、今日のお外は危険がいっぱい……お家でゆっくり過ごしましょう?」

「エ……セル……どうして、ここが……」

「あぁ。いやさ、前にメルたちと会った時はこの国に向かってるって話だったから、メルが居るところにエフェスも居ると思ったんだけど、どうやらこの辺りには居ないみたいだね。そういえばリゼも何か慌てて出て行ったみたいだけど」

「何の用……かしら。まさかこんな街なかで白昼堂々私たちと戦うつもり?」

「まさか。ボク今日はこれから行くところがあるから、ついでに寄ってみただけだよ。あ、そうだ……メルも興味ない? ボクたちが生まれた場所に、さ」

「あなたたちが生まれた場所……ですって?」

「もし興味があるなら、ここを目指すといいよ。ボクも今日の夜、其処に行くからさ。あぁそれ、エフェスじゃないとまず読めないから注意してね。……それじゃボク、もう行くから。あと、このお菓子もう一つだけもらっていくね」

「ち、ちょっとお待ちなさい! くっ……急に現れたかと思えば、言いたいことだけ言って去っていくだなんて、一体どういうつもりなの?」


 エセルから渡された小さな紙のようなものには、これまでに全く見たことがないような奇妙な文様が幾つも記されていて、それが何かの場所を示しているようには全く見えなかったものの、彼女曰くエフェスであればそれを読めるということだった。それにエセルが残していった、彼女たちの生まれた場所という言葉も非常に気にはなる反面、それがエフェスを誘き寄せるための罠である可能性も大いにある。


「お待たせしましたメル。上の戸締りと剣を探すのに少しだけ手間取ってしまって……あれ、もしかしてこちらにどなたかいらっしゃったのですか?」

「……今ここに……エセルが、来ていたの」

「えっ⁉ エセルがって……どういう、ことですか……?」

「何でも、彼女たちが生まれたという場所に今夜向かうらしいわ。そして何故か私に、その場所を示したっていうこの妙な紙を置いていったの」

「……でもこれ、私には何が書いてあるのか全く解りませんが……」

「私にも皆目解らなかったけれど、エフェスにならこれが読めるらしいわ。……とりあえず今は、リゼのあとを二人で追いかけましょうか」



 ***



 やがてリゼの後を追って、エフェスが通っているサント・ペトリエール魔術女学院に辿り着いた私たちは、校門の守衛に事情を伝えて中へと入り、しばらくして敷地中央の広場にある噴水の近くでリゼに抱き付きながら震えているエフェスの姿を発見し、すぐさま二人のもとに駆け付けた。


「ふぅ……探したわ。ここにいたのね、あなたたち」

「メル。エフェスは無事でしたが……この通り、すっかり怯えてしまっていて」

「無理も、ないわよね……リゼ。ちょっと二人だけで、いいかしら。レイラ、彼女の代わりに少しの間だけエフェスを傍でみていてあげて頂戴」

「あっ、はい! 分かりました」


 今の怯えきったエフェスの姿を見る限り、彼女の目の前でエセルの来訪があったことをはっきりと伝えるのはさすがに憚られた。そこでリゼにだけはそのことを伝え、エフェスにはこの紙に書かれた場所がどの辺りであるのか、それとなく紙を見せて教えてもらおうと考えた。


「でも……本当に、あの子だったんですか……? もしかして昔一緒に居たっていう、エフェスの他の姉妹だったってことは……」

「この私が見間違えるわけがないわ。第一、エフェスはもとよりあなたの名前まで口にしていたし、左腕をすっぽり覆うような長手袋をしていたもの」

「しかし何が目的で、こんな……やっと、やっとこれから皆で平和な時間を過ごせると思っていたのに。一体どうして今になってエセルが私たちのところに……」

「彼女がどうして自分たちの生まれた場所に私たちまで誘ったのか、その真意はまるで判らなかったけれど……とにかくこの紙をエフェスに見せて、大体の位置だけは掴んでおきたいわ。そうすればアン……エヴァにも助力を仰げる」


 そしてエフェスのもとに再び戻った私は、彼女にエセルが今夜向かうという場所の位置が記されているらしい紙を彼女にそれとなく見せて、実際にそこに描かれた奇妙な文様が読めるかどうかを確かめようとした。


「ねぇ、エフェス。全然関係の無い話で悪いのだけれど、これってもう学校で習ったりしたかしら? 私、これをどう読むのかよく思い出せないのだけれど、現役のあなたになら解るかなって思ってね」

「え……? これ……は……うん。私、読めるよ……読めるっていうか、分かる」

「本当? それで、そこには何て書いてあるの?」

「お誕生日、おめでとう……って」

「は……お誕生、日……? 他には?」

「えっと……お月様、夜空のてっぺん昇る頃、みんなで一緒にお祝いしよう……クレフの遺跡で待ってるね……? 招待するのは四人だけ……主役が居ないと始まらない……あなたへの贈りものは一番下の、さらに奥……? これ、何なの?」

「……ありがとう、エフェス。よく、分かったわ。クレフの遺跡、か……学院の方に訊けば正確な位置が分かるかしらね」


 ――今日の月が空の頂きに達する頃に、クレフ遺跡という場所で、エフェスを必ず含めた四人だけがその中に入ることが出来て、さらに見て欲しいものが遺跡際最深部の奥にあると……簡単に整理すれば、大体こんな意味かしらね。


 正直罠としか思えないけれど、さっき店に訪れた時のエセルは以前会った時とは随分と雰囲気が変わっていた……今夜リゼたちと共にその遺跡に向かうべきかどうか、ここは慎重に考えなくては。

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