第86話 交わす言葉と交わる想い


 試合前に彼女と賭けをしたあの日、別れの間際に彼女は確かに私にこう言った。

『屋敷の門は、あなたのためにいつでも開けておくわね。だってもうすぐここがあなたの新しい家となるのだから』

 その言葉はどうやら本当であったようで、私が門兵に話しかけると、訪ねてきた理由すら訊かずにすぐさまその門を開けて私を中に招き入れてくれた。そしてそのまま玄関口までは難なく来れたものの、そこで以前私を客間まで案内してくれた女性の執事――エステールが突然屋敷の玄関口から現れ、明らかに私を通すまいとした態度で立ち塞がった。


「……あなたがシャルレーヌ様にとって大切なお客様であることは百も承知でございますが、どうか今日のところはお引き取りくださいませ……お嬢様は現在、酷く憔悴なさっておいでで、とてもお話が出来る精神状態ではありません」

「そう、ですか……まだ無理も、ないわよね。解りました。それではまた日を改めてお伺いします。どうかシャルさんによろしくお伝えください」

「せっかくのご足労とお気持ちとを無下にしてしまい、大変申し訳ございません。しかし、あなたからの訪問があったことはあとで必ず――」

「いいわ、通して差し上げて」


 その時、エステールの言葉を遮るようにして彼女の背後から伝わって来たものは、紛うことなきシャルの声。先ほどまできっと自室に居たであろうシャルは、どうやら私の訪問を知って自らその姿を現したようだった。


「シ、シャルレーヌ様⁉ いけません、まだお身体が……!」

「私の言葉が聞こえなかったのかしら? エステール」

「い、いえ……滅相もございません。今、お通しします」


 間もなく私を招き入れたシャルの姿は、つい先日戦ったばかりとは思えないほど酷くやつれている様子ながら、私の顔を見るなり極めて和やかな微笑みを満面に湛え、私を客間ではなく彼女の自室らしき部屋へと自ら導いてくれた。


「さぁ、そこに掛けて楽にして頂戴。今お茶を淹れさせるわ」

「あ……いえ、どうぞお気遣いなく……」


 あまり他人の部屋に来てあれこれと視線を巡らすことは無作法でありながらも、贅の限りを尽くしたであろう奢侈しゃしな調度品の数々が自然とこちらの視界に入り込んで来たせいか、私は思わず辺りを何度も見回してしまった。


「シャルさん。本日はご体調の優れないところ、わざわざお屋敷の中にまで招き入れてくださって――」

「ふふ、もうそんな固い言葉は抜きにしてお互い普通の言葉でお話しましょう。私のこともさん付けではなく、そのままシャルと呼んでもらえると嬉しいわ」

「……では早速、そのお言葉に甘えて……シャル。今日私がここに来たのは、あなたに言いたいことがあったからなの」

「言いたいこと……? 何かしら?」

「私との戦いであなたが敗れたのは、あなたの剣が劣っていたからではなく、私の運が良かったからに過ぎないわ。それは実際に剣を交えた私がそう感じたのだから間違いない。あなたにとって最も惨めな姿を衆目に晒してしまったことは貴人として堪えがたい屈辱だったかもしれないけれど、私はそんなあなたの剣捌きをとても美しいものだと感じたわ。きっと幼少のみぎりから、修練を重ねてきたのでしょう」

「ええ……ご明察の通り、三歳の頃から既に棒切れを持って剣術の真似事を嗜んでいたわ。あれからもう、十五年ほど経つのかしらね」


 シャルによれば、人の上に立ち、常に美しくあることを至上とする侯爵家――ボワモルティエの家に生を受けた彼女は、幼い頃から博物学を始めとして様々な学問の英才教育を受けると共に、心身も美しく、また何者よりも強くあるためにフィルモワール一の剣聖、ノルベール・ド・ダルキアンに師事し、今日に至るまでその剣の腕を弛むことなく磨き続けてきたという。

 また魔導の資質にも恵まれていた彼女は、これまでに習得した剣技をそれによって独自に強化および発展させてきたため、今や国内で彼女に比肩出来るだけの実力を持つ剣士はそう簡単に見つからず、特に女流という枠に限っていえば、実質的にその若さで頂点に位置するほどの使い手であったようだった。


 さらに彼女曰く、ボワモルティエの家では、普通の人間が出来得ることは最初から出来て当然であり、彼女が国内最高峰の魔術学院で主席の座を争うほどの成績を収めても、両親から特段の評価を得ることは叶わず、また美術の分野においても、写実の枠を越えることが出来ていないと評された彼女は、何か一つでも右に出るものが他には居ない頂きに立つため、そして何より親から己の力を認めてもらいたいがために、幼い頃から続けてきた剣の道を究めることを志した。故にその剣において後れを取るということは、彼女にとって自身が積み上げてきた矜持のきざはしを、土台から突き崩されたに等しかったはずだった。


「私が認められるためには……全てにおいて上に立つ必要があると思ったの。誰よりも可愛く、誰よりも美しく、誰よりも賢く、そして……誰よりも強く。だから私の存在を脅かし得るものは全て私の前に屈服させて、その内面すらをも支配したかった。私にとっては外の世界から急に姿を現したあなたでさえも……ね。けど、それももう終わりよ」

「終わり……というのは?」

市井しせいでは十二支の白百合ル・リス・ブラン・ドゥーズだなんて言われていたけれど、私を取り巻いている子たちが居たのはあなたも覚えているでしょう? 今日を以て彼女たちは皆、もとの場所に帰って行ったわ」

「帰って……って、それはまた、どうしてなの?」

「私が選ばせたの。ここで一生分の支援金を得て自分の好きなように振る舞うか、これまでと変わらず私の傍に居るか好きな方を選べってね。そうしたらどうなったと思う? ふふ……誰一人として、ここから居なくなってしまったわ。手紙の一つすら残さずにね。結局皆、私ではなく私の支援を愛していたのよ。まぁ、彼女たちがここに来るまでの経緯からして、当然と言えば当然だけれど……ね」


 シャルが自らのもとに、いわゆる愛人として招き入れた彼女たちはきっと、シャルとの関係を彼女からの支援を得る代わりに自身を差し出すという、ある種の契約のようなものとして考えていたに違いない。そしてシャル自身の決断により、生涯に渡って困らないほどの金銭を受け取った彼女たちは、得るものを得た以上、シャルのもとに留まる理由はないものと感じて、ここを去って行ったに違いなかった。


「それからずっと、私って一体……何だったのかしらって、そういう想いがずっと頭の中を駆け巡っていてね。もう全てがどうでもよく思えてきたのよ」

「……そんな、あなたは――」

「それで、メルも賭けの褒賞を受け取りに来たのでしょう? 良いわよ。あなたの望みを何でも言ってみるといいわ。私に出来ることなら何だってしてあげる。今からあなたに跪いてあなただけの奴隷になってもいいし、この屋敷が欲しければ全部あなたにあげる。それとも、あの子たちと同じでお金だけが欲しいのかしら?」

「……違うの」

「あぁ、推薦書のことなら私がもう個人的に女王陛下にあなたたちのことを奏薦しておいたから何も問題は無いし、願いの勘定には入らないから。さぁ、安心してあなたの望みをこの私に――」

「もう……やめて!」

「えっ……?」

「シャル……あなたは確かに今まで自分が持っていた全てのものを失った……いえ、持ってすらいなかったと感じて絶望し、酷く自暴自棄になっているのかもしれない。けど、シャルは……シャルであることをどうか諦めないで……あなたには、あなただけが持つ唯一無二の素晴らしさがきっとある。だからどうか、お願い……」


 気づいた時には、シャルに対して贈ったその言葉が、恰もかつての自分自身に対して言っているかのように私には感じられて、この両方の目から熱を持ったものが止めどなく湧き上がってきては、そのまま頬を伝って零れ落ちていった。


「わ、私……私、は……私のために泣いてくれる人を……初めて……見たわ」

「うっ……ご、ごめんなさい。つい、込み上げて来て……しまって」

「いえ……私のほうこそ、こんな情けない姿を見せてしまって、あなたに申し訳ないわ。もし良かったら……どうかこれで涙を、拭いて頂戴」


 シャルからそっと手渡されたものは、実に見目美しい刺繍が施された手巾ハンカチで、それを目元に宛がうや否や、馨しい薔薇の香りがふんわりと漂い、こんな時でさえもまるで眼前に薔薇園が広がっているかのように感じられた。


「どうもありがとう。もう……大丈夫よ。それで……ね、シャル。私の望みというのはね……」

「…………?」


 その時私は、シャルと交わした賭けの褒賞に何を望むのかをはっきりと決めた。きっとのこの願いは、私の心から生まれた想いのかたちそのもの。それは――


「シャル。あなたとお友達になることよ」

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