第85話 勝者と敗者


「ん……んん……あ、れ? ここは……」


 ふと気が付くと、急速に明らかになっていく視界の中で見覚えのない天井が描かれ、全身には少し硬い布の上にあるような感触が伝わってきて、さらに左の腰近くに何かの気配を感じた私は、そっと自身の首を傾けてその正体を確かめようとした。


「……リゼ……」


 視線を向けた先には、寝台の端に両腕で自分を抱え込むようにして穏やかな寝息を立てているリゼの姿があり、彼女から発せられる熱のようなものが私の身体にまでじわりと伝わってくるようだった。


「そうだわ勝負……! ……は、確か私が勝った……のよね?」


 自分でそう言いながら、私は意識が遠のく直前までの記憶をゆっくり思い起こしつつ、その足跡を辿った。割れんばかりの拍手喝采、シャルが試合場の床に頽れる瞬間と消えてゆく剣身、そして無の境地で見出した光のような、存在。

 それらは確かについ先ほどまで、私がこの身を以て私がありありと感じていた記憶のかけらたち。夜霧に紛れていた彼らを一度こちらに手繰り寄せれば、その瞬間の連続が一つの光景となって、眼裏へと色鮮やかに映し出された。

 私にとっては、あの光こそがきっと、迎撃に移る絶好の機会を告げる灯火となったに違いない。私は外界からの刺激を遮断する一方で、本物のシャルが実際の攻撃に移る際に発したであろう闘気の微妙な変化だけを無意識下で感じ取り、そしてそれが私の中であのような光となって、その姿を現したのかもしれなかった。


「……ええ。確かに私は勝った……のだわ。でもそれはリゼ、あなたがいつだって私の傍に居てくれたおかげよ。本当に、ありがとう」


 傍らで身体を俄かに上下させているリゼを見ていると、何だかその姿がとても愛おしく思えてきて、私は彼女を起こさないようにゆっくりと身を起こして彼女へと手を伸ばし、その艶やかな淡い桃色の髪を優しく撫でた。


「あなたは今、どんな夢を見ているのかしらね」

「ん……んん……もう、駄目ですよぉメル……こんな、人がたくさん……いる中で……こんな……ことぉ……」


 寝言ながらも妙に艶っぽい声色で明瞭にそう呟いたリゼからは、どうやら衆人環境の中で人に見られるのが恥ずかしくなるような何かをしている様子だった。それも間違いなく、この私と一緒に。


「……相も変わらずはっきりとした寝言だこと……。あとで彼女に夢の内容を聞いたら、どう答えるのかしら……? それに私が何かすると、彼女が今見ている夢の中にも変化が起こるのかしらね……どれ」


 私は音を立てないように彼女の顔に自分の顔を近づけていき、その前髪を少し掻き分けると共に、間もなく現れた小さくて可愛らしい額に、自分の唇をそっとくっつけた。


「ふふ……どうかしら、リゼ」

「……えへへ。メルぅ……おめでとう、ございます……勝ったごほうびにぃ……私から、おいわいのぉ……くふふっ」


 寝言でそう呟いたリゼの顔には、春の訪れにつぼみを綻ばせた桜のように、ぱあっと明るい色が広がっていき、窓掛けの切れ間から覗く陽光に照らされたその頬には、仄かな赤みが差しているように感じられた。

 そうして私がリゼの穏やかな寝顔をしばらく眺めていると、やがて部屋の戸が急に開き、そこからエフェスの顔が飛び出して来た。


「あっ! レイラお姉ちゃん、もう起きてるよ!」

「えっ……ほ、本当だわ! メル、今お目覚めになったのですね! お身体の具合はいかがですか?」

「ええ、また心配をかけてしまったみたいだけれど、身体はもう何ともないみたいだわ。それより、リゼがまだ眠って――」

「ん……ん? あ……あれ? はっ……メ、メル!」

「あらまぁ……こちらも今ので目が覚めてしまったようね。まぁ、夢の続きはまたいつかかしら……ね」


 その後、リゼたちに試合で私がシャルと最後に斬り結んだ際の状況を訊ねると、どうやら私は両目を瞑ったまま抜剣術の体勢へと移行し、そして彼女とその幻体らと接する瞬間、折れた剣から失われた部分の剣身を再構成すると共に、強化した視力を以てしても目視出来ないほどの速度で、本物の彼女だけを一気に斬り抜いたように見えたとの話だった。

 折れた剣を一時的でも再構築してみせたのは、恐らく私の想いの力がそうさせたに違いなかったものの、一体何をどうやってそれを実現したのかは、実際にやってのけたこの私自身にも判らなかった。ひょっとすると、私にもシャルが持つあの物質化の能力に似た力が、ほんの一瞬だけ使えたのかもしれない。


 それから勝負の判定自体は、私とシャルの両方が試合場で意識を失う結果になってしまったものの、先にシャルを戦闘不能にした私の辛勝であったようで、私はこの医務室に運ばれてから丸一日ほど眠り続けていたらしかった。

 なお後日、試合で勝利を得た出場者たちのために表彰式があるらしく、さらに私の試合に限っては、特別席でご高覧された女王陛下が大層な感銘をお受けになったそうで、表彰式とは別に玉座への招聘しょうへいをこの私が賜ることになったという。


「それって本当なの……? だとしたらシャルの賭けに軽々しく乗って、偶々勝てたような私が、何とも畏れ多いことだわ。既に招待状のようなものを賜っているのなら、後でそれを見せて頂戴。失礼があってはならないからね。ところで――」


 私にはもう一つ気になることがあった。それは勝利を確信しながらも勝負に敗れたシャルの状況。彼女とてあれほどの使い手だったのだから、剣での戦いで敗北したことに対しては、自身の矜持が根底から叩き崩されたような衝撃を受けたに違いない。故に私から彼女に何らかの言葉は送りたい。それに……その心情を推し量るに今すぐ話すべきことではないにしろ、彼女と交わした賭けのこともある。


「ああ、彼女なら一足先に目を覚まして、今はもうお屋敷に戻られているようです。あの、取り巻きの女性たちと一緒に。ですよね、リゼ?」

「彼女たちはちまたでは有名だそうで、十二支の白百合ル・リス・ブラン・ドゥーズと呼ばれる、十二人の侍女のような存在だそうです。その実は良家の令嬢だったり女優志望の子だったり、あるいは芸術家を目指している子なども居るらしく、確かに以前浜辺で見かけた時は、そのくらいの数をはべらせていましたよね」


 リゼの言う、その芸術に生きようとしている子はきっと、シャルに後援者パトロンとなってもらった上で手厚い支援を受けていたであろうことが窺える。他の子たちにも恐らく色々と込み入った事情があって、彼女からの恩恵を預かる……あるいは貪るためにその身を寄せているのかもしれない。いずれにせよ、そのことに関しては私が深く首を突っ込むべきではないように思える。


「そう……ともかく、剣を交えた者同士として、一応の礼儀はしておきたいから、宿のお風呂で身体を清めたら、一度彼女に顔を見せに行くことにするわ」

「それなら、ぜひこの私も一緒に連れて行ってください。試合に負けた腹いせに、メルに対して何か妙なことをしてくるやも知れませんし……」

「いえ、大丈夫よリゼ。彼女は確かにその……そういった気があるけれど、筋はきっちりと通っている人だと思うの。だから、私一人で行くわ。きっと二人きりでないと交わせない言葉もあるだろうから」

「……分かり、ました。でも私、屋敷の近くにまではメルが何と言おうとも付いて行きますから。もし屋敷で何か異常事態が起きれば、体内の魔素を一気に高めてください。あの門を破壊してでも、私がメルを助けに行きますから」

「ふっ、ふふふ……それは実に頼もしいわね。分かったわ、リゼ」


 そうして一旦皆で宿に戻った私は、それまで引き摺っていた汚れをお風呂で洗い落とし、入浴を終えて身なりと髪とを整えた後、険しい表情をしたリゼと共に、シャルの屋敷に向かうべく宿を後にした。


「……では、ここでお待ちしています。用事が終わったら早く、戻ってきてくださいね! このあと、メルの勝利祝いもあるんですから!」

「ええ、もちろんそのつもりよ。今日の夕食は皆で一際豪華なものを頂きましょう。それではまた後でね、リゼ」

「はい……その、どうか……お気をつけて!」


 私は心配そうな面持ちのリゼにそっと微笑みだけを返して、シャルの屋敷へと導く豪壮な門に向かって歩き出した。彼女ともう一度、剣では無く言葉を交わすために。

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