第80話 危険な賭け


 シャルの屋敷見学を終えた私たちは、宿に戻ってから話し合いを行い、最終的には相手の提示する条件がそれほど大したものでさえなければ、彼女のところでしばらくの間お世話になるという考えのもとに、意見の一致をみせた。


 しかしその後、私が宿でお風呂に入ろうと衣服を脱ぎ始めた時、布の合間に何かがずっと挟まっていたのか、紙のようなものがはらりと足元に落ちたことに気が付いた。それから間もなくそれを手で拾い上げて一体何なのかを確認すると、そこには婉麗な筆致でこう記されていた。


『そちらの意見がまとまったら、その答えを聞かせて頂戴。ただし、私が提示する条件は極めて個人的なものだから、ぜひあなた一人だけで私の屋敷に来てもらえるかしら? 待っているわね、メル』


 私はその、極めて個人的、という箇所に何か強い引っかかりを覚えたものの、とにかく話を聞いてみないことには反応のしようがないため、彼女に指定された通りに翌日私は彼女の屋敷を一人きりで訪問することにした。

 一方でリゼたちには私が単独で行動する理由として、剣の手入れに必要な道具のうちで切らしているものがあって、それを買いにちょっとだけ出てくるという旨だけを予め伝えておいた。


「……本当に一人で来てくれたのね。嬉しいわ、メル。では早速だけれど、皆の意見がどういう風にまとまったのか、聞かせてもらえる?」

「はい。最終的に私たちは、シャルさんの条件が無理なものでさえなければぜひこのお屋敷でお世話になりたい、という意見に落ち着きました。そこで、その個人的な条件というものが如何なるものなのか、お聞かせ願いたいのですが……」

「ふふ、分かったわメル。私があなたに望むものというのは、ね……」

「…………?」


 そう言いながらゆっくりと私の背中側に回ったシャルが、私の右肩を優しく抱くや否や、その顔を私の左の耳元に近づけて、

「あなた、自身よ」

 と、吐息混じりに極めてなまめかしい口調で囁き、私の髪をそっと撫でた。そしてそのあまりのことに吃驚した私は、思わず彼女から距離を取った。


「えっ……? あ、あの……それって、どういうこと……ですか?」

「あなたは本当に美しい子。その端麗かつ清艶な容姿はもちろんのこと、生まれながらの高貴さとでもいうのかしらね……他にはない雅やかな気品や高潔さといったものが全身から満ち溢れている。私はね、まだ誰のものでもない、真に純粋で美しいものを何よりも愛しているの。好きで好きでたまらなくって、いつまでも自分の傍に置いておきたくなるくらいに」

「えっと……シャル……さん?」

「だからあなたがもし、私のものになってくれると言うのなら、他の子たちの面倒も全てこの私がみてあげる。着るものも食べるものも、住むところも全部、ね。それに正国民の資格なんて、私が女王陛下に奏薦すれば推薦状を書くまでも無くってよ。そしてこのフィルモワールに居る限り、あなたたちは優雅な時間をずうっと享受し続けられるのよ……どうかしら。悪い話では、無いでしょう?」


 俄かには信じ難いことを一切の淀みなくのたまうシャルの眼差しからは、欺瞞や虚飾の色など微塵も感じられない。つまりこの眼前で佇んでいる女性は、同じ女性である私に対して、本気で自分のものになれと言っているに違いない。

 

「……せっかくのお話、ですが……今の話は何も聞かなかったことに……します。すみません」

「そう……ふふ、やはりあなたならそう言うと思ったわ」

「え……?」

「時にあなた、私に話をしてくれたように剣の腕には相当な覚えがあるのよね?」

「それは、はい……剣の扱いになら、確かな自信がありますが……」

「何を隠そうこの私も、そうなのよ。実は三日後に王城で開かれる剣術の天覧試合に私が出ることになっているの。けれど、本来私の相手になるはずだった女性剣士が急病で床に臥せってしまって。私の相手になれるだけの人物が他に見つからず、ちょうどその選定が難航していたところでね。そこで……」


 そこで一旦言葉を区切ったシャルは、その眼前で佇む私に右手人差し指の先を向けると同時に、

「あなたをこの私の対戦相手として、指名したいわ」

 と二の句を継いだ。


「は……? 対戦相手って……何故、この私が?」

「ふふ、簡単なことよ。同じ女性として、同じ剣士として、そして……同じ高貴な生まれであるものとして、どちらが上であるかを決めるのよ」

「しかし、勝敗はどうやって……?」

「試合自体はお互いが非殺傷処理を施した専用の剣を使って、どちらかが倒れるまで闘い続ける、とても単純なものよ。そこでもしあなたが勝ったら、あなたの願いを無条件で何でも一つだけきくわ。その代わり……」

「……その、代わり?」

「もし私が勝ったらあなたは、私のものになるの……もちろん、この賭けをするかしないかはあなた次第。考える時間もまだあるわ。だからじっくり――」

「ふ……そんな時間は、必要ありませんよ」

「……何ですって?」


 ――私は師匠から授かったエーデルベルタの剣術を以て、これまで人に非ざるものたちさえも相手に、数多くの死線を潜り抜けてきた。そんな私がこんな場所でぬくぬくと人間のみを相手にしてきたであろう彼女に、剣の扱いで後れを取るはずがない。私と剣での勝負がしたいというのなら、それこそ望むところだわ。たとえリベラディウスが使えなくても、必ず勝利をこの手で掴み取ってみせる。


「その勝負、お受けいたしましょう」

「今の言葉……確かね? よもやげんむようなことは――」

「ええ。二言はありません」

「いい、目ね……ますます気に入ったわ。必ず、私のものにしてみせるから」


 それから彼女の提示した誓約書に署名と拇印を行い、屋敷の門を出た私は、リゼたちに天覧試合へ出ることになった経緯をどう説明すれば良いものか思案に暮れていた。とりわけシャルと交わした賭けの話だけは、万が一にもリゼの耳に入ろうものなら私は恐らく二度と立ち上がれなくなるほどの極めて激しい叱責を彼女から受けることになる。故にその辺りも何とか巧く暈して――


「……お二人だけで、内緒のお話ですか?」

「うっ……⁉ リ、リゼ……! あ、あなた、どうしてここに?」

「出かける前のご様子が少しばかり妙だったもので、気になって後をつけてきました。常ならば私の尾行でも見破れたはずですが、どうやら気がそぞろになっていたようですね、メル?」


 ――何て、こと。よりにもよってリゼに後をつけられていた、だなんて……。

 でも動揺している場合じゃないわ。ここはとにかく平静を保ちながら、いつもの私らしくはきはきとした受け答えをすべきね。


「実は……例の条件というのが極めて個人的なもので、先方から私一人で来て欲しいとの要請があったのよ。それでこうして彼女の屋敷を訪ねにきたの」

「そう……なんですか? してその条件というのは一体何だったんです?」

「その、何でも来週に剣術の天覧試合のようなものが王城で催されるそうでね……彼女はそこに出るらしいのだけれど、相手が急病で出場不可になって。そこでこの私に白羽の矢が立てられたの。そしてもしその試合に勝てば、何でも無条件で願いをきいてもらえることになったのよ」

「へぇ……天覧試合ですか……でも、仮にその試合に負けたらどうなるんです?」

「それは私が、シャルのものに……あっ」

「へっ?」


 ――私ってひょっとして……馬鹿、なのかしら?

 普通に受け答えをしているていで応答しながら、最も知られてはいけないことまで真正直ましょうじきに答える人間が一体何処にいるというの?


「シャルのものにって……? 嘘……まさか、そんな危険な賭けを……⁉」

「その……ご、ごめんなさい。だって彼女が剣の勝負だなんていうから、つい勢いに任せて誓約書と拇印まで――」

「……メル?」

「な……何、かしら」

「ご自分が一体何をされたのか……本当に、ほんっとうに解っていらっしゃいますか? メルともあろう人がなんと軽忽けいこつな……相手が用意した誓約書をちゃんとその隅々にまで目を通した上で署名なり拇印なりをしたわけですか? 法的に有効だったらもう取り消せないんですよ? もし、万が一、メルが負けるようなことになったら、メルは……メルはその場であの人のものになってしまうんですよ! せめてどうして……どうしてこの私に一言、相談をしてくれなかったんですか!」

「うっ……! ……えっと、その……リゼに黙って、勝手なことをして……本当に、ごめんなさい……。ただ私も――」

「――っくんですよ」

「えっ?」

「今から早速特訓ですよ、メル……! もう後に引けないのなら、あの人に勝つほかありません! もし……もしも負けたりなんかしたら、私はメルのこと絶対に、絶対に……許しませんからね……?」

「わ、私が剣で負けるわけじゃないの! いいわ……望む、ところよ!」


 今回は完全に私の身勝手で軽率な判断が引き起こした事態であるとはいえ、既に変な火が付いてしまったリゼと共に、私は久方振りの特訓を行うことになった。

 決して敗北が許されない戦いで、絶対的な勝利を掴み取るために。

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