幕間 第13幕 誰よりも大切な人


「ん……誰? メルセデス、様……?」


 夜。何か物音がしたような気がして、不意に目が覚めた。

 不確かな意識の中、重い瞼から覗いたものは、月と星の明かりが俄かに浮かび上がらせた書き机のみで、其処に誰かが訪れたような気配は特に感じられなかった。


「気のせいかぁ……何だか眠れないから一緒になんて……ふふ、そんなわけないよね。今日のメルセデス様は何処か思いつめたようなお顔をされていたから、ずっと気にはなっていたけれど……さぁ、寝直してまた明日にでも……ん?」


 その時、薄ぼんやりと象られた机の上に、何かが置かれてあるように見えた。

 このまま寝てしまおうかと思ったものの、私はそれが何故か異様に気になった。


「……机の上に何か置いたままだったかな?」


 間もなく机上に据えられた魔光灯を点灯させると、其処には可愛らしい薔薇の絵が幾つも描かれた、一封の小さな封筒が置かれてあった。


「宛名は私の名前で、差出人は……御存じより? ふふ、私にはこの美しい文字だけでも誰か判ってしまいますよ、メルセデス様。それにしてもわざわざこんな封筒までご用意されて、中には一体何が書かれてあるのかな……」


 切った封から現れたものは、一枚の便箋。

 紙面の余白は封筒と同じように可憐な薔薇によって彩られていて、またその便箋自体からも仄かに薔薇の香りが漂ってくるのを感じた。


「手紙まで薔薇の香りに包まれているだなんて……メルセデス様って、本当に素敵。それで、内容は……」


『――親愛なるリゼへ。あなたと共に過ごしたこの十一年と四か月と二十三日間。私は一時だってあなたのことを忘れた日はありませんでした。私がこうして幸せな日々を送ることが出来たのはリゼ、あなたがいつだって私の傍に居て、その心の支えになってくれていたおかげです。あなたが居なければこの私は、とうの昔に空の向こう側へと旅立っていた身なのですから』


『そしてあなたに二度もこの命を拾って貰ってから、私はずっと自分が生きる意味を考えていました。けれどつい先日、私はその生き方をたった一瞬で定められてしまいました。私の目の前を突然塞いだその定めの存在は、あまりにも大きく絶対的で、私独りの力ではとても抗えず、もはやその運命から逃れることは出来そうになかったのです』


「生き方を……定められた?」


『そこで私は、自分自身の足で最初の一歩を踏み出すことに決めました。それはこの生まれ育った伯爵家を棄てるという決断です。私はこのことを事前にあなたへと告げるか否か、これまでの人生の中でも経験がないくらいずっと深く考えて、悩みに悩み抜きました。そしてその結果、私は独りで行くことを心に決めました』


『貴族として生まれ育ってきた者が、その家を自ら棄てて逃奔するということが一体どういう意味を持つか、この家に長く仕えてきたリゼになら解ると思います。勿論、私がこうして独りで黙って行くことを、あなたに許してもらえるとはとても思えません』


『しかしこの責は私独りのみが抱え込むべきもので、あなたにそれを背負わせることはどうしても出来ないのです。あなたの人生はあなただけのもの。それ故に私一人のためにそれを曲げてしまうことは、この私自身が許せないのです』


「何を……何を、言っているの……」


『リゼ。あなたに与えられた私の侍女としての役目は、これでお終いです。これからのあなたは、何処までも自由。文武両道にして才色兼備、そして人間的にも素晴らしいあなたは、どんな場所に出したって恥ずかしくありません。あなたは私のたった一人の心友にして、私の自慢の家族です』


『どうかその大きな翼を広げ、何者も阻むものが居ない大空へと舞い上がり、あなただけの幸せを見つけてください。私も必ず、あなたが繋いでくれたこの命と向き合いながら、本当の生きる意味を見つけてみせます。これから見える景色は違えど、私たちが同じ空の下で生きている限り、その想いはいつだって繋がり合っています』


『最後に、私との想い出の証として、この純白のリボンを置いていきます。これまでずっと私を護ってくれたお守り、今度はあなたを護ってくれるように、強く強く願いを込めておきました』


「これ、は……昔お屋敷を抜け出して、街のお店で私がメルセデス様にお贈りした、何処にでもあるような白いリボン……でもメルセデス様はそれを今までずっと、肌身離さず持っていて下さったんだ……」


『それからこの手紙は、もし誰かの目に触れればあなたがあらぬ疑いを掛けられるきっかけともなり得るもの。見終わったら封筒と共に必ず跡形もなく燃やしてください。本当に長いようで短い時間でしたが、私はあなたと一緒に過ごせて、誰よりも幸せでした』


『あなたへの感謝を表せるような言葉はどうしても見つかりませんでしたが、どうかこれだけは言わせてください。私のところに来てくれて、本当にありがとう、リゼ。あなたは私にとっての友人であり、家族であり、そして誰よりも大切な人。どうか身体にだけは気を付けて。そしてきっと、幸せになってください。さようなら、リゼ。願わくばまたいつか、ここではない同じ空の下で。――御存じより』


「あ……あ……あぁ……ううっ!」


 独りでに大きく震え出していた手で、喉の奥から溢れ出てしまいそうな嗚咽と叫びとを必死に抑えつけながら、私の身体は己の心に従って勝手に動き出していた。

 メルセデス様を追う。ただその一心で。泣いている暇なんて何処にもない。


「私はメルセデス様専属の侍女、リーゼロッテ・ベーゲンハルト。……これまでも今も、そしてこれからもずっと……それは変わらない!」


 極力音を立てないように、動き易い服装へと素早く着替え、メルセデス様から賜ったリボンで髪を左側に結び、最低限の荷物を鞄に詰めて、自室を飛び出した。この四方を隙間の無い魔導結界で覆われた屋敷から、寝ずの番が居る正面玄関を経ずして外界へと達する抜け道があるとすればそれは――


「私がメルセデス様に初めてお会いしたその日に教えていただいた、あの秘密の通路……きっとあそこに違いない」


 果たして其処には、メルセデス様の魔素ぬくもりがほんの微かながらまだ残っているようで、私はその足跡を必死に辿りながら、夜の街を無我夢中で駆けた。


「メルセデス様が向かわれたのはきっと……ツァイフェルの駅。以前私にここの時刻表を取ってくるようにと仰ったのも、卓上旅行なんかじゃなくって、きっとこの日のためだったんだ」


 私たちがキルヒェンシュヴァイクにある学院に通っていた頃、毎日利用していたツァイフェルの駅。ここからは星光列車という寝台を備えた列車がこの時間からも出ていて、それを利用すれば眠っている間に膨大な距離を移動することが出来る。


「お願い……メルセデス様、あの駅に居て! どうかまだ列車には乗っていませんように……!」


 ――速歩術を以て一心不乱に駆け抜ける私とは対照的に、夜の街中はひっそりと静まり返ったままで、通りを往く人はほとんど見受けられなかった。

 そしてそうこうしている内に、目的地であるツァイフェルの駅が見えてきた。


「はぁ……はぁ……駅に、着いた……! あとは、ここに……!」


 魔光灯で照らされた駅の構内は、街中以上に静謐な雰囲気に包まれていて、辺りには私の乱れた呼吸音が鳴り響くばかりだった。そしてふと乗車券を販売している窓口へとその視線を移した時、私の瞳の中に見覚えのある後ろ姿が、確かな輪郭を持って、其処に描き出された。


「あ……!」


 その時、この目に映した、何よりも美々しくその歩調に合わせて揺れ舞う、背筋が凍るほどに流麗な金糸雀色の御髪を、私は生涯忘れないだろう。


 そしてまた私は、名前を呼んだ。誰よりも大切な、あの人の名前を。

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