第62話 見えない砂時計


 アルビニエの町から少し離れたところにある、そびえるというほどでもない低山。

 しかし雨天の、それも夜間ともなれば、その装いは日中に見たそれと比べても、かなりの面変わりを見せているように感じられる。


 レイラの話によれば、くだんの麻痺毒はその量によっても異なるものの、先ほど見たような症状が現れて始めてから二時間以内には、麻痺が全身へと及んでしまい、呼吸を確保することが困難となって、結果的に死を迎えるとのこと。つまりこうしている間にもリゼは刻々と死へと向かって歩み続けていることになる。


 大切な人の命が今、全て自分の手に委ねられている気持ちというのが、これほどまでに重いものだとは思わなかった。次第に大きくなっていく底無しの焦燥感と、この山よりも高くそばだつ不安感とに今にも圧し潰されてしまいそうで。


「あの時のリゼは……ちょうどこんな気持ちだったのね……」


 ――けれど弱音を吐いている暇なんて今の私には微塵もない。見えない砂時計の砂が全て零れ落ちるよりも前に、何に代えてもあの薬草を見つけ出して、それをリゼのもとに一刻も早く届けなくてはならないのだから。


 かつて私が病に臥せって、黄泉の入り口にその足を踏み入れようとしていた時、リゼは今の私と同じように雨天の夜中、自らの故郷にある山をお兄様と訪れて、危うく自らの命を落としそうになりながらも、私のもとに薬草を届けてくれた。

 当時、私の意識は半ば朦朧としていたけれど、リゼが全身泥だらけになりながら、その手を真っ赤に染めていたことは確かに覚えている。


「リゼは自らの命を賭してまで、やり遂げたのよ……それをこの私が出来なくて、どうするの!」


 そう叫んで自らを奮い立たせ、半日間に渡って長く降り続いていた強雨で酷く泥濘ぬかるんだ地面を踏みしめながら、山頂への距離を少しずつ縮めてゆく。一歩ずつでも確かに前へ、その先にこそまだ見ぬ光があると信じて。


「ん……誰⁉」


 降り頻る雨粒が木々の枝葉を激しく叩く音に紛れて、私のもとへと近づいてくる何物かの気配を感じたような気がした。そしてその感覚は、果たして正しいものであったことがすぐに判った。


「ふ……この状況下で私の気配を察知するとは、只者では無いようですね」


 この手にある魔光灯の明かり以外は、一切の照明が存在しない墨色の世界で、一寸先にある、暗澹とした夜の闇に溶け込むかのような出で立ちをした存在が、私の眼前でその姿を露わにした。


「その感じ……まさかコルクラーベンの……!」

渡リ烏コルクラーベン……それはロイゲンベルクが擁する暗殺部隊の名ですね」

「というと、あなたは違うのかしら……?」

「ええ。私が何者であるかを明かすことは出来ませんが、それとは違うことだけは確かですよ。時にあなた、ルーネの谷間に架かる橋で何があったか、ご存知ではありませんか?」


 ――なるほど、この相手は恐らくフィルモワールから放たれた密偵。

 自ら名乗りはしないものの、纏っている雰囲気や出で立ちからは、コルクラーベンの連中に通じるところが多くあるように感じられる。きっと私たちが街に入ってから、ずっとその行動を監視をしていたのね。


「……知っているわ。誰よりも詳しくね。けれど、今はそれについて悠長に語らっている時間がないの」

「ん……それは、何故です?」

「私の……掛け替えのない友人が毒に侵されて、ジギト・テリビリスという植物が必要になったの。生息地は低山の山頂部ということぐらいしか判らないけれど、近くにある目ぼしい場所といえばこの山くらいしか無くってね」

「なるほど……しかし、それが本当であると証明することは出来ますか?」

「……今すぐには出来ない。けれど、もし私と一緒に探してくれるのなら、あなたをその友人が居る宿まで連れて行ってあげるわ」


 こうなれば一か八か、形振なりふり構わず助力を乞うほかにはない。

 こちらには余計な戦いをしている時間なんて欠片ほどもないのだから。


「断る……と、もし言ったら?」

「別にそれでも構わない。けれど、もし私の邪魔をするというのなら――」

「……ん?」

「何人だろうと、叩き斬る」


 次の瞬間、雷光が閃いて、近くの草叢くさむらに潜んでいたであろう相手の仲間が、私の左右斜め前と後ろを同時に取り囲み、その白刃をこちらへ向けている様がはっきりと見て取れた。


「……もう一度だけ、訊きます。ルーネの谷間に架かる橋で何があったか、私たちにお聞かせ願えませんか?」

「もちろん……協力は惜しまないわ。あなたたちと争う気だって全くない。けれど、今はどうしても山頂に辿り着いて、薬草を採りにいかないといけないの。さもなければあと二時間もしないうちに、私の友人はその息を引き取ることになってしまう」

「…………」

「だからお願い……どうかこの私に、力を貸して。あなたたちであればきっと、この地に関しては誰よりも深く通じているはず。その間、この剣もあなたたちに預ける。万が一私が約束を違えるような行動を見せれば、その場で刺し殺すなり拷問にかけるなり好きにすればいい。どうかお願い……この通りよ……」


 間もなく私は人としての矜持きょうじを棄て、剣士としての魂も捧げながら、泥濘に両膝を突き、そのこうべを相手に向けて地に着くほどまでに深く垂らしながらそう懇願した。


「……分かり、ました。橋の件は今は保留にさせていただきましょう。こちらの剣は納得のいく説明がなされた時に、また改めてお返しします」

「……では!」

「ええ。あなたのお友達を助けて差し上げましょう。交換条件というやつです」

「ありがとう……その厚情、恩に着るわ」


 最初に応対した相手が私の剣を受け取り、背後にいた仲間が私の身体に隠した武器がないかどうかを一通り確かめ終えると、其処で初めて周りで閃いていた白刃が、元の鞘に収まったのが判った。


「それでは、探す植物の特徴をご教示願えますか?」

「ええ、もちろんよ……この手帳に絵が載っているわ。ところで……あなたのことは何と呼べばいいのかしら」

「そうですね……では、エヴァとでも名乗っておきましょうか」

「分かったわエヴァ。私はメルセデス。メルで構わないわ。どうかよろしくね」


 そうして私はエヴァと、彼女の仲間たちと共に、リゼを救うための薬草を集団で捜索することとなった。こんなことになろうとは夢にも思わなかったけれど、私にとっては願っても無い援軍であるようにも感じられた。


 そして皆で山頂部の一帯を体感時間で凡そ三十分ほど捜索していると、ついに目当ての薬草――ジギト・テリビリスの特徴に一致するものを発見することが出来た。


「本当にありがとう……これさえあれば、きっとあの子を救うことが出来るわ」

「礼には及びませんよ。さぁ、残された時間は多くないはずです。私たちが一早く下山することが出来る抜け道をお教えしましょう。無論、道中は安全ではありませんし、私たちの速さに付いて来れなければ、かえって危険な道となりますが」

「ふ……それなら心配要らないわ。ぜひ、教えて頂戴」

「では、参りましょう」


 木々の合間を縫うように駆け抜け、不安定な崖場も山羊やぎの如く軽やかに飛び移って行く。気が付けば私が最初に山のふもとから中腹に至るまでの半分以下の時間で、下山することが出来ていた。


「本当に私たちのあとを付いて来るとは、実に大したものです……メル」

「この薬草を一刻も早く届けなければいけなかったからね。でもこんなに早く降りてこられたのはあなたたちのおかげよ……さぁ、宿まで急ぎましょう」


 街にある時計台を確認した限りでは、宿を出てから既に一時間半近くが経過していた。もう一刻の猶予もない。早くこの薬草をリゼのもとに届けなくては……!

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