第60話 河畔の町、アルビニエ
「見てレイラ、町が見えてきたわ。あそこから先がフランベネルの地よ」
「本当……何とか雨が本降りになる前に、辿り着けましたね!」
空は先ほどにも増して黒々とした、鉛色の分厚い雲によって覆われ、町の方から流れてくる湿った風に乗せられた遠雷の轟きが、この耳を通して何度も伝わってくる。そしてその一方で、いつの間にか小さな雨粒が肌の上で踊り始め、その感触は刻々と大きなものになってきているようだった。
それから程なくして私たちが辿り着いた町の名は、アルビニエ。
フィルモワールが誇る滄海――ヴェルメリアへと注ぐ、ルゼーヌ川の河畔に築かれた町で、曇天の中にあってもその蒼さを湛えている近くの山を背に、煉瓦造りの家々が整然と立ち並び、また小高い丘の上には修道院と思しき建造物も見て取れた。そんな中で私は、何よりもまずリゼをゆっくりと休ませるため、その山と川とが一望できるところに位置していた宿に、一時の憩いを求めることにした。
「ふぅ……これでひとまずは安心ね。あの橋も落ちてしまったことだし、それに前にも言った通り、ここはもうフィルモワールの勢力圏内だから、あの追手たちも迂闊に手出しをすることは出来ないはずだわ。無論、油断は禁物だけれど」
フィルモワールは、ロイゲンベルクと比して、その勢力圏の広さこそはかなり劣るものの、これまで幾度となく侵略されてきた歴史があるだけに、勢力圏内での防諜活動には相当な力を入れていると聞いている。一見平穏そのものにしか見えないこの町の中でも、必ず何処かに目を光らせている者たちが居るに違いない。
しかし破壊された橋がある方から来た私たちも、きっとそういう者たちからすれば不審な存在であることに変わりはない。それが女だけの三人組ともなれば、なおのこと。それ故にあまり此処に長く留まることはせず、リゼが元気を取り戻したら、そのまますぐに皆でフィルモワールへと渡ってしまった方が賢明だと思った。
「あ……メル、雨が本格的に降って来たみたいです」
「思いのほか強く降って来たようね。あと少しでずぶ濡れになるところだったわ」
窓の外に広がっていた辺りの風景は、土砂の如く降り注いできた雨の飛沫を受けてたちまちのうちに白み始め、つい先ほどまでよく見えていたあの丘も、既に見通すことが叶わなくなっていた。
「はぁ……今日は流石に色々な事があり過ぎてどっと疲れたわね、レイラ」
「ええ、私ももう矢の一本を放つ力すら残っていませんよ。一時はどうなることかと思いましたが……私は二人が無事で、本当に良かったです」
「でも本当、あなたが居なかったらどうなっていたか……あのサソリの時もそうだったけれど、ここのところはあなたを守るどころか、逆に二人して助けられてしまっていて、情けなくなってくるわ。それにしても――」
レイラがマリオンに向けて放ち、その身体ごと弾き飛ばした矢。
その速度は技術や工夫で説明できる範疇を超えているように感じられた。
ひょっとして彼女は
前にサルマンの屋敷で一度、魔導の基礎についてその感覚だけを軽く教えた程度でしかないにも関わらず、魔導を実際に使ってみせたと言うならそれは、まさに驚嘆に値する。素養があると言われたこの私でさえ、物に自身の魔素を伝えることが出来るまでには半年余りの時間を必要としたのだから。
「ところでレイラ、あなた、あの矢はどうやって放ったの?」
「えっ? どうって……その、普通に弦に矢をあてがって……とにかくあいつに一刻も早く当てなくちゃって思って。あとはもう、無我夢中でした」
「そう。レイラ、あなたはきっと知らずのうちにその手にしていた弓と矢に自身の魔素を込めて撃ち出していたのだと思うわ。それはもう魔導の技術よ」
「魔導……この間、メルに教えて貰ったことが出来たのでしょうか?」
「ええ、そうとしか考えられないわ。レイラ、あなたって本当にすごいわよ」
レイラが元々扱える
少し勝手が違うとはいえ、自身の魔素を体外に向けて放出することが何の教導も無く出来て居たのだから、魔導の初歩をすんなり行って見せても不思議はないのかもしれない。そんなレイラに魔導をしっかり教えれば、その種はいつかきっと大きく芽吹いて、美しい大輪を其処に咲かせるはず。
「そんな、やめてください……私を誉めても、何も出ないですよ?」
「また謙遜して。魔導なら私の得意分野だから、才能の有無くらいすぐに判るわ。今日はもうあなたもリゼの治療で多くの力を消耗したから、また日を改めて練習する機会を作りましょう。出来ることが増えれば、あなたの自信にも繋がるわ。それからもう一度言うわよ。レイラ、あなたは本当に、すごい人よ」
「メル……ありがとうございます。メルにそう言って貰えたら、本当に嬉しいです。私また、頑張りますから!」
――あなたのお母様もきっと、空の上から見守って下さっているわ。
いつまで一緒に居られるかは判らないけれど、あなたのその優しい想いの力は、いつかもっと多くの人々に福音を齎すことになるでしょう。だからその奇跡の種は、この私がゆっくりと育てていくわ。私とリゼが水や光になって、ね。
「ん……んん……あれ、ここ、は……」
「……! リゼ、目が覚めたのね!」
「あの……私はどうなって……ここは……?」
「もう何も心配は要らないわ。レイラがあの奇跡の力を使って、あなたを助けてくれたから。右の手首を見てご覧なさい」
「……すごい。確かここには刃が突き刺さって、向こう側にまで飛び出していたはず。それがもうこんなに綺麗に元通りになって……ありがとうございます、レイラ」
「いえ、そんな……私は、私に出来るだけのことをしたまで、ですから」
リゼはそう言いながら、まだ信じられないといった面持ちで、何度も自身の右手首を見返し、レイラはそれを見て、リゼに優しく微笑みかけていた。
そしてそんな光景を見ていたら、何故か無性にお腹が減ってきた。
「ねぇ、あなたたち、お腹は空いていないかしら? 外の天気は良くないけれど、もう少ししたら何処かに皆で食べにいかない?」
「おや、メルがそんなことを言うなんて、珍しいこともあるものですね。いいですよ! 何を隠そう私もお腹はぺこぺこですから!」
「リゼ、起きたばかりなのに……すごい食欲。でも、それだけ元気になれたってことですよね。ふふ、私もリゼを見ていたら、何だか急にお腹が減ってきました」
「えっ、それってどういう……」
「あっははは。何でもいいじゃないの。それじゃ、このあと皆で一緒に街に出掛けましょう。雨具の用意は私に任せて頂戴」
――こんなに心が弾んだような気持ちは、いつ振りかしら。
空は泣いているようだけれど、私の心は笑っているようだわ。
きっとこれから頂く料理にとっては、最高のスパイスになるわね。
雨に濡れながら唄って舞い踊ったら、リゼたちどんな顔をするかしら。
……ふふふっ。さぁ、早速出掛ける準備をしなくっちゃ。
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