第59話 雨の香り


「あら……ちょっと空の具合が思わしくなさそうね。それにこの風の感じからして、もうすぐ一雨来るかも知れないわ」

「確かに、少し湿気を帯びたような風を感じます。何とか雨が降って来る前にフランベネルに辿り着いてしまいたいですね」


 吊り橋の中頃で感じたものは、風の便り。それはそう遠くない内に、こちらに雨の訪れがあることを強く匂わせているように感じられた。


「まぁ、この橋さえ渡ってしまえば、随分と気は楽に……ん?」

「あっ! メル! リゼ! 後ろを!」

「レイラ……? はっ⁉」


 レイラの声を受け、リゼと揃って後ろを振り返った瞬間。

 異様に下がった右肩から腕をだらりと垂らしながら、もう片方の腕先から白刃を閃かせたマリオンの姿を、この視線の先に捉えた。


「あ、あいつ……! どうして⁉」

「メル!」

「……ええ!」


 私とリゼは瞬時に同じ懸念を抱いたようで、私は即座に手にしていた旅行鞄を右脇に抱え、レイラの居る対岸の方に向けてリゼと共に全力で橋を駆け始めた。


 もしあのマリオンが、私が剣から放つような衝撃破、もしくはその余力の全てを乗せてこちらに剣を飛ばして来た場合、吊り橋自体に損害が及び、まだ渡り切れていない私たちの身体が、その橋ごと眼下に広がる深い谷底へと落ちることになる。

 そして間もなくその抱いていた懸念が、現実として私たちの前にその姿を現した。


「ぐっ! は、橋が!」

「跳ぶわよ、リゼ!」


 マリオンが放った衝撃波は元居た側にあった橋の主塔部分を破壊し、蔦葛で編まれた橋の構造そのものもそれによって著しい崩壊を余儀なくされ、間もなく橋全体が振り子のようにレイラが居る側の断崖へと強く叩きつけられた。

 そして不安定な状態で跳躍した私たちは、手荷物を対岸に向けて投げ飛ばすと共に、先ほどまで足場だったものにそれぞれが縋り付いて、落下こそは何とか免れたものの、断崖に垂れ下がったそれに辛うじて掴んでいるのも同然であるため、私たちが未だ危機的状況にあることに変わりはない。


「くっ……早く、上に登らないと……!」

「はっ、危ない! うぐっ!」

「リ、リゼ!」


 マリオンは棒状の刃をこちらに向けて何本か放ったらしく、その内の一本が私の左脚に直撃しようとした寸でのところで、リゼが咄嗟に自らの右腕を伸ばし、その腕を盾にすることで襲来した鋭刃を受け留めていた。


 刃はリゼの右手首の辺りに勢いよく突き刺さったようで、其処から溢れ出した血が、彼女の右腕を赤く染めていくのが見て取れる。この状態から彼女を最も安全かつ迅速に救出するには、まず私が全力で崖上まで全力で登り、魔素の助けも借りながら、彼女が左手だけでしがみ付いている蔦ごと一気に引き上げるという手段が最良であるように感じた。


 そしてすぐさま私が崖上によじ登って、マリオンの方を確認した時、相手はこちらに向けて剣そのものを飛ばそうとしているのか、今まさにその左腕を大きく振りかぶる動作をしてみせた。


「いけない! リゼがまだ下に――」


 その瞬間、私の左側を空を切るような速度で過ぎった矢が一直線の軌跡を描き、その鏃は時を移さずして、この視線の先にあったマリオンの左胸の辺りに命中し、さらにその際に生じた衝撃と先に振りかぶっていた力が見事に相まったのか、マリオンの身体は弾指の内に後方へと弾け飛んだ。


「今のは……レイラ⁉」

「何とか……仕留め、られました」

「あ、ありがとう……レイラ! 今のは本当に、見事だったわ!」

「い、いえ! 今はそれよりも、リゼを!」

「……ええ!」


 程なく二人がかりで引き揚げたリゼの右手首の辺りには、先にマリオンが投擲した刃がその手首を貫くかたちで留まっていて、受傷部位からは夥しい量の出血が見て取れた。


「う……うぅ……」

「これは酷いわ……きっと手首にある動脈を損傷したに違いない……今すぐに手当てをしないと……!」

「ひとまずリゼを、近くの安全な場所まで運びましょう! 怪我の治療は私に任せて下さい! 必ず、治しますから!」


 ややあって、三人が揃って身を潜められそうな大きな岩陰へとリゼを運び、水平に寝かせた後、その足元に私の旅行鞄などの荷物を敷いて両足の位置を高くし、且つその右手首に刺さった刃は抜かずにそのままの状態で、レイラがすぐさま治癒術をかけ始めた。


 そして私がリゼに繰り返し呼びかけながら、彼女の左手を自身の両手でおもむろに抱え込むと、その脈拍は先ほどよりも速く、また其処から伝わってくる温度は、さらに冷たくなっているように感じられた。


「リゼ……どうして、こんな……」

「ふふ……やっと従者らしいことが、出来ました……ね。メルの……身体に、傷がつかなくて、良かった……です」

「馬鹿なことを、言わないで……ごめんなさい、リゼ……痛かったでしょう? 私が、私が甘かったから……こんなことに」

「あぁ、暖かい……メルの手はやっぱりいつでも……優しい……です……」


 リゼは、そう言うと穏やかな表情を見せながらその目を閉じ、やがて私の呼びかけにも反応を示さなくなった。


「リゼ! リゼ! しっかりして!」

「大丈夫ですよ……メル! リゼの手首を見てください」


 そう言われてリゼの右手首を改めて確認すると、レイラの素早い治癒術が奏功したようで、鮮血に塗れていた傷口は、わずかな痕だけを遺して何事も無かったかのように閉じており、また手首の近くには刺さったままだった刃もいつの間にか自然に抜け落ちていたらしく、まだ紅が残る地面に転がっていた。


「すごい……もう、ほとんど元通りになっているわ!」

「ふぅ……結構な出血でしたが、何とか止められましたね。今のリゼさんは、急な出血の反動もあってのことなのでしょうが、眠っているだけだと思い――」

「ありがとうレイラ! やはりあなたの力は、奇跡の力だわ!」

「わ、わわわ! く、苦しいです、メル!」

「あっ! ごめんなさい……つい、はしゃいでしまって」


 私たちの頭上を、黒々とした厚い雲が犇めき始めていた中、私の心は雲一つ無く晴れ渡った蒼穹であるかのように、その全てが暖かな光に満ち溢れていた。

 そしてリゼの華奢な身体をおぶった私は、レイラと共に再び街道を歩き始めた。

 湿り気を増していく雨の香りを辿りながら、一路フランベネルへと向かって。

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