第48話 泡沫


「……んっ」


 それは、額に突然冷たい雫を垂らされたかのような、鋭い感触。

 無から姿を現したその感覚は、途切れていた意識の糸を紡ぎ、輪郭を失っていた世界のかたちを再び、この双眸の中に緩々かんかんと浮かび上がらせていく。


「……う、ここは……?」


 最初にこの目が捉えたものは薄桃色の天蓋。そして間もなく首を左に傾けると書き机と書棚、右に傾けると三面鏡を備えた化粧台と衣装箪笥とが目に留まった。しかしそのいずれに対しても、この私には確かな見覚えがある。


 そう、ここはきっと――


「私の……部屋?」


 ――そんなはずはない。私は確かにさっきまで……さっき、まで?

 何を、していたのかしら? 何だかこことは違うどこかに居たような。

 変な夢でも見ていたのか、まだ現実との区別が上手くいっていないみたい。


 ふと、光が差し伸べてくる窓辺に顔を向けると、其処に訪れた軟風が白いレースのカーテンをくすぐっては、それをさやさやとはためかせ、その隙間から覗く清かな青の穹窿きゅうりゅうを背に、まるでまゆの中に居るかのような心地よい温もりを外から連れてきているようだった。


「良い……天気。でも朝、という割には陽の位置が高いわね。どうやら相当寝過ぎてしまったようだわ。早く身支度を済ませなくては」


 ――鏡の中に居る私はいつかの……いえ、いつも通りよね。

 全く、私はいつまで寝惚けていると言うのかしら。



 ***



「おはよう、メルセデス。今朝は随分と遅くまで眠っていたんだね」

「お、おはよう……ございます、お父様。申し訳ありません、どうやら昨日は遅くまで寝付けなかったようで、変な夢まで見てしまい……」

「構わんさ。今日は学院も休みだろう? ほら、早く席に着きなさい。朝食……いや、もう昼食の時間だな。ちょうど良い、これから皆で一緒に頂こうじゃないか」


 お父様が食事の席にご同席して下さるとは、一体いつ振りかしら。

 お母様たちがああなってからは、もうずっと――


「やぁメル、やっとお目覚めかい。さしもの眠り姫様も、昼食の香りには敵わなかったということかな」

「あら、メルセデス。いつも早起きのあなたが、こんな時間まで起きて来ないだなんて珍しいこともあるものね」


 ――お兄様とお母様が……目の前に……?

 でも二人はあの時確かに……ん、あの時って……何のこと、だったかしら。

 そもそも私はさっきから、一体何に対して疑問を感じていると言うの?


 だって二人がここにこうして居るのは、当たり前のことでしょうに。


「どうしたの、メルセデス。先ほどから顔の色が優れないようだけれど」

「いえ、何でもありませんわ、お母様。少し、妙な夢を見てしまっていたようで」

「妙な夢? それって一体、どんな夢だい?」

「えっと……あら?」


 ――何だかとても長い夢を見ていたような気がするのに、何一つ、思い出せない。けど何故かそれを思い出せないという気持ち悪さからだけではない、妙な違和感のようなものがずっと、この胸の中に留まって、渦巻いているような……。


「ふふ、寝ている間に見る夢なんてみなそんなものさ。それよりもっと良い夢を見なくてはいけないよ、メル。見るものではなく、叶える方の夢をね」

「そう……ですわね。ふふ、変な話をしてしまってすみません、お兄様」

「時にメルセデス、せっかくの行楽日和だ。何処か行きたいところはあるか?」

「そういえばメルセデス、あなた前に、フィーン・アジールにあるヒミルの樹を見に行きたいと言っていたのではなくて?」


 ヒミルの樹。馬車で向かえばここからそう遠くはない、フィーン・アジールの森に聳える、樹齢四千年以上と言われる大樹。兼ねてより一度は訪れてみたいとは思っていたものの、家族の皆がせわしく毎日を過ごしている中で、私だけがそんなわがままを言うことは、個人的な気持ちとしてはばかられるものだった。


 しかし、お母様がそう言って下さった以上は、そのご厚意に感謝しつつ、甘えさせていただきたいところ。そしてもちろん、あの子も一緒に――


「ん……?」


 ――あの子って一体、誰、だったかしら……?

 私は今、誰と一緒に、其処へ向かおうとして……。

 思いだせない。けれど、決して忘れてはいけなかった気がする。


「う……頭……が」

「どうしたんだい、メル? ひょっとして病気の後遺症が……?」


 ――病、気……? そうだわ、私は確かつい最近まで重い病に罹って床に臥せっていた。あの時は本当に命を落としかけたものの、ある薬草から作り出した特効薬を与えて貰ったおかげで、私は九死に一生を得ることが出来たのだったわ。


 そして強い雨が降りしきる中、その薬草があるという山地にまで赴いて実際の採取に成功し、私のところまで持ってきて来てくれたのは、お兄様と――


「ん……んんん……! ……あぁ……分からない、分からないわ!」

「メルセデスの様子が何か変よ……! エルヴィン、メルセデスをこちらへ!」


 ――この命を、死の淵から拾い上げてもらいながら、私はその恩人の名はおろか、姿までをも忘れ果ててしまったというの? そんなの、決して許されない。いえ、この私自身が許しはしないわ。だから、絶対に思い出さなくてはならない。


 暗い闇の中に在ってもこちらに伝わって来た、あの一筋の暖かな光を。

 抜け落ちそうな魂を掴んで離さず、私の名を絶えず呼び続けてくれた声を。

 そして再び開かれた世界で、最初にこの瞳に映った、他ならぬあなたの姿を。


『メルセデス様しっかり! この私が誰か、お分かりになりますか⁉』


 ――ええ。あなたのことを、この私が忘れるわけがないでしょう?

 その眼差しも、光に照り映える髪も、優しさに満ちた艶やかな声も。

 今ならはっきりとその全てを、この心の中で、色鮮やかに描き出せる。

 

 そう、あなたは――


「リゼ……!」


 瞬間、眼前に広がっていた世界が激しく歪み、虚像は泡沫の如くその姿を夢幻の彼方に閉ざしていった。後髪を引くほどの名残惜しさを、この胸の中に遺しながら。

 いつかあったかもしれない、優しさと慈愛に満ち溢れた暖かな世界。

 しかし私は、今この目に映る真実と、これまでの私から逃げない。


 ――今の私には、私のことを想ってくれている、大切な人たちが居る。

 ただそれだけで私は、どんな困難だって乗り越えられると、信じている。


 だからお母様、お兄様、さようなら。

 メルセデスはもう、行きます。

 またいつか、どこかで……。

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