第36話 ムフタール商会の男


「あれが宮殿なのね。遠くから見ても荘厳な雰囲気を放っているように感じられたけれど、こうして近くにまで来ると少し圧倒されてしまうほどだわ」


 王宮に達するべく、最初に非常に大きな楼門を潜ると、其処には一般にも開放されている広大な庭園があり、さらにその最奥には、白亜の光輝に照り映える、豪奢で壮大な宮殿が、極めて厳かな佇まいをこちらに見せていた。


「さて……ここから、どうしたものかしら」

「とりあえず、以前ザールシュテットでもそうしたように、宮殿前の衛兵に話を聞いて貰って、お目通りが叶うかどうか、直接確かめてみるしかないですかね」

「そうよね。ここも話が通じると助かるのだけれど、果たして……」



 ***



「残念だが、王陛下は現在、復活祭を前日に控え、ご準備で多忙を極められているため、謁見の約束が無い者を取り次ぐことは出来ない。また時機を改めて参られるが良い」

「……分かりました。それでは今日のところは、これで失礼いたします」

「はは……やはり駄目、でしたね、メル」

「まぁ、現実はそう簡単にはいかないものよ。ところでレイラ、あの衛兵が言っていた復活祭というのは、一体何のことなのかしら?」

「ああ、それはですね――」


 レイラによれば、ここマタール王国における『復活祭』とは、彼らが国民が崇拝している神が、神話上における最終戦争において他の神々によって謀殺された後、人々の祈りを受けて復活されたとされる日を祝う祭事のことで、その間は全ての殺生が原則的に禁じられ、さらに牢中の罪人にも一定の恩赦が与えられるという。


「なるほどね。それにしても……ん?」

「おや、これはお美しい瞳をしたお嬢さん方、あなたたちも王宮に御用がおありなのかな?」

「えっと、あなたは……?」


 声を掛けて来たのは、手首と足首までを上下一続きの長袖で覆った、白い衣装を身に纏う、口の周りに立派な髭を蓄えた、恰幅の良い中年風の男性。また、その頭にはターバンとはまた異なり、その頭上に黒い輪で留められた白い布が、頭部の全体を覆いながら、その残りが首の辺りにまで垂れている格好となっていた。


「あぁこれは失礼。私は、このアル・ラフィージャでムフタールという商会を取り仕切っている、サルマンという者ですよ」

「サルマンさん、ですか。私は、ここより遥か北方にあるアルデランドという国からやってきた……エミーリアと申します。実は訳あってこの王宮に――」


 未だロイゲンベルクの勢力圏外に出ることが叶っていない以上、うっかりその素性を漏らしてしまうことがないよう、自身の中で創り上げた設定を、一部の相手を除いて、その都度徹底して貫き通す必要がある。ほんの僅かな足跡が、いずれ自身の足元を掬う失火となる恐れは、常に私たちに付いて回っている。


 私とリゼは、ザールシュテットで名乗った時と同様、エミーリアとルイーゼとそれぞれ名乗り、レイラは現地の人だと悟られぬように、故国ロイゲンベルクの周辺諸国一帯では至極ありふれた女性名――ローザと名乗らせることにした。


「ふむ。エミーリアさん、あなたたちの事情は分かりました。大水蛇ヒュドラのことは本当に災難でしたね。私でよければ王陛下への拝謁を皆さんが賜れるように、お口添えをすることも可能ですが……」

「それは本当ですか? サルマンさん」

「はい。ただ一つ、こちらのお願い事を聞いて頂ければ」

「お願い、ですか? それは一体どんなことでしょう?」

「明日、復活祭があることはもうご存知だと思いますが、その中にある催し物の一つに皆さんも出て頂きたいと思いまして。ここでの立ち話もなんですから、詳しくはどこか別の所で追ってお話しましょう。時に、本日のお宿はどちらですか?」

「それが、実はまだ宿を決めていないのです。どこかおすすめのところを紹介して頂ければ、大変ありがたいのですが……」

「それなら話は早いですな。ぜひ私の屋敷に招待させて頂きましょう」

「えっ……? サルマンさんのところにご招待を?」


 話に聞くところによると、サルマンは妻子持ちの身でありながら、現在は故あってその妻と別居中であり、自身の屋敷には、元々あった客人用の部屋も合わせて多くの空室を持て余しているということで、もし差し支えがなければ、私たち三人を其処へ招待したいとのことだった。


「それは大変ありがたいお話ですが……どうしましょう、ルイズ」

「……そうですね、私たちにとって、まだ慣れていない土地でもありますから、ここはサルマンさんのご厚意にあずかっても良いのではないでしょうか?」

「そちらのお嬢さんの仰る通りですよ。ここは商人の町、遠方からの観光客と見て、ふっかけられることも少なくはありませんからな」

「……ではサルマンさん、大変なご迷惑をお掛け致しますが、今回私たちは、そのお言葉に甘えさせていただこうかと……」

「ええ、ええ、ぜひどうぞ。三人ぐらいなら、お安い御用ですから」


 ――ほんの少しの間だけとはいえ、サルマンを一見したところ、とても人当たりが良さそうで、穏やかな人柄の男性だという印象がこちらに伝わってくる。


 リゼが一緒に居る以上、仮に火の粉が降りかかるようなことがあれば、それを振り払うだけの力を持っているつもりではいるものの、この薮を突いた先に一体何が飛び出てくるのかについては、私自身にもまだ見通すことは出来ない。


 何が起きても即対処が行えるよう、十二分に注意を払っておかなくては。

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