第35話 空は青く、波は高く
「何ですって……? 船が、出せない?」
「どうやら航路上に
「まさかここに来て図ったかのように、滅多に姿を現さない大水蛇が出るだなんて……全く、何てついていないのかしら」
「いえ、メル。むしろ私たちがその航路上に居る時に遭遇しなかっただけでも幸いであったと考えるべきです。もし水上でそんなものに襲われたら……」
「そう……ね。実際そうなれば、ばらばらになった船の残骸と共に、成す術もなく運河の藻屑となっていたかもしれないのだものね」
しかしああまでして
「とりあえず昼食にしましょうよ、メル。船に乗ってきてからもうずっと何も食べていないでしょう? 腹が減っては、考えられるものも考えられませんからね!」
「ふふ……分かったわ。そういえば、あちらの店から嗅いだことのない香りが漂って来るのだけれど、レイラ、これはこちらの郷土料理の香りなのかしら?」
「あぁ、これはカリーの香りですね。この地方では毎日のように食べられている、様々なスパイスを用いて作られた煮込み料理のことです。カリーと一口に言っても実際は色々な種類があるのですが、どれもおいしく頂いてもらえると思いますよ」
「なるほど、これがカリーの。名前だけは本を通して知っていたけれど、今までに食べたことはなかったからね。では、今日の昼食はここでとりましょうか」
店の前に来ると、香辛料の匂いがよりその濃さを増し、その店先では複数の男性が長い棒状の筒を咥えては、白い煙のようなものを口から黙々と吐き出していた。
「ん……? レイラ、あちらの男性方は揃って何をしているのかしら?」
「あれは
「へぇ、そうなの。やはり場所が変われば嗜好品もまた、別の趣きがあるものね」
***
「うん、このムルグマカニといったかしら……中々においしい料理だわ」
仄かにバターの風味が漂う、とてもまろやかな味わい。トマトを基調として、其処に私も知らない様々な香辛料がふんだんに織り交ぜられたソースには、鶏肉がたっぷりと漬け込まれていて、その柔らかで、舌を通せば一度に解けていくような繊維の内側から、沁み込んでいた深い滋味が口内にじわりと拡がっていくのが分かる。
「このサーグ・パニールという料理もとってもおいしいですよ! メルもこのローティというパンと一緒に食べてみてください」
「ん? どれどれ……あら本当、こちらもいけるわね」
しかしここで呑気に長々と舌鼓を打っているわけにはいかない。
水路が断たれた今、私たちが利用しようと思っている陸路――アシュ砂漠の公路がそのまま通行可能な状態なのかについても、あとでよく調べておく必要がある。
「ところで、レイラ。私たちは陸路を通じて南のフランベネルを目指そうと思っているのだけれど、そちら方面の公路というのは、何か特別な通行許可証などが無くても普通に利用出来るのかしら?」
「南は……王家の方々が先祖代々の御神体を祀っておられる霊廟が幾つもあるので、王宮に赴いて通行許可を貰う必要があると思います。私はよく古代遺構の近くで採掘を行っていましたが、そちら方面は禁足地として立ち入りを制限されていました」
「そうなの……これまた厄介なことね。かといって非正規の順路で砂漠を縦断しようものなら、すぐさま迷子になって一巻の終わりといったところかしらね、リゼ」
「はい。それに砂漠には流砂地帯もあると聞きますから、その道中に休息のための野営地が一定間隔で存在するという公路を利用されたほうが賢明だと思います。移動自体はもっぱら夜間や、まだ陽が弱い早朝の時間帯に限られると思いますが」
「ふむ……是非も無いわね。レイラ、私たちが王宮に赴いて王家の人間と謁見する機会を得ることというのは、この国ではどうなのかしら? やはり、難しい?」
「あっ……私はずっと下層区に居たので、その辺りの事情まではあまり明るくなくって……お力になれなくて申し訳ありません」
「いいのよレイラ、それは気にしないで頂戴。まぁその辺りも含めて一度、王宮の方に顔を出して見ましょうか。駄目で元々、上手くいかなければまたその時に別の手段を考えましょうよ」
――降って湧いた大水蛇に進路を阻まれ、あとはもう陸路を往くしかないと判ってからは、逆にどこか開き直れたようなところがある。一が駄目なら二を、二が駄目なら三を……とそんな風に考えている自分が、いつの間にか其処に立っていた。
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