第一話 番長五郎、現る(後編)

 飛び上がった大型猿のような怪人が、少女に向けて爪を伸ばす。少女は小さくなり、己の死を遠ざけようとしていた。

 謎めいた身体能力で正門を強行突破したバンカラ装束の新入生は、そのスピードのままホールの入口を駆け抜け、振り下ろされる爪の先に身を滑らせ、外套を脱ぎ、右の腕を掲げて受け止めた。


 ガッギイイイイイン!


 、猿怪人は飛び退いて間合いを取る。その隙に、バンカラ新入生は今一度、背後に居る梓に声を掛けた。

「今の内に、逃げてくれ」

「え? 貴方はどうするのよ」

 先程の絶叫、その時点で我に返っていた梓は、外套に向かって尋ねる。しかし。

「構わん。俺はコイツを倒せる。さあ、早く」

 バンカラ新入生の意志は固まっていた。


「……っ!」

 梓はその意志を悟ると、軽く舌打ちして人垣の方へ駆け出した。そしてバンカラ新入生はそれを守るように構えを取り、猿怪人へ、教師・先輩諸氏も含めた皆へと告げる為の名乗りを上げる。


「桜田門学院新入生・番長五郎つがいちょうごろう! 以後よろしくお願い申し上げます!」

 やや堅苦しい名乗りに、人々の間には一瞬、沈黙が走った。しかし。


「番長か!」

番長五郎ばんちょうごろうだな!」

「いいぞ、やっちまえ、番長!」

「番です!? ま……慣れとりますけど!」

 次の瞬間にはヤジが飛び、長五郎もツッコミを返して舞台は和やかになる。だが。


「ガアアアアアアアアオオーーーーーーーーーーーーーッ!」

『俺を無視するな』とでも言いたげに猿怪人が叫ぶ。そして、今度は飛ばず、平手で殴り掛かる。が。

「『芯通し』――」

 ガギィン!

 これもまた、有り得ない音を立てて右腕で防御された。


「ギャアアアアアアア!?」

 有り得ないと喚くように、猿怪人が上下に腕を振り下ろす。だが長五郎は怯まない。左右の腕で受け止める。それどころかガギンガギンと音が鳴るたび、ジリジリと間合いを詰めていた。


「ヌヴァアッ!?」

 気が付けば、猿怪人と長五郎の距離はほぼゼロであった。後一歩も歩けば顔と顔がぶつかる距離で、長五郎は膝を上げ、足を上げ――。

「『芯通し』。かーらーのー……前蹴り!」

 猿怪人の下腹部に、土足。つまり高下駄を履いたままで、強烈な前蹴りを叩き込んだ。


「っ……!」

 バタリ。

 急所を狙った、あまりにも慈悲のないの一撃に、猿怪人は膝から崩れ落ちた。その姿はやがて収縮し、体毛が消え。元々の人間へと戻っていった。ただし変化の際に消し飛んだのだろう。服はなく、一糸まとわぬ全裸であった。


「一丁上がり」

 前蹴りの足を下ろし、残心をしたままだった長五郎が、ようやく一声上げたその瞬間。新入生達は歓喜に沸いた。

 番長コールが天井の空いたホールの内外にこだまし、気の早い生徒達が教員の制止を振り切ってホールになだれ込む。このままでは入学式ではなく、パーティーでも始まってしまいそうな勢いだった。しかし。


「静粛に!」

 頭の帽子ヅラを整えながらも、必死に走って来た教頭の鳥居が。その流れを一声で断ち切った。それほどの気合が、その一声には籠もっていた。


「番長五郎君、と言ったね」

「はい」

 鳥居はそのまま、人垣を割って長五郎に近付いた。早くも取り巻き面をしようとしていた生徒達が、割り込もうとする。しかし長五郎が手で彼等を制し、それをやめさせた。


「私に付いて来るように」

「承知しました」

 鳥居が背を向ける。長五郎がそれに付いて歩き出す。

「それと、新入生に告ぐ。この件は他言無用。入学式は中止の上、明朝よりクラス発表等を行う。本日は教師の指示に従い、直ちに下校するように。以上!」

 去る直前に告げた、鳥居の一言。それが生徒達の気勢を完全に断ち切った。喧騒は静まり、鳥居と番はホールから去って行った。



 そして、あっという間に一週間が過ぎた。井伊梓は結局、入学式の事件を飲み込み切れていなかった。ニュートラルウィルスについて調べたり、事件について書き込まれたサイトがないか調べたり。日々の勉学、その合間を縫ってネットの海を駆け巡った。

 しかし、それだけ手を尽くしても収穫はほとんどなかった。分かったことはたった二つ。例の怪物化はやはりニュートラルウィルスの急性症状であったこと。ここ数ヶ月の間、桜田門学院の周辺で不審な事件がいくつか発生していること。それだけであった。この情報化時代にはあるまじきレベルの箝口令である。なにしろ噂のうの字すら、見つけるのに手間取ったのだ。


「一体どういう箝口令なのよ。あのヅ……違う違う。教頭先生」

 ボブカットの髪を春風になびかせて。梓は呟き、歩く。あの日ズタズタにされたブレザーの代わりに、中学時代のセーラー服を着用していた。

 こういう時、服装自由というのはありがたい。そもそもああいう事態が稀ではあるのだけど。なお、胸周りが苦しいのは必要経費としてとっておく。無駄に男性陣思春期真っ盛りのサル共の視線を集めてしまうよりはマシだからだ。


 男性陣という言葉で、梓は思い出す。そういえば、彼女を助けた男も。入学式以来姿を見かけていない。

 入学式早々の大立ち回りは圧巻だったが、やはり暴力案件となったのだろう。彼は教頭に連れられてから、一度も学校に姿を見せていなかった。

 クラスメイト達も大半が停学か退学だと考えていた。もし退学なら二度と現れないし、仮に停学なら一週間が過ぎた今日辺りに、そろそろ現れるだろう。もっとも、梓達の学年は十クラスもある。同じクラスになる確率は、かなり低い。


 よし、気にしない。そう気持ちを切り替え、道行く生徒達の列に合流しに行く梓。しかし、彼女は思考に没頭していたが故に気付かなかった。

 少し目を外に向ければ、番長五郎はそこに居たのだ。一週間前と同じように、外套に学帽、擦り切れた学ランの上下。腰に手ぬぐいをぶら下げ、高下駄も履いて。


 そして、その迂闊が原因で。自分のクラスへやって来た彼を相手に、もう一度絶叫するはめになってしまうのだった。

「なにこれぇ!」

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