彼岸の境界

ごんべえ

彼岸の境界

 最近、僕はあまり読まなかった新聞を購入するようになった。

 別に社会の動きに関心がでてきたとかそういったことではなく、僕の目当てはお悔やみ欄だった。

 ここに彼女の名前がないかを確認するのが僕の最近の日課だった。

 そして、とうとう見つけてしまった。

 彼女の名前を。

 葬儀の日時と場所を確認する。

 お通夜が今日で葬儀は明日。

 僕はクローゼットにしまってあった礼服を取り出し、いつでも着られる状態にしておいた。

 香典袋は昔買ったものを流用し、なかに三千円ほど包んでおく。

 これで、することがなくなってしまった。

 お気に入りのソファに座る。

 仕事を辞めてしまってから特にやるべきことのない僕はそのまま微睡みに沈んでいった。


☆ ☆ ☆


 彼女に会ったのはあれが最初で最後だったけれど、あの娘と交わしたやり取りは未だに強烈に僕の心に焼き付いている。

 その日は海を見たくなって夜中だというのに、高台へ車を走らせた。

 そこは、近くに廃墟と化した病院――ホスピスだったらしい――が建っていて気味悪がって誰も近づかなかったけれど、そのおかげで満点の星空と壮大な海の景色を落ち着いて一望することができた。

 海はいい。

 生命の根源であると同時に死の象徴のようにも思える。

 みんな、あそこから来て、そして、海へと帰るのだ。

 人は死ぬと星になる、と人は言うがあんなのはナンセンスだ。

 死人は人を見守らない。

 死人は人を導かない。

 ただ、沈黙と虚無に沈むだけだ。

 そんなことを考えているうちに目的の場所へ到着した。

 車から降りると気持ちのいい風が僕を出迎えてくれる。

 それに混じった潮の香りが僕の気分を落ち着けてくれた。

 星空と海を眺める。

 何処までも広がっている闇。

 吸い込まれてしまいそうになる。


「ねえ、どうして、人は幽霊を恐れるのだと思う?」

 

 突如として声を掛けられた。

 闇夜に響く心地よいソプラノ。

 そちらを見やると白いワンピース姿の腰まで黒い艶のある髪を伸ばした少女が佇んでいた。

 ふとした瞬間に吹く風に髪が靡いて美しく見えた。

 僕は彼女の問い掛けに答えることにした。

「そりゃあ、死を否定する存在だから、だよ」

 彼女は訝しげな表情で死を否定? と僕の言葉を反復した。

 僕はその先を続けるべく口を開く。

「だから、さ、死っていう概念は元来究極的な虚無を指すものだろう? だけど、幽霊って言う奴はそれをその存在で否定しているんだよ。終わりが終わりじゃない。続きがある。それって凄く怖くないか? 僕は怖いね。多分、いや、絶対に耐えられない。だから、幽霊は怖いんだよ。死という終わりを否定して、生者にその先があると、お前もこうなるんだと告げる存在だから」

 彼女はへえ、と呟き、

「じゃあさ、死は? 死ぬのは怖くない?」

 目を輝かせて僕にそう訊いてくる。

 正直、うきうきとしながらする話ではないような気がするけれど、いいだろう。

 僕は彼女にとことん付き合うことにした。

「生存本能に刻まれた恐怖はあるけれど、それがなければ怖くない、かな? むしろ、人に依っては唯一の救いたり得ると思う」

 その心は? と彼女は問う。

「だって、この世の中って地獄だろ。訳の分からないことや頭のおかしいヤツがいっぱいで皆が苦しんでそれでもこの世界にしがみつかなきゃならないと思い込んでいる。

 まるで、それが絶対的に正しいことのように。

 僕は怖いよ。

 この世界が怖い。

 なにより、この世界を構築している人間というヤツが心底怖い。

 それから、逃れる唯一の手段が死ならそれは救済だろう」

 僕の自分からしてみてもどうしようもない主張――いや、だって世の中がそれ以上にどうしようもないのだから、しかたがないと思うけれど――に彼女はふふふ、と笑い、

「そんな思想でよく今まで生きてこれたわね。すごく生き辛かったでしょうに」

 と少しだけ僕を哀れむような表情を見せ、

「自分でその約束された救済を掴もうとしたことは?」

「何度か。まあ、二回だけなんだけど」

 僕は即答した。

「一回目は家にあった昔の酸性のトイレ用洗剤と近所のスーパーで買った塩素系のトイレ用洗剤をそれまた近所の公園の便所で混ぜて、ね。

 クソみたいな人生だったんだから最期は便所がお似合いだと思ってね。

 だけど、失敗した。

 最近の洗剤はそういうことを見越して硫化水素が発生しないように作られてるみたいでね。

 昔の洗剤を使っていたら、きっと結果は違ったんだろうけれど。

 二回目は犬のリードを買って首を吊ってみることにした。

 ほら、ロープだと輪を作って木に縛って解けないようにするのにちょっとした技術がいるけど、犬のリードなら簡単に首を括れる。

 だけど、それも失敗。

 選んだ木の枝が折れちゃってね。

 なるべく、太いヤツを選んだつもりだったんだけど、ボキって。

 結局、右足を捻挫して終わり。

 それからは、アホらしくなってやってない」

 僕はそこまで一気に喋るとそばに停めた車から缶コーヒーを二本取り出し一本を彼女に勧めたが首を振って断られたので、一人でティータイムと洒落込むことにした。

 彼女は顔にかかった髪を整えると、

「難儀な人生を送っているわね」

 はにかみながら言った。

 そいつはどうも、と僕は気のない返事をして缶コーヒーを飲み干した。

「ところで、私が不治の病に冒されていて、余命幾許もないって言ったら貴方はどう思う?」

 僕は、僕の正直な気持ちを伝えることにした。

「とても、羨ましいと思う」

 あれだけのことを話しておいて、最早、取り繕う必要性を感じなかったから。

 彼女は微笑み、

「貴方ならそう言うと思った」

 そう言う声音は心なしか優しく響いた。

「ところで、幽霊の存在を信じる?」

「信じないよ。信じたくない」

 僕は即答した。

「だって、それじゃあ、僕達はどうやったって救われないじゃないか」


★ ★ ★


 スマートフォンのアラームが僕を夢の世界から現実へと引き戻した。

 その日、彼女とは色んなことについて話し合った。

 世の中の不条理や好きな小説家やバンドのことまで。

 そして、気が付くと空は、まったくの暗闇から徐々に蒼く染まってきた。

 新しい朝が始まったのだ。

「もう、帰らなきゃ」

 彼女はそう言って行こうとする。

「送っていこうか?」

 僕の申し出を彼女は微笑みながら断ると、

「ねえ、私もうすぐ死ぬの。だから、毎朝新聞読んでね。きっと、お悔やみ欄に私の名前が載ってるから。お葬式でまた逢いましょう」

 彼女は自らの名を名乗ると一人蒼い闇の中に消えていった。

 それから彼女とは再会の機会もなく、とうとうこの日を迎えてしまったというわけだ。

 そろそろ時間だったので、シャワーを浴び礼服に着替え住処を後にする。

 二階建てのボロアパート。

 家賃は月三万円に月極駐車場代が月一万円の計四万円。

 仕事を辞めてしまってから収入は失業保険のみなので、それが打ち切られれば僕はこの部屋からおさらばするつもりだった。

 割とそのときは近いかもしれない。

 今回は車は使わずにタクシーを使う。

 少し歩いて大通りに出るとそこら辺にタクシーが路肩に止まっているので、その中から適当に選んで乗り込み目的地を告げる。

 運転手は特に返事をすることなくゆっくりと車を発信させた。


☆ ☆ ☆


 祭場に付くと受付に香典袋を差し出し、自分の名前を書いて入場した。

 場内は長机が幾つか設置されていて、その上にオードブルのセットやビール瓶が置かれていたが、誰もそれを口に運ぶことはなかった。オルゴールのBGMに何人かのひそひそと話す声が微かに聞こえてくる程度で静寂に包まれていた。

 僕は彼女の棺の前に立つと焼香をしてただ彼女のためだけに祈った。

 そうしているとズボンの腰のあたりを何者かに引っ張られた。

 そのあたりに視線を向けると制服姿の小学生と思しき女の子が立っていた。

 僕に何かを差し出している。

「お姉ちゃんがね、渡して欲しいって」

 それだけ言うとさらに僕にそれを押しつけてきたので受け取ると足早にどこかへと走り去って行った。

 なんだ? これ。

 絵馬のように見える。

 まじまじと見つめるとやっと得心がいった。

 そうか、これは――

 僕はそのまま会場を後にした。


★ ★ ★


 それから、一夜明けて彼女の葬式の当日と相成った。

 だが、僕は彼女の葬式までは参加する気はなかった。

 そんなことより、やることができた。

 いつの日か彼女と出会った場所まで出掛けるべく、僕は昼間から車を走らせた。

 程なく目的地へと到着。

 僕は昨日女の子から貰った絵馬を片手に車を降りた。

 ああ、素晴らしい潮の匂い。

 

「行ってくれたんだ。私のお通夜。折角だからお葬式も行ってくれたらよかったのに」


 僕はいつかのように声がした方へと視線を向ける。

 そこに、彼女が佇んでいた。あの時と同じ服装に変わらない微笑を浮かべて。

 そんな彼女に僕は肩をすくめて、

「こんなものを僕に寄越しておいてよくそんなことを言うもんだね。その図太さ、感心するよ」

 彼女の方へ歩き目の前に立ち止まると例の絵馬を差し出した。ついでに僕史上最高の笑顔もプレゼント。うまくいったかはわからないけれど。

 彼女は受け取った絵馬を見ると花のような笑みを浮かべた。

 その絵馬には彼女と思しき女の子の絵と僕の写真が貼られていた。

 ……僕に絵心があれば自分の絵を描いたのだけれど、僕のそれは壊滅的だったので、姑息な手段を用いることにした。

「昔テレビで見たことがあったんだ。死後婚、ていう風習がどこかの地方であって、こうして絵馬に死んだ男女の絵を描いておくとあの世で結ばれる、っていう。

 で、片方に生きてる人間を書くとそいつは死んでしまうってオチだったかな」

「じゃあ、自分がどうなるか、覚悟はできてるって訳ね」

 僕は頷いて答えるに留めた。

 そう、とだけ彼女は呟くと、

「じゃあ、行きましょうか。旦那様」

 怖気が走る程の美しい声音でそう言った。


☆ ☆ ☆

 

「なんだか、オチとしては締まんないよなぁ」

 あの海の写真を眺めながら僕は呟く。

 あら、そう悪いものでもないと思うけれど? と僕の独り言に彼女の声が答える。

 その場に彼女の姿はない。

 どうやら、僕に取り憑いているときには、彼女の姿を知覚することはできないそうだ。

 あの後、結局僕は死ぬことなく自らのアパートへと帰ってきた。

 つまり、迷信だったのだ。

 いや、まるっきり迷信だというわけではなく、僕と彼女は憑依的な意味で結ばれた訳だけれど。

「まあ、別にいいけど。生を受けている以上、僕はいつか死んでしまう。病死か、事故死か、誰かに殺されるか、あるいは天寿を全うするか。――つまり、僕はすでに死んでいる、ということもできる訳だ」

 まあ、大概な暴論ね、と彼女がクスクスと笑う。

 ねえ――

「なんだい?」

 ――まだ、幽霊は怖い?

「わかんないよ。けど、君を見ているとそんなに悪いものでもないかもね」

 ――そう。じゃあ、生は? まだ、生は怖い?

 僕は沈黙で答えた。

 そう、じゃあ、私が憑いていなくちゃね――

 彼女の声音が優しく響いた。

 


 

 

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