二話
――聞こえてくるのは獣の叫び、見なくても感じる邪悪な気配。
重々しい足音が幾つにも重なって響き、枝をへし折り葉をかきわけて姿を現す。
人と同じ四肢を持ちながら明らかに違う異形種……それはゴブリン、オーク、オーガなどの恐るべき魔物たち。
邪神の祝福と加護を受けた忌まわしき魔界の住人である。
濁った双眼と不潔な姿には生き物としての知性は無く、こぶだらけの醜い体と手に持つ武器には赤黒い粘液と腐臭がこびりついていた。
村の男たちから押し殺した悲鳴があがる。
それも仕方ない、並みの神経であれば絶望を抱く光景だろう。
森から出てきた魔物の数は目視しただけでも二百体以上はいたのだから。
そんな魔物たちに対して立ち向かうのはダークエルフの女がただ一人。
悪魔の軍勢を前にして手に持つのは、ねじくれた細い木の弓が一本のみ。
裸体に近い姿は、常人からすれば生贄として身をささげる乙女以外の何者でもなかった。
アルテを期待と情欲の目で見ていた男たちの視線は、疑念と深い失望に徐々に変っていく。
村の近くで悪魔の目が発見されたときにはすでに手遅れで、魔物が湧き出し徘徊していた。
人の通りもない辺境の村では領主に伝え兵をだしてもらうにも時間がかかる。
村を捨て魔物たちから逃げながら険しい山中を抜けるにしても、女子供や老人といった体力のない者が多すぎた。
動けぬ者を見捨てて犠牲にするか、それとも残って兵が来るまで全滅を覚悟しても戦うか……無情な決断を迫られ悲嘆にくれる彼らの前に現れたのがアルテたちであった。
村人にとってまさしく地獄に仏だったのだ。
百年周期で出現する魔王軍との戦いを三度経験し、そのすべてにおいて高い武勲をあげた英雄。
数々の逸話と伝説を打ち立てた月弓のアルテの名声は、辺境の村でもお伽話として語られるほど有名であった。
だが実際には、その英雄は殺戮に特化した強大な魔物の群に比べてあまりに小さくて頼りなく、まともな戦いになるとは彼らには到底思えなかったのだ。
ウオオオオオオオオオォォォォォォォ!!
魔物たちの殺戮を告げる歓喜の雄叫びは、戦いの始まりを告げる合図でもあった。
走る先兵は百を超える
耳障りな嗤い声をあげながら村に迫ってくる。
森と村の間は遮蔽物のない平地ゆえに、ゴブリンたちの移動速度はましらの如く速い。
錆びついた剣や斧をかかげ、目を血走らせ涎をこぼして突進してくるおぞましい小鬼たち。
黒々とした穢れた波に飲み込まれれば重装備の騎士だろうと一溜まりもないだろう。
「お師匠さま……」
師の強さが分かっていても、その絶望的といえる光景にマオは息をのんでしまう。
しかし一刀も耐えられそうにない身のアルテに焦る様子はなく、矢をつがえないままの弓を水平に構えると、調子を確かめるように弦をスイッと引いた。
するとどうだろう、リーンッという涼やかな音色と共に光輝く矢が生じた。
アルテの表情が獲物を射る目になると、引いた弓の弦を静かに離した。
放たれた矢は風を切って、放物線も描かずに真っ直ぐに突き進むと、ゴブリンたちの近くで異変を起こす。
――ブンっ
なんと、光の矢が何重にもぶれて分裂したのだ。
十数本にもなった矢はゴブリンたちの進路を塞ぐように降り注ぎ、突き刺さって矮小な体を地面に深く縫いつけていく。
恐るべきことにアルテは、たった一射で複数匹の小鬼を仕留めた。
『ギャ、ギャアアアアアアァァァ!?』
知恵足りぬ身では不可思議な現象が理解できないのか、ゴブリンたちは怒りと戸惑いの入り混じった雄叫びをあげ、仲間を殺したアルテの元へと殺到した。
月弓の手は止まらない。
切れ長の目を細めるとハーブの演奏でもするかのように弦を引き、近づこうとするゴブリンたちを一歩も動かずに次々と射止めていく。
『ギャ⁉ ギャ⁉ ギャアアアアアアァァァ!!』
狩られるゴブリンの悲鳴があがる。
逆に、村の男たちからは歓声があがった。
そしてマオは今まで何度も同じようなことがあったのに、やはり今回も見惚れてしまう。
アルテの弓の撃ち方はひどく緩やかなのに恐るべき速射で、極限までに無駄を省いた正確無二の美しさがあったからだ。
「ゴ、ゴブリンがきたぞぉ!!」
村人たちの動揺の声にマオはハッと我に返った。
アルテの雨のような矢の攻撃を潜り抜け……あるいは必死に逃げてきたゴブリンたちが次々と村の中に侵入してきていた。
生き残りは三十ほど……修行によって鍛えられたマオの目はすぐに把握する。
アルテがかなりの数を減らしてくれていた。
「落ち着いて! 罠を利用してください!!」
マオは叫び、屋根の上から膝立ち姿勢で流れるように弓を構える。
そして一呼吸で矢を放ってゴブリンを地に転がした。
その年にしてはかなりの腕前だが、アルテの神業のあとでは見劣りする。
しかし自分たちより年下の子供といえるマオの活躍に勇気づけられ、男たちはそれぞれ槍を強く握りしめて覚悟を決めた表情でうなずきあった。
「よ、よし、俺たちもやるぞ!!」
「ああ、負けちゃいられないぜ!!」
「おい、あっちの罠に引っかかっているぞ!!」
『ギャ、ギャ、ギャアァ!?』
彼らは落とし穴にかかったゴブリンに駆け寄ると上から力任せに何度も槍で突いた。
建物の間で響く叫びと雄叫び。
血生臭い匂いが風に乗って辺りに広がる。
村のあちこちで男たちとゴブリンの戦いが始まった。
マオは罠を抜けてくるゴブリンに屋根上から弓を撃ち、仕掛け罠にかかったゴブリンの位置を逐一、男たちに知らせた。
師が誘導して村の中に小鬼を入れたので地の利は十分こちらにある戦場だ。
しばらくすると動くゴブリンの姿が見えなくなり、その場には槍をもった村人だけが残った。
深い安堵の声がもれて何人かは地面にへたり込む。
流石に全員が無傷というわけにはいかないが、深い傷を負っている者はいないようだ。
マオは屋根の上で立ちあがると遠くで戦っているアルテの姿を探した。
心配はしていたが不安はなかった。
彼女は健在で予定通り
目に見えてわかる乱戦である。
本来、距離の取れない戦いは弓使いとしては不利なはずだが、疲れも知らずに走るアルテからは苦戦をしている様子はまったく見られなかった。
繁殖のために健康で丈夫な牝を望むオークと、自らの闘争心を満足させる強者を望むオーガは、誘蛾灯に誘われる虫のように強く美しい女に惹き寄せられる。
そんな醜い魔物たちのおぞましい求婚をかわして疾走するアルテ。
穢れた獣欲の声は美姫の心には一欠けらも響かず無縁のものであった。
振り下ろされるオークの棍棒を片手で受けて流し、鞭のような蹴りで太い首をへし折った。
背後から大剣を持って迫るオーガには矢筒から抜いた矢を素手で投げ、筋肉に包まれた厚い胸板を心臓ごと背骨まで打ち貫く。
繰り出される攻撃を柔軟に仰け反って避けると片腕をバネにしての後方宙返り、そのついでとばかりに天地逆さまで矢を放って命中させる。
魔物の体すらも足場にして高く飛びあがって、空中から矢を乱れ撃ち一方的に殲滅していく。
そのアルテの強さに魔物たちは驚愕し、そして怒りの雄叫びをあげなおも襲いかかる。
血霧を引き連れ、妖艶に微笑みながら、華麗に舞い続ける月弓のアルテ。
まさに伝説の通り、求婚する男達を無下にし続けた傲慢で無慈悲な月の女神の化身である。
彼女が複雑なステップを踏み、細く美しい指が弦を一つ引くたびに、魔物の命が失われ亡骸がまた一つ生まれる。
「…………」
アルテの優雅な立ち回りに、マオはただ溜息をつくしかない。
まずあるのは彼女に対しての深い称賛の心。
次に思うのは、追いつき肩を並べて戦えるようになるには、いったいどれほどの時間が必要なのだろうという暗い気持ち。
しかし前向きなマオはすぐに考えを切り替え、師の動きから学ぶために目を凝らした。
するといかなる神の采配かマオの赤い瞳に映ったのは、ゆるやかに側宙開脚しながら弓を引く逆さのアルテの姿であった。
鷹並みの目をもつマオは遠距離でも細部を――アルテの関節の
軽やかな身のこなしとは真逆に重量感をもって揺れる豊かな乳房と臀部、そして大きく開かれた太ももと女の柔肉に食い込む極少の鎧パンツ。
マオ少年は「うっ」と呻いて膝をつきその場でしゃがみ込んだ。
顔をリンゴのように赤く染める純情な少年の葛藤をよそに、月の女神は死の舞いを踊り続け魔物たちを永遠の眠りへといざなっていく。
魔物の雄叫びはやがて絶叫へと変わり、狭い平地に死屍累々とした屍の山が築かれる。
戦いの興奮からさめ、逃げだし始めた魔物たちも月弓は容赦なく狩りとっていく。
最後に残った魔物の額を殺戮の化身と化したアルテは射抜いた。
そして舞うように手を広げると、緩やかにその身を回転させて低い姿勢で残心する。
アルテは踊りの幕引きを知らせるかのように静かに弓を大地へと下ろした。
彼女の周りで動くものは存在しない、それこそ月に広がる静寂の大地のように。
アルテの戦う姿に引き込まれ半ば見惚れていた男たちは、終焉を告げる彼女の様子に顔を見合わせ、やがて手を取り合い飛び跳ねながら大きな歓声をあげだした。
屋根からなんとか地面に降りたマオも近くにいた男に笑いながら背中を叩かれ、前かがみのまま引きつった笑顔を返したのだ。
すぐあとにアルテとマオは村人の案内で悪魔の目の元まで行き粉々に破壊した。
それから周辺を探索したが魔物が残っているような形跡はなく、辺境の村での戦いは一人も犠牲者を出さずに終わりを迎えたのである。
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