辺境の村

一話

 その村の状況を一言でいうのならば『運が悪くて良かった』だろうか?


 辺境の小さな村は魔物の襲来に備えて早朝から緊張に包まれていた。

 罠を設置するために狭い土地を走り回っていたマオ少年は、村はずれの柵の外に人の影があることに気づいて足を止めた。

 村人ならば注意する必要があるし、魔物ならばすぐにでも知らせる必要がある。

 微かな緊張に喉が鳴る……しかし音を立てぬように近づくと、それが誰かはすぐに分かり、マオは息を吐きながら構えていた弓を背中に戻した。

 その人は世の些事など知らぬとばかりに空を飛ぶ鳥をのんびりと眺めていた。


「なんだ、お師匠さまかぁ……」


 それは少年の育て親で武術の師でもあるダークエルフのアルテであった。


 気が抜けたマオは彼女の姿をこっそりと、まるで観察するかのように見つめた。

 アルテは女性にしては背が高いほうだ。

 しかし武骨な印象はなく、弓を持ってたたずむ姿は美麗である。

 新緑の風に流れるままの白銀色の髪は淡く光り、まるで月明かりのようだ。

 丸みを帯びた体は女としての弱さとたおやかさを十分に持っているというのに、同時にしなやかに地を駆ける獣の力強さも兼ね備えていた。


 褐色の肌と笹のような長い耳は、月の女神の加護受けた種族の証。


 いつもは着けているマントは外しており、アルテの肢体は眩しさを増していく日の光の中で艶やかに輝いていた。

 長く整った手足をおおうのは竜の皮で作られた丈夫な丈長のブーツとグローブ。

 胸と股間だけを隠す鎧は種族の戦装束であり『如何なる者も我らに触れること叶わず』という傲慢で誇り高いダークエルフたちの自信の現れだと言われている。

 アルテと長くいるマオだが彼女以外のダークエルフを知らない。

 だけど、アルテが深い怪我を負う姿など今まで一度も見たことがなく、彼女の肌に触れるのは至難の業だということはよく理解していた。


「…………」


 それはそれとして異性を意識するようになった近頃のマオとしては、育ての親とはいえ匂い立つような肉体を窮屈に締めつける鎧は目の毒であり、また扇情的な姿を無防備にさらけだす彼女に対して複雑な心境にもなるのだ。

 師のことを見る男たちのだらしなく緩んだ表情を見れば間違った認識ではないとは思うのだが、そんな者たちを不快に感じるのもマオの立場と潔癖な年頃としては致し方のないことだろう。

 

 背をむける彼女にマオは静かに歩み寄る。


 落ち葉を踏みしめる湿った音が微かに鳴った。

 矢筒を背負うアルテの褐色の体――ほっそりとしているのに女性らしく程よい肉のついた腰回りと、大きいが引き締まったお尻が目に入る。

 鎧パンツの後ろは紐形状で、高い尻肉が作りだす深い谷に食い込んでいるので裸に近い。

 むしろ裸よりも惹きつけられるモノがあり、赤子のときからアルテと一緒にいて、何度も彼女の裸体を見ているマオとはいえ思わず見入ってしまうことがあるのだ。


「マオ……ですか?」

「ひゃ、ひゃい! そ、そうですお師匠さま!」

「ふふ、どうしたのですか、そんなに驚いて」


 マオが動揺を収める間もなく、アルテがゆったりとした動きで振り返った。

 朝日の光を背に受ける、いつにないアルテの美しさにマオは息をのんだ。

 彼女の涼しげな双眼は透き通る氷の蒼で、夜の精霊もかくやという神秘的な顔立ちと湖畔を思わせる静かな雰囲気は、語彙の豊富ではないマオにはやはり美しい以外の言葉が思い浮かばない。

 少年の赤い瞳に映るアルテは三百を超える年を生きているというが、その容姿は自分より少しだけ上の二十よりは下の少女のものに見えた。


 目線が丁度当たる位置――緩やかに揺れる豊かな胸と谷間に半分ほど埋まった楕円形状の首飾りに、マオの視線は吸い寄せられてしまう。

 男ならば誰もが触れてみたい思う魅惑的な大きさと艶をもった双丘である。

 マオの記憶には全く無いが、赤子のときには彼女の乳房を要求し、おしゃぶり代わりに何度も口に含んだことがあるらしい。

 そのように年頃の少年にとっては羞恥でしかない数々の過去を、意外と空気の読めない綺麗な養母アルテは、にこにこしながら嬉しそうに語ることがあるのだ。


「マオ? ぼんやりとしていますが、具合でも悪いのですか?」

「へ……えっ⁉」


 ほんのりとした甘い香りがマオの鼻をくすぐる。

 音もなく、いつの間にか近くに来ていたアルテが少年の黒髪をかきあげ、自らの額を当て熱をはかろうとしていたのだ。

 鼻先の距離にある心配そうなアルテの褐色肌の顔に、マオの心臓は一瞬で跳ねあがり慌てて距離をとった。


「だ、大丈夫です、お師匠さま! それと、罠は全部仕掛け終わりました!」

「……そうですか、ご苦労さまです、マオ」

 

 ダークエルフの美女は手を合わせ、にっこりと穏やかな微笑みを浮かべた。

 少年は頬を染めてうつむく。

 体を離す際に偶然つかんでしまったアルテの柔らく芯のある胸の感触と、それをまったく気にしない彼女の態度に子供扱いされた恥ずかしさがあったからだ。

 そして、どうして自分は、赤子の頃のことを覚えていないのだろうと痛恨の思いが湧きあがる。

 再びアルテの顔をうかがうと、彼女はマオに美しい横顔を見せ、その視線は険しく村外の森の方に向いていた。


「お師匠さま?」

「……どうやら来たようですね」


 アルテが呟いたすぐ後に梯子を組んだだけの物見やぐらから、カーンカーンッと鐘を打ち鳴らす音が辺りに響いた。

 村に近づく魔物たちを村人が発見したのだ。

 途端に村中が騒がしくなり甲高い声と怒声が飛び交った。

 女子供老人といった村人たちが避難所と定めた頑丈な倉庫の中に大慌てで入っていく。


 近くに魔物を魔界から生み出すゲート――悪魔の目が出現していたことはすでに判明しており、たった数日とはいえ備えをする時間は十分にあった。


 二十人ほどの村の男たちが木の棒の先にナイフを取り付けた即席の槍を持って、慌ただしく村の入り口に集まって来た。

 彼らの表情はみな一様に不安げで、これから始まる戦いへの恐れが見て取れた。

 村に誘い込んだ相手への罠を利用した防衛戦である。

 主な敵戦力はアルテたちが引き受ける。

 そのように有利に進められる戦いだが、大地を耕すことを生業とする者たちにとっては慣れぬ命のやりとりだ。

 まして魔物に敗北すれば、村人は女子供までもが残酷な方法で虐殺されるのだから平常心ではいられないのだろう。


「お師匠さま……」

「ふふ、問題ありませんよ、今回もいつも通りです」


 村人が戦力になるのか微かな不安を覚えるマオに、アルテは微笑みをもって大丈夫と伝える。


「それではマオ、あなたに風精霊の幸運を」

「は、はい! お師匠さまもご武運を!!」


 短い会話のあと、アルテはマオを抱擁すると少年の黒髪に軽く口づけをする。

 二人にとって戦いとは日常茶飯事なので村人たちのような怯えによる動揺はない。

 ただ、アルテの柔らかくて良い匂いのする胸の谷間に顔を挟まれた少年は、恐怖とは違う意味で動揺し真っ赤になっていたが。

 そのようないつものやり取りをして師弟は別れる。

 マオは射撃ポイントとして確保していた建物の屋根に急いで登ると、村の外に歩いていく師の後ろ姿をじっと見送ったのだ。

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