第2話
ラウラとハインツとの昼食は楽しいひと時だったといえるだろう。嘘偽りのなく、そう思える。
だが気の張る時間でもあった。会話を不自然にしない必要があったとはいえ、ありもしない流通ルートをあると宣言したのは失敗だった。そのせいで、ラウラの目が『闇市』へと向いてしまった。
とはいえ、オズ本人が闇市へ出張ることはないため、心配のし過ぎかもしれない。
今日最後の講義が終わり、オズが歴史書の入った鞄を手に持って立つと、いつものようにラウラがこちらへとやって来た。
「オズ、一緒に帰りましょ」
「悪いな、ラウラ。今日は途中でパン屋に寄るから無理だ」
「パン屋? パン屋ってあそこ?」
あそこ、とは学園の裏門から抜けた石畳の道の先にある、今年で営業七周年を迎える『アービスベーカリー』のことだ。外観は学園裏の石畳の道と並木に調和した石造りの家で、どことなく落ち着いた雰囲気を醸している。パンの種類は八種類ほどと少ないが、味は良いために帰りに寄っていく学生は多い。
「父が結構あそこのパン好きでね。今日の朝買ってくるように頼まれたんだ」
「へえ、貴方の御父様が? ふぅん。ねえオズ、近いから私もついていくわ」
「……一人で帰らせてくれないか?」
「え? 別にいいじゃない」
「…………わかった」
どうやら何が何でも一緒に帰りたいらしい。そこにどういった意図があるのか。
――昼食の時のことを警戒しているのか?
もし伯爵家の嫡男であるオズが『闇市』に手を染めていて、それが表沙汰になるようなことがあれば、王国議会は紛糾する。王侯貴族は国民からの非難を避けるために、レイヴンズ家を降格処分することになるだろう。
しかし、そんな温い処分では民衆は納得しないはずだ。中には貴族を引き摺り下ろして成り上がろうとする、でかい『平民』が、「取り潰せ」、という過激な声を上げるだろう。そしてその過激な声は必ず蛮行へと昇華し、拡大する。
『平民風情が』
『貴族の横暴を許すな』
『野蛮人は王国民ではない』
『上から引き摺り下ろせ』
誰かが言ってしまうだけで、長い時間をかけて築いてきた、貴族と民の友好関係に亀裂が入る。
(……俺が闇市に行くとでも思っているのか? それとも、本当にただ単に一緒に帰ることが目的なのか?)
裏門を抜け、木漏れ日が差し込む石畳の道を二人並んで進む。
オズがこの後闇市に行く予定はない。だから堂々としていても問題はないのだが、彼には稼いだ銭を
ラウラがいてはそれが実行できない。しかし無理に同行を断って、余計に目を付けられるわけにもいかない。
――仕方ない、今日は大人しく帰るか。
結局、オズの出した結論は安全優先だった。
「あ、いい匂いね」
鼻をすんすんと鳴らしてラウラが言った。
たしかに、焼き立てのパンの芳醇で香ばしい匂いがしてきた。
下げていた視線を前へ向ければ、そこには石畳から生えてきたような家があった。『アービスベーカリー』だ。
オズたちは前方に突き出た玄関から店内へと入っていく。
入り口近くの丸テーブルには既に学生が数人座っている。この席は相変わらず人気のようだ。
店内を進んでいくと、パンが積まれたバスケットが八個、カウンター前で綺麗に横に整列していた。
「ラウラも何か買うか? 一つくらいだったら奢るよ」
「ほんと? でも、あれだけ荒稼ぎしておいて、たったの一つだけ?」
「不満か?」
「ふふっ。冗談よ、ありがたく頂くわ」
「何がいい?」
「じゃあ……この香草入りのパン」
「わかった。すみません――」
オズは店主にチーズを挟んだパン、バケットなど七種類のパン全てを五つずつ、香草を練り込んだパンを六つ、ジャムの入った瓶を三つ注文した。
「ええっ、そんなに買うの?」
「ああ、屋敷の者たちにも分けようと思って」
「へぇ……。随分とお優しいのね」
「……おだてても奢るのは一つだけだからな」
「ちぇー、けち……」
ラウラはむくれて、少し甘えた声で抗議する。
「お買い上げありがとうございます、オズワルド・レイヴンズ様。お会計、一一〇〇クローナになります」
オズは皮のポーチを取り出すと、親指の爪ほどの小さな金貨一枚――千クローナと銀貨一枚――百クローナを店主に渡した。
店主はがっしりした体型の齢四〇ほどの男で、にこにことした営業スマイルを浮かべている。金貨と銀貨を受け取る際、オズと目が合った。彼が小さく首を傾げると、オズは軽く頭を振った。
店主は少々お待ちください、と言って八つの麻袋を用意し、パンを同じ種類ごとに詰め始めた。
気を利かせたのだろう。オズはカウンターに置かれたままの一つのパンを指して、
「ラウラ」
「わあ……。ありがとう」
ラウラは香草入りのパンを手に取り、焼き立てのそれにさっそく齧りついた。
「うん! やっぱり美味しいわね!」
「ありがとうございます」
ラウラの感想に店主は相好を崩した。
彼女は近くの丸テーブル席に腰かけ、夢中で食べている。
小さく喉を鳴らして飲み込むと、彼女はを手招きした。その手からは既にパンが消えていた。
「ねえ、オズ」
「早いよ食べるの……。何だ?」
丸テーブルまでオズが身を寄せると、彼女はオズに耳打ちをした。
「あの、ね……。貴方の御父様から、
つっこみを無視して、急に声を潜めたラウラにオズは首を捻った。
――例の話とは何だ?
「何も聞いてないな」
「あ、え、あぁ……。そうなんだ」
オズの答えにラウラは肩を落とした。
「重要な話か? レーゲン侯爵家とこっちの間の」
「ええ。……すっごい重要な話よ」
「聞いておいた方がいいか?」
「えっ!? いや、それにはっ、及ばないわ!」
聞けばいいのか聞かない方がいいのか、どっちなんだ。突然あたふたとするラウラに、オズはじとっとした視線を投げる。
店内の他の丸テーブルで、お茶会を楽しんでいる子息令嬢の視線もラウラに突き刺さっていた。
そんな彼らの視線に気付いたラウラは、
「き、きっと今夜か明日にはわかると思う! だ、だからさっきのは聞かなかったことにしてっ! それに、ここ人いるし!」
顔を真っ赤にして早口に捲し立てた。
「……そうか」
顔でお湯でも沸かせるんじゃないか、というぐらいに熱くなっているラウラを余所に、オズは店主からパンの入った麻袋を受け取って、
「ほら、帰るぞ」
「……うぅ~、何よその余裕。私だけ馬鹿みたいじゃない……」
ラウラは自分だけ浮いていることに気付いて、さらに顔を赤くしていた。
だがオズは彼女の言葉が聞こえていなかったのか、そのまま踵を返して店を後にした
◇
麻袋から八種類のパンを三個ずつ――計二四個、伯爵家に仕える者たちへ差し入れた後、オズは裏庭奥の森にある地下へと向かった。
仕掛け扉を発動させ、フラスコの製造工房と化した広間へと入る。
内装が少し変わっている。具体的には散らばっていた瓶類が棚に整然と並べられており、中央の長テーブルにはいくつものフラスコが置かれている。膝を抱えている彼らは、生れ落ちるのを今か今かと待ち詫びている様に見えた。
部屋の左手側に置かれた正方形のテーブル、その傍の古びた椅子にカリオストロは腰かけ、何かを作っていた。
目が充血している。また徹夜していたのだろう。
彼の隣では、せっせと調合の後片付けをしているホムンクルスの男女が二人ずついた。
「カリオストロ、飯だ」
麻袋を二つ、古びた椅子に腰かける老人に投げる。
ぱすっ、と小気味良い音がオズの耳朶を打った。
「むぅ……。もう飯の時間か……ということは……飯食ったの七日前か。時間が経つのがあっという間に感じるぞ」
「そりゃそうだろう、爺だからな。……カリオストロ、頼むから飯ぐらい自分で用意してくれ。いくら不老のホムンクルスの身体といっても、飲まず食わずで動き続けたら餓死か衰弱死するぞ。それに……お前を三年前に
オズは大きなため息をついて言葉を区切ると、カリオストロを睨んだ。
「お前は
オズのいう弱くなったとは、彼の《
「……気をつけよう」
「研究もいいが、俺たちの目的を見失っていないだろうな?」
「それは大丈夫だ」
「ならいい」
「……ふむ。――そういえば、オズ。今日は薬いくらで売れた?」
パンを頬張るカリオストロの質問に、いちいち報告しなくてはいけないのは面倒だな、とオズは思った。
「一四〇万」
「オークション制だろ? また高く売らなかったのか?」
「高く売れないんだ。これ以上高くし過ぎると、さすがに上から圧がかかる」
オズは入学当初、試供品を提供することで効能を宣伝し、貴族の子息たちを通して当主たちの反応を窺った。上々という評価を得たところでいざ販売に踏み切り、一本一万という価格で供したところ、僅かな時間で完売してしまった。
それから徐々に値を吊り上げていき、一本十万で売りに出したその翌日だった。
同級生の公爵家の次男が、『御父上が君のやり方に不満を抱いているようだ』、と知らせてきた。それは高過ぎるからもっと安くしろという苦情。立場を利用した脅しだった。
それからオークション制を取り入れ、また苦情を囁かれ、是正し、また苦情をいわれ……。そして妥協した結果が今のやり方だ。
「ほお……そうか。で、
オズの腰に下げているポーチを見てカリオストロが訊いた。
「ラウラがついてきたから渡せてない。店主にはゼスチャーで伝えておいた」
店主は生み出されてから三年が経つ。かれこれ二年以上はあそこでオズとやり取りをしている。
周りにいるのが自分たちの会話に夢中な、平和ボケした王都の学生ならば、幾らでも目を盗んで金を渡すことができる。
しかし『勇者』のラウラはそうはいかない。
店主の仕事に、闇市での武器や防具、魔導具の購入があるが、これは後日に回さざるを得ないだろう。
「ラウラ……? あー。えーっと……子供の頃、よく後ろを引っ付いてきてた女の子か?」
「ああ。レーゲン侯の娘だ」
「ほぉん……」
気のない相槌だ。心底興味がないのだろう。
カリオストロは頭を軽く掻くと、整然と並んだフラスコを見つめた。
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