楽しみでごめんなさい

現夢いつき

私の楽しみ

 私は彼に会うのが非常に楽しみで仕方がありませんでした。

 彼とは、少し前に縁が切れています。五月の中旬、彼から電話がかかってきて別れを告げられたのです。その時、私は頭の中が真っ白になってしまいました。広大な砂漠の中でポツンと一人取り残されたような気分です。何もない白一色の世界。自分が何を言っているのか分かりませんでした。

 告げられたのは、価値観の違い。――私とあの人は時間の過ごし方において考え方がかなり乖離かいりしていたのです。私は極端なまでに二人でいることを望み、彼はほどほどでいることを求めました。

 私は非常に面倒な女でした。毎夜毎夜彼の声を求めて電話をするのです。その上、声を聞くと安心してしまい、二、三時間もすると私の方から寝てしまうのです。今思うと、あの時彼にどれくらいの寂しさを与えてしまったのか想像もつきません。

 一人でいるというのはかくも辛いものなのですから。

 私は泣き崩れ、どうにかできないかと訊きましたが、彼は、やるべきことができないまま付き合いことはできないし、付き合ったとしても君をないがしろにしてしまうから嫌だ、と言いました。それでも別れるよりはいいと食い下がりましたが、彼は綺麗事を言ったと断った後、こう言いました。


「罪悪感でつらい」


 結局、私は私の都合しか考えていなかったのです。彼のことを全く考えていませんでした。そのくせ、私は彼に尽くしてきたと勝手に思い上がっていたのです。彼の将来の職種に合わせて、自分の将来の職種を決めました。どう転んでも彼と離れないような大学を目指しました。――でも、思い返せば、彼は私がそうすることを望んでいなかったのです。むしろ、自由になることを勧めていました。

 それを蹴って、自らに首輪をかけて彼に渡したのは私です。なのにどの口で尽くしてきたと言えるのでしょう。尽くすどころか、彼に尽くされることを強要したのです。


 ああ、なんて屑! 死ねばいい! 彼との楽しかった思い出を思う度、私は自分自身にそんな言葉を吐きます。自分の言動全てが彼を追い詰め、辛い気持ちにさせているのだと思うと自分が醜悪な怪物に映るのです。

 私は別れることを承諾してしまいました。今思えば、話をこじらせて彼と会って話をつけるという手段もあったように思えます。でも、その時の私はそんな余裕がありませんでした。自分の我が儘をあんなにも聞いてくれた彼の頼みをどうして断ることができたでしょう。あの時の内容は正直覚えていません。思いつくまま彼に懺悔した覚えが、ただあるだけです。


 彼に会えないという不満はもはや私の中で収まるものではありません。それは涙となって零れ、懺悔の言葉として零れ、彼を恨む言葉として零れ、そしてそんなことを思う私を罵倒する言葉で溢れました。

自殺は真面目に考えましたが、その時、自分の思考回路が狂っていることに気づけたのは幸いでした。私は恩師であった高校教師のもとに相談に行きました。五月の下旬くらいです。

 私はその前の週に彼からSNS系統を全てブロックされました。当初は彼への怒りがありました。でも、私がしてきたことを思うとそれはされて然るべきだと思いました。

 私を見た恩師は事情をすぐさま把握し、私を慰めてくれました。恩師は私と彼の悪かった所を交えながら、私を言葉で優しく抱きました。運命の人が誰なのか決して分からないこと、前を向いていればいつかその人に会えるかも知れないこと。そして、その人は彼かも知れないし、彼じゃないかもしれないこと。でも、あなたは絶対に幸せになる、なるべき人間だということ。――私はその言葉の暖かさに涙しました。それは私の心を融かしたのです。


 しかし先生、私はどうしようもない屑なのです。だって、先生の話で一番嬉しかったのが、


「もし、貴女があの子に会いたいんなら、会いたくて会いたくて仕方がなくなったら、その時はここに来なさい。連絡が絶たれていても、あの子は卒業する限りここにいるんだから」


 その言葉だったからです。結局、私は彼しか見ていなかったのですから。




 あれから四ヶ月弱が経った今日。私は高校の文化祭に来ていました。

 正直、来ていいのか悩みました。でも、彼から貸してもらっていた本を返し、私も借りっぱなしにされていた本を返してもらう、という大義名分のもと足を運びました。彼は私の顔を見てどんな表情を浮かべるでしょう。およそ想像もつきません。でも、楽しんでいればいいと思いました。私のことなんか忘れて。

 ああ、でも、そう思うと胸が張り裂けそうです。内臓を引きずり出され体内に何も残らなかったような虚脱感を覚えます。結局、私は自分のことしか考えられない人間なのでした。

 クラスによる合唱コンクールが始まりました。彼のクラスがステージに上ります。その瞬間、私は自分の目を疑いました。ステージからおよそ五十メートル以上は離れていた所にいたのですが、私には彼を発見することができませんでした。必死に探し、消去法に消去法を重ねて絞り出した人も、雰囲気がおよそ一致しないのです。


 まさか、私は彼のことを忘れてしまったのでしょうか。――そんな疑念が生まれました。それは時間と伴に肥大化し、私が積み上げてきた彼を愛していたという誇りをガラス細工のように砕こうとしました。


 しかし、寸前で思いました。――もしかしたら、彼は今日休んだのではないか、と。そう思うとひどく腑に落ちました。結論から申し上げますと、この日、彼は学校祭を休みました。私は彼が私のために学校祭を休んだように感じられてなりませんでした。私という異分子がいなければ、彼は今日という日を楽しめたのです。


 私はトイレに駆け込み、涙と罪悪感とともに吐瀉物としゃぶつをはきだしました。でも、まるでスッキリしませんでした。口の中に残る酸味と苦み、そしてそれ以上に行き場もなく、お腹のなかでうごめいているしかない罪悪感が残り続けたからです。

 私は呆然としたままの足で恩師の元に行きました。


「すいません、彼から本を預かっていたままでした。家に直接行こうかとも思ったんですけど、それはきっとダメなので、その……。私の代わりに渡しておいてくれませんか」

「……分かったわ。他に何か伝えることとかはある?」


 私がここで首を横に振れたらどれだけよかったでしょう。少なくとも、彼は傷つかずに済んだに違いありません。でも、私はそんなに人間ができていません。いえ、どころか私がここに生きているのは彼に対する執着心しかないのです。


「実は私も、本を貸しているのです。ですから、返しにきてくださいと彼にお伝えください。……受験が終わった後にでも来て、と」


 私は最低です。




 電車で帰宅している最中に思いました。

 いつもは彼を愛しているのかと考える私ですが、今日ばかりは先程の言動を心の中で懺悔しました。誰に許しをこうでもなくこぼれ落ちた自分に対する罵倒は、私の心に堆積していきます。

 その反面、私は嬉しくもあったのです。彼が学校祭を休んで。

 だって、私のせいで休むということは、――私に会いたくないということは、まだ私のことを忘れていないということですから。

 、最愛の彼に覚えてもらっている以上に嬉しいことがこの世にあるでしょうか。ああ、楽しみでなりません。私がいったいどれくらい彼の中で生きていけるのか!

 私は目をこすって熱い液体を拭いた。

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