サビ

 正直きまずい。とてもきまずい。

「ほらジョージ早くー」

 山都が背中を押すけど、どうにもこうにも……。あと軽率に触らないでくれ。意識しちゃうだろ、お前がなんとも思ってなくても。……考えてて情けなくなってきた。

 俺は意を決してガラスのドアを開ける。

「あ、いらっしゃい。譲二に由真ちゃん」

 受付には満面の笑みの兄貴が待ち構えていた。きまずい……。

「Aルーム取っといたからどうぞ。エアコンつけておいたから。ほんとは駄目なんだけど」

「ありがとうございまーす!」

 うんうん唸ってる俺をよそに、兄貴も山都も楽しそうだ。

「ほら行くぞジョージ」

 あぁぁ待ってくださいリュー先輩襟首引っ張らないでください! 絞まってます!

 有無を言わさず俺はスタジオの中へと引きずりこまれた。


     *


 スタジオアスター。兄貴の職場である。

 大小いくつかのスタジオを擁し、割安な値段で借りれることから学生にもアマチュアミュージシャンにも人気が高い。

「なんでそこまでイヤなのさー」

 アンプにシールドを差し込みながら、山都は問い掛ける。俺だって別に嫌っていうわけじゃない。

「なんていうか……。兄弟に見られるのってなんか照れ臭さがあるじゃんか」

「えー? そう? リュー分かる?」

「分からん」

 そうだった。ここは兄妹だった……。


 夏休みも終わりに差し掛かって、曲の完成度も上がってきた。三年生の課外授業があるから平日は開いてる学校も、土日となると閉まってしまう。そうなるともう家で個人練習しかできないなぁと言ってたところに、兄貴の救いの手が差し伸べられたのだ。

「でも良かったじゃん? 家族割ってことで安くここ借りれて」

 夏休みが明けたらすぐ文化祭だし、どうしよかと例に漏れずうんうん唸ってた俺に、兄貴は自分の職場を貸してくれることを申し出てくれたのだ。ほんとに頭が上がらない。

 そんな言い合いをしてる間にも、アンプのセッティングが終わり、チューニングも済ませた。

「さて、と。では始めますか」

 山都の掛け声が合図だった。リュー先輩がドラムスティックをカッカッカと鳴らす。

 防音設備の整ったスタジオでは、やっぱり教室とは響きが違う。本番は体育館のステージだ。どこまでうまく山都の歌とギターを響かせられるか……。

 あぁでも、やっぱりこの二人と演奏するのは気持ちいい。

 山都の歌は言わずもがな、ギターもここってときに来てくれる。

 リュー先輩のドラムは正確に刻まれていて、でも合い間合い間にスティックを回してみせたりして、意外と余裕がある。まぁリュー先輩だもんな。なんでも軽くこなしてしまいそうだ。時折笑みを見せるのは、ちょっと意外だったけど。

「んあー! ダメだ! 間奏のリフレインやっぱちょっとずれる!」

 最後の一音を弾き終えて、山都は叫んだ。

「二フレーズ目をちょっと食い気味に弾くといいのかも。あと大サビ行く前に、目で合図してくれるとやりやすい」

「そっか……二フレーズ目……」

 ぶつぶつ言いながら、山都はギターを鳴らす。

 こいつのこういうところは、ほんとすごいなと思う。正直、さっきのとこは少しずれてても支障がないかなと俺は思っていた。許容範囲というか。

 だけど山都は、不安要素は潰しておきたいと言う。これこそがノイズの人気たる所以だったんだろうな。

「ジョージごめん! 二番のサビからもう一回いい?」

 そんな俺の視線に気づかず、山都は勢いよく言う。

「もちろん」

 俺がそう言うと、山都もリュー先輩も驚いた顔をした。

 え、なんだ? 俺なんか変なこと言ったか?


 あとから聞いた話、このとき俺は、出会ってから初めて笑っていたらしい。


     *


 二学期が始まった。

 夏休み最後の夜、英語の宿題だけ終わらせてなかった俺は、リュー先輩に罵倒されながらもなんとか終わらせた。おかげで新学期というのにもうHPはゼロだ。二日目の実力テストがまた追い討ちをかけた。

「ジョージ元気なーい! さぁやる気出して!」

 ばちこーん! っと思いっきり背中を叩かれて、俺は前につんのめる。いつものことになりつつあるな、山都!

「でもほんとに元気出して? これから体育館だよ?」

 山都に下から覗き込まれて、俺はぐっと怯んだ。

 そう言うな。俺だって楽しみにしてたんだ。


 文化祭を来週に控え、新学期から校内はなんだか浮き足立っている。どのクラスも夏休み中に出し物の準備を進めてきて、最後の追い込みに入った。

 うちのクラスでは、絵本カフェをやる予定だ。「ぐりとぐら」とか「3びきのくま」とかに出てくるお菓子とかスープを、それっぽく出すらしい。俺は調理じゃなくて接客の方だから、詳しい作り方は分からない。

「そういう本が出てるんだよー。絵本から飛び出したようなの! まんまなの! すっごく可愛いんだよー」

 山都がそう教えてくれるけど。

「お前も接客だろ」

「えへ。うちじゃリューのごはんがおいしいから」

 スーパーシェフ・リュー先輩を擁する山都家(いや美里家?)では、料理する必要のなかった山都だ。案の定、調理係じゃなくて接客係に回されたようだ。

「ってことはお前もあのエプロンつけんのか?」

「そだよー。もう完成してるよん」

 接客係は、男女別でお揃いのエプロンを作っている。男子は腰に巻くタイプの黒のシンプルなもの、女子は赤地に白の水玉でフリルのついたものだ。

 あれを着るのか……。

「あー! あたしには似合わないって思ったでしょ! ジョージのいじわる!」

 なっ……! 逆だ逆!

 でもそんなこと、言えるはずもない。俺はぷんすか怒る山都の後ろを、ただついていくしかなかった。


 体育館にはすでにリュー先輩が来ていた。

「おせーぞ」

 じろりと睨みつけるのはもちろん俺だけだ……。理不尽だ!

 山都はステージに立てるのがよほど嬉しいのか、ぴょんぴょん飛び跳ねてリュー先輩に纏わりついている。

「二時まではバレー部外練なんで、それまでに片付けてください。僕、他のとこの見回りあるんで、終わったら生徒会室まで報告お願いします」

「おう、分かった」

 二年の文化祭実行委員かな? リュー先輩にぺこりと頭を下げると、小走りで体育館を出て行った。今の時期、実行委員は忙しいだろうな。

「わー! ライブだー!」

 大声に振り返ると、山都はステージによじ登るところだった。バッカお前……! 脇の控え室から行けよ! パンツ見えんぞ!?

 でも気持ちは分からんでもない。ステージにはすでにアンプやドラムが用意してあった。ステージに立つということは、それがどこであろうとも興奮するものだ。

「美里センパーイ。マイクのセッティングもオッケーでーす」

 音響室から男子生徒がずらずらっと出てくる。チビ、デブ、標準。おっと失礼な言い方をしてしまった。スリッパが緑だから二年生か。

「おう、ありがとな。せっかくだから聞いてくか?」

「いいんすか!?」

「もちろん!」

「やった!」

 これは……。心底リュー先輩に惚れ込んでるやつだ……。そしてリュー先輩は顎で使ってる……。三人とも、それでいいのか?

 でも『美里』と呼ぶのを許してんのか。舎弟だけどお気に入りなんだろうな。

「あの、セッティングありがとうございました」

 この三人の先輩が機材を運んでくれたのだ。俺がお礼を言うと、三人の目が一斉にこっちを向いた。

 デブの先輩にがしっと肩を組まれた。

「おい、一年ボーズ。下手な演奏したら許さねーからな」

「美里先輩の晴れ舞台だぞ。分かってるだろーな?」

「うまくやれよー」

 圧が……。この人たちほんとリュー先輩を好きだな!

 その背後からリュー先輩が三人にゴンゴンゴンと拳骨を落とす。

「おら、黙って見てろ」

 頭をさする三人は、「はーい」と返事をして、大人しくパイプ椅子を出してきて座った。

 ……庇われた? 俺もリュー先輩の『内側』に入ってるのか……?

「ジョージー! 早くー!」

 ステージを見上げると、山都はもうギターをかけて準備万端だ。

 ハイハイ、ちょっと待ってろ。


 体育館となると、やっぱ音の響きが違う。教室やスタジオはもちろんのこと、ライブハウスとは構造からして違うんだ。

 しかも当日はたくさんの生徒や外部の人が入る。服が音を吸って、また違って聞こえるだろう。どうしたものか……。

「ジョージ! どう!?  どう!?」

「あー、ちょっとアンプいじるわ。んでお前は半音上げ気味に歌ったがいいかも」

「そか! よしもう一回やろう!」

 四曲ぶっ通しでやったのにまだ元気なのかよ。中学時代はこれくらい難なくこなしてた俺でも、久々のステージでそれなりに息上がってるのに。

「由真、飛ばしすぎるな」

「だーいじょーぶだよーう! ジョージいける!?」

「……おう」

 元気っていうか、オーバーヒートしてるような……。

 でも早く早くと山都に急かされて、俺は自分の立ち位置に戻った。

 リュー先輩も心配そうな顔をしている。それでもスティックを鳴らしたから、俺はベースを鳴らした。

 だがそれもすぐに止まる。ギターが入ってこないのだ。

「山都?」

 彼女の方を向いて、ぎくりとした。山都の体は完全に固まって、顔は強張ってしまっている。その顔は蒼白だ。

「由真」

 リュー先輩はスティックを放り投げて、山都の元へと駆け寄った。

 山都の顔がこっちを向く。

「ジョージ……」

「由真、大丈夫か。どうした」

 なんだ? なにが起きている?

「山都……どうしたんだよ」

「なんで……? なんでちゃんと喋んないの……? ちゃんと喋ってよ! 全然聞こえないよ!」

 山都はがくりと崩れ落ちた。リュー先輩がそれを支える。

 リュー先輩がなにか手を動かしている。あれは、手話か……?

「ジョージ、そいつらと片付け頼む」

 リュー先輩は山都の肩を支えて体育館を出て行く。

 俺はそれをただ見ていることしかできなかった。


     *


 機材の片付けを終えて、生徒会室に報告して、家に帰ってベッドに座ってじっとしていたら、もう日が沈んでいた。

 メッセージが届いて、家を出た。『美里』の表札の下のインターホンを鳴らす。

「おう、呼び出して悪かったな。入れ」

 出迎えたのは、リュー先輩だった。

 テーブルの前に座った俺に、リュー先輩はよく冷えたお茶を出してくれた。変わった香りがする。ハーブティーってやつかな。

「山都は……」

「隣で寝てる。母さんが帰ってきてるから心配するな」

 良かった……落ち着いたのか。

 リュー先輩は俺の前に座って、ずずっと紅茶を飲んだ。沈黙が続く。

「耳は……聞こえるようになったんですか」

「……眠る前はまだ、聞こえてなかった」

 それを聞いて、俺はなにも言うことができなかった。

 山都の耳は、まさか……。

「一度、今日みたいに聞こえなくなったことがある」

 その言葉に俺は顔を上げた。

 リュー先輩はテーブルを睨むように視線を落としていて、目が合うことはない。その表情は、自分への憤りをなんとか抑えてるようにも見えた。

「耳のことが分かってすぐだ。『なんで自分が』と泣いて暴れて、聞こえなくなった」

 馬鹿か俺は。

 山都が耳のことを話してくれたとき、なんと思った?

 強い決意がある?

 覚悟を決めている?

 そんなわけあるか。山都はまだ十六の女の子なんだぞ。不安な夜だってあったはずだ。

 ただその恐怖を押し込めて、むりやり笑ってただけだったのに。

「……そのときは、どうやって治ったんですか?」

 最高の演奏をできるように、なんて俺の思い上がりでしかなかった。

「……ライブの映像を見てたんだよ」

 リュー先輩はぽつりと言った。

「ムジカであったライブ。ある日帰ってきたら、明かりも点けずに食い入るように見てた。……お前のライブだよ」

「え……?」

 山都が見てた? 俺のライブを?

 ムジカのオーナーがいつもステージを撮ってたのは知っていた。頼めばダビングしてくれることも。

 だけどまさか、山都が自分たちのライブだけじゃなくて、俺のライブも見てくれてたなんて。

「ジョージとバンドをやりたいと言い出した由真は、もう聴力が戻っていた」

 それってつまり……。

「由真はお前とバンドを組むためだけに、受験勉強を頑張ったんだよ。無事に受験を終わらせて、ジョージを探すってな。同じ学校だったのは嬉しい誤算だったがな」

 入学式のときの山都の様子を思い出した。本当に嬉しかったんだろう。自己紹介のときに乱入してくるわ、帰り道ストーキングするわ、毎日つきまとってくるわ。

 相手が俺ってところに照れ臭さがあるけど。

「本音を言えば、見つからなけりゃ諦めてくれたかもしれないのに」

 リュー先輩は俺をギロリと睨みつけて言った。

 びくりと身を竦ませてしまったけど、そうなのかもしれない。これ以上聞こえなくなったら、聾学校に通わざるを得ないだろう。山都には時間がない。

「……今日は、なんで聞こえなくなっちゃったんでしょうか」

「今日が楽しみで昨夜あんまり眠れなかったみたいだし、オーバーヒートしたんだろ。ちょっと知恵熱が出てた。検査結果も聴力以外は問題ない。ただな」

 このままではライブをできない。

 難聴といえども多少は聞こえているから、これまでやってこれた。それが完全に聞こえないとなると、勝手が違ってくる。

 最悪の場合、ステージに立てないんじゃないだろうか……。

「久々に聞こえなくなったから、ショックが続いてるのかもしれない。なぁジョージ」

 リュー先輩がまっすぐにこっちを見た。

 話だけでも聞いてやってくれないか、とその言葉のあとに続いた。


 インターホンを鳴らすと、出迎えてくれたのはリュー先輩によく似た女性だった。長い黒髪をうしろで緩く結んで、切れ長な目が俺を捉えてふっと笑みを作る。

 山都とリュー先輩のお母さんだろう。若いな。

「ジョージ君ね。話は由真から聞いてるわ」

 おい山都。お前、母親に俺のことなんて話してるんだ。

 どうぞどうぞと通される。中身はリュー先輩っぽくないな。

「由真寝てるから、ごゆっくりどーぞ」

 山都のお母さんは、俺を山都の部屋に押し込んでぱたんとドアを閉めた。

 なんつーことを言うんだあのお母さん! 寝てる山都となにをごゆっくりしろと!?

 山都だ! 中身は山都! 確定!

「あはは、お母さんがごめんね」

 振り返ると、ベッドに横になった山都がこっちを見ていた。

 起こしちまったか。ちょっと顔に生気がない。

「耳は」

 俺は自分の耳をとんとん叩いた。山都はゆるゆると横に首を振る。

 学習机のイスを引っ張り出し、ベッドサイドにやって俺は座った。ポケットからスマホを取り出す。

『起こしちまったか?』

「ううん、リューのメッセで起きた。声の大きさ、変じゃない?」

 俺が大丈夫と首を振ると、山都はほっと息をついた。その表情に、胸がぎゅっと掴まれた感じがする。

 山都はいま、無音の世界にいるんだ。どんな気分なんだろう……。

「練習、途中になっちゃってごめんね。片づけ大丈夫だった?」

『二年の先輩たちが手伝ってくれたから。お前のギターはリュー先輩んちにあるから』

「ありがとね」

 それきり山都は口を閉ざしてしまった。

 話を聞いてやってくれと言われたけど、なにを話せばいいんだろう。励ますのも、慰めるのも、なんか違う気がする。

「あーあ! 情けないよねー。張り切りすぎて、こんなになっちゃうとか」

 がばっとタオルケットから腕を出すと、山都は叫んだ。そして俺を見上げる。

「バカだと思ってるでしょ」

『思ってねぇよ。いつもは思ってるけど』

「ひっどーい!」

 山都はけらけら笑う。

 ほんとに思ってない。ただ一生懸命音楽をやろうとしてるやつを笑う趣味なんて、俺にはない。

『あのな、俺はお前の歌もギターも本当にすごいと思ってるんだ』

『時間がないのはわかるけど、焦んな 焦んなくていい』

『俺がついてるから』

『リュー先輩も』

 文字を打っては見せ、打っては見せ、で山都に話しかけるけど、最後の文面を見つめたまま山都は動かない。

「山都……?」

「あっはははは!」

 突然笑い出した彼女にびくっとなる。横向きになって笑い続けてるけど、俺、そんなに笑うようなこと言ったか……?

 はー笑ったー、と山都は、身を起こす。

「ね、喉触っていい?」

「は!?」

 いきなりなに言ってんだこいつ。

「ベースってさ、全身にビリビリこない? 骨伝導って言うんだっけ? ジョージの声聞きたいけど、今こんなんだからさ。感じさせて?」

 ……その言い方はずるい。意識してんのはやっぱ俺だけかよ。

 俺はぐいっと顎を上げた。

「おら、好きにドーゾ」

 山都がベッドの上を移動してくる。ひんやりとした指先が、俺の喉に触れた。

「なんか喋ってよ」

「なんかって言われてもな……」

 急に言われても、なにを喋ったらいいものか。

 俺はスマホをいじった。折角喋っても、伝わらなければ意味がない。

 画面を見て、山都は分かったようだ。

 seasonsの人気曲。この曲でファンになったとか、励まされたとか言う人の多い曲。文化祭で一曲目にやる予定の歌でもあった。

 その歌詞を画面に表示させる。

 ビリビリ伝わってるだろうか。骨伝導っていうか、心伝導ってのがあればいいのに。

 歌い終わって、山都が肩に頭を預けてきた。あーもーこういうことをする……。

「聞こえるようになったら、もう一回聞かせてね」

 まじか。歌うのはそんなに得意じゃないんだけど。

 俺は山都の肩を叩く。俺を見上げた山都に。右手で胸を撫でるように下ろして見せた。

『分かった』

 リュー先輩のように、とっさに手話が出てこなくて悔しかったんだ。スマホで検索した付け焼刃の手話だけど。

 覚えたての手話はそれでもちゃんと伝わったようで、山都はふわりと笑った。


     *


 夕飯を食べていきなさいという山都のお母さんの誘いを断りきれず、俺は山都家のテーブルに着席していた。もうどうにでもなれ……。

「ごめんねー。お母さん強引で」

『いや気にすんな』

『あらー、どの口が強引なんて言うのかしらー?』

 相変わらず俺はスマホで会話。山都のお母さんは、手話と口で喋ってくれている。俺に気を遣ってくれてるんだろうな。俺ももっと手話覚えなきゃ……。

 まぁ山都が強引ってのは同意。

『よし。じゃあ由真、お隣にごはん持っていって』

『はーい』

 山都がお盆を手に出て行った。キッチンに立つ山都のお母さんが、ちらりとこっちを見る。

「ジョージ君は、うちの事情、だいたい知ってるのよね?」

 突如振られた話題にどきりとする。どこまで話していいものか。

「……山都、由真さんとリュー先輩が、ほんとの兄妹ってことは」

 山都のお母さんは、手元の包丁に目を落としたまま、うんうん頷いた。

「情けない話なんだけどね、あの人とはうまく夫婦になれなくて。由真たちには辛い想いをさせちゃったわ」

 なんと答えたらいいのだろう……。俺が迷っていると、山都のお母さんは助け舟を出してくれた。その顔には苦笑が浮かんでいる。

「こんな話題、返事しづらいわよね。ごめんなさいね。おばさんの独り言だと思って、聞き流してくれていいからね」

「はい……」

 歯切れの悪い返事しかできない俺を気にすることなく、山都のお母さんは話を続けた。

「昔はちゃんと『お兄ちゃん』って呼んでたのに、いまじゃああだからね。私に気を遣ってるのかもしれない。……あの子は強いけど脆いところもあって、でもちゃんと『家族』が揃っていたら、耳のことももう少しなんとかなったかもしれないのに……。母親失格ね」

 最後の方は手を洗う水の音に紛れさせたつもりなのかもしれない。だけど俺には聞こえてしまった。

「離婚して」

 こんなことを言ってもいいのだろうか。カウンター向こうの山都のお母さんの目がこっちを向いたから、意を決して俺は続ける。

「離婚して、離れ離れになる家族の方が多いんだと思います。親権とか、結構複雑だって言うし……。でも山都は、いつも帰り道も楽しそうです。家が、お母さんが好きじゃなかったら、そんな風にはならないんじゃないでしょうか」

 こんなこと、生意気かもしれない。人生経験少ないガキがなに言ってんだよって。

 でも山都は笑っていた。両親の離婚とか、難聴とか全部を飲み込んで。

 そりゃあ不安になることもあるだろう。俺だって想像しただけで落ち着かなくなるんだ。

 だけどあの笑顔は嘘じゃない。たとえ瞬間瞬間のことであっても、心から人生を楽しんでいる。

 山都のお母さんは、手を止めて、俺の顔を見ていた。

「あの子のこと、好き?」

 なっ……にをいきなり! 思いもよらなかった問い掛けに、俺は表情を取り繕うことができない。もうそれだけで察されていそうだ。

「あ……と、はい……。守ってやりたいな、と思います。実際、救われたのは俺の方なんですけど」

 あの笑顔に救われた。山都がいなかったら、俺はバンドの世界に戻って来られなかっただろう。大好きな場所へと。

 山都のお母さんはふわりと笑った。あ、こういう顔は、山都に似てるかも。

「あの子のこと、見ててくれたら嬉しいわ。あの子もジョージ君のこと、大好きだから」

 ベーシストとしてですけどね。

 まぁ今はそれだけでもいいだろう。

 玄関のドアが開く音がした。

「たっだいまー」

 帰ってきた山都の手には、またもお盆が握られていた。

「リューがマンゴープリン作ってたからもらってきた! あたしも生クリーム泡立てるの手伝ったんだよー」

 遅いと思ったらそんなことしてたのか。山都は鼻歌を歌いながら、プリンを冷蔵庫に入れる。

 ふと山都のお母さんが目に入った。山都を見ている優しいその顔で、ふと一つの考えが浮かんだ。もしかしたら、山都のお母さんは俺と話をするためにリュー先輩に足止めを頼んだのかもしれない。

 山都は本当に愛されている。


 山都が帰ってきたので、夕食となった。

『ジョージ君、苦手なものってある?』

「いえ、ないです」

 俺は横に首を振る。

『それは良かった。いっぱい食べてねー』

 山都のお母さんは、相変わらず手話と口語と同時だ。

 出された料理に目を瞠った。さすがリュー先輩のお母さんだ。すっげーうまそう。

「ここだけの話ね、あたしお母さんの料理が一番好きなの。リューは二番」

『あら、嬉しいけどそれ理宇が聞いたら泣いちゃうわよ?』

 自然と名前が出てくるけど、リュー先輩はここにはいない。もう父親が帰ってきてるそうで、そんな日は一緒に食事をしないらしい。

 それも家族の一つの形なんだろう。近づきすぎず、離れすぎずで山都家と美里家はうまくいっている。

『ジョージ君は水前町出身なんだっけ?』

「あ、はい」

『今はお兄さんと二人暮らし?』

 俺は頷く。

「仕事が夜までなんで、割りとすれ違い生活ですけど」

 山都のお母さんの目がきらりと光った。

『じゃあたまにはうちに食べに来なさいな』

「へ?」

「あー! それいい! そうしなよジョージ!」

「いやっ、俺は……」

『ごはんは一人で食べるものじゃないわ』

 目を伏せて言う様は、『母』だった。

 いや、ちゃんと山都のお母さんだって分かってはいたけど、母親の存在を感じたなって。

 夏休みに帰省したとき、もっとちゃんと親孝行してくればよかったなぁと反省した。山都のことが照れ臭くて、バンドのこともちゃんと話せなかった。ずっと心配してくれてたのに。

 次に帰るときは、ちゃんとしよう。

 とりあえずは。

「はい。ありがとうございます」

 お言葉に甘えさせてもらうことにしよう。

 山都と山都のお母さんは、満面の笑みを浮かべた。


     *


 土日を挟んで月曜日。

 週末の間に聴力が戻らなかった山都は学校を休んだ。文化祭は今週末だ。それまでに聴力が戻らなかったら……。

「おいジョージ」

 HRを終えた教室に、鋭い声が響いた。黄色い歓声を聞かなくても分かる。

 教室の入り口にには、リュー先輩が立っていた。

 リュー先輩は、「ついてこい」と問答無用で踵を返す。

 向かった先は、屋上だった。

「おっはよー! ジョージ」

 そこにいたのは、山都本人だった。

「え、なんで? お前。耳は……?」

「耳? 聞こえないよー。でも本番今週じゃん! 練習しなきゃ!」

 いやお前学校休んでんじゃん! まぁ耳以外は元気なわけだけど……。これから家まで行こうと思ってたから、手間が省けたってのもあるけど。

「やー、休んでる手前、みんなに見つかるわけにはいかないから、授業中にこっそり来ちゃったよ。なんかサボってるみたいでしんせーん」

 お前は体育祭の一件を忘れたようだな。

「ほらジョージ」

 山都がなにかを投げて寄こす。それはピックだった。

「さぁ練習、しよ?」

 ステージ慣れしてるせいだろか。ピック投げるのうまいな。

 俺は肩からケースを下ろすと、ベースを取り出した。


 とりあえず、一曲目にやる曲を通しで弾いてみる。

 音量を考慮して、リュー先輩はエレキドラムだ。なんの曲をやるかは当日まで秘密にしたい。ていうかリュー先輩、エレドラまで持ってたんだな……。この人の妹溺愛っぷりが本当に怖い……。

「うーん、やっぱ変な感じ……」

 耳を押さえながら山都は言う。

 やっぱり本人が一番自覚しているようだ。カウント取って、なるべく山都の方に俺らが合わせるけど、細かいところがずれてしまう。

 俺はスマホを取り出した。

『声の大きさは今のままでいいと思う』

「ほんと? テンポはなー、ステージの床がバスドラ響きやすい感じだったから、リハのときにもっかいやれば大丈夫だと思うんだけど……」

 確かに体育館のステージは、ベースもビリビリ響いていた。あれならテンポを取れないこともないけど……。

「そうだ! 裸足でライブやってもいい!?」

『却下』

 リュー先輩は手話と口頭で言う。くそ、俺も早く手話で会話できるようになりてぇ。

 それにしても返事早すぎ。

「えー!? なんでー!?」

『なんででも』

 そりゃそうだ。ライブといえども文化祭だ。制服だ。制服で生足とか目のやり場に困るだろが。

ていうか俺が人に見せたくない。リュー先輩も同じだろう。珍しく意見が合った。

「うーん、じゃあスリッパは脱ぐか」

 まぁそれくらいなら許容範囲だろう。でも一番は山都の聴力が戻ることだ。

 山都は落ち着いて見える。文化祭を控えてそわそわしているところはあるが、知恵熱を出すほどではないだろう。

 じゃあなにが山都の聴力を阻んでいるんだろうか。

 次の日も山都の耳が治ることはなかった。


     *


「あ」

「あ」

 社会資料室の前で鉢合わせたのは、二年のチビデブ標準の『標準』の先輩だった。

 日直でもないのに世界地図を片付けてくるように言われて、ぶつくさ言いながらやって来たらこの邂逅だ。

「えっと……」

「松永だよ、ジョージ」

 名前が分からないのが顔に出てたらしい。松永先輩は苦笑しながら言った。俺は苦虫を噛み潰したかのような顔をしながら、小さく「すんません」と言った。松永先輩が俺の名前を知ってただけに、より申し訳ない。山都かリュー先輩から聞いてたんかな。

 両手が塞がってる俺に、松永先輩はドアを開けてくれる。

「あざす」

「いやいいよ。日直?」

「じゃないんすけど……」

 押し付けられたのを察したらしい。松永先輩はははっと笑った。

「エシオンでもそんな感じだもんなぁ。美里先輩はあぁだし、山都ちゃんも弾丸みたいだし」

 弾丸。言いえて妙だった。

 俺は地図を片付けながら、そういえば、と切り出した。

「松永先輩はリュー先輩のこと『美里先輩』って呼ぶんすね」

「あぁ。美里先輩には荒れてたときにお世話になってね」

 俺は松永先輩の顔をまじまじと見つめる。

 この人畜無害そうな先輩の荒れ方とは……?

 松永先輩はにっと俺を見た。

「まぁ人にはいろいろあるでしょ」

 思い当たる節がないわけでもない。

「山都ちゃん、まだ耳治んないんだって?」

 質問に俺は言葉を詰まらせる。

 いまだ山都の耳は治らない。なにが原因なのか。医者も本人も分からないのだから手の施しようがない。

 文化祭まであと少しだ。焦りばかりが募る。

 というか松永先輩も山都の耳のことを知ってたのか。

「前もこんな風になったらしいんすけどね」

「中学のときだっけか。長く続くと心配だよなぁ」

「……詳しいんすね」

 ちょっと棘のある言い方になってしまったかもしれない。

 松永先輩の視線を感じるが、俺は無視して除けてた段ボールを元の位置に戻した。

「付き合ってんの?」

「付っ!」

 言わずもがな、俺と山都がって意味だろう。

 思わず顔を上げた俺の目に映ったのは、楽しそうに笑う松永賀先輩の姿だった。……これはからかわれてるな。

「違いますよ。俺の片想いです」

「ごめんごめん。美里先輩たちがジョージをいじりたくなる気持ち分かるわ」

 分かられてたまるか。ヤラレキャラだってのは自覚している。

「うん、でもいいと思うよ。ジョージといると、山都ちゃんすげー楽しそうだし」

「そう、ですかね」

 確かに山都はいつも楽しそうだ。好きなことしてるからだと思ってたけど、耳のことを知った今ならそれだけじゃないと分かる。

 山都はどんなに困難な状況でも、希望を持っていきたいと思ってるのだ。

 人から見れば、滑稽なことかもしれない。治療に専念すれば、聴力の低下は抑えられるかもしれないと。

 だけど山都には音楽が全てなんだ。

 耳が聞こえなくなってもいいと思ってるわけじゃない。それより音楽のほうが大事なだけだ。

 そんな山都だから、俺も心を動かされたんだ。

「知ってる? 美里先輩が医大目指してる理由」

「いや、聞いてないす」

 医者志望なのは前に聞いたけど、そこまでは聞かなかった。

「それってもしかして……」

「そう、山都ちゃんのためだってさ」

 あの先輩は……。

「ここまでシスコンだと、いっそ清々しいですね」

「ほんとに。まぁ山都ちゃんが音楽が大事なように、美里先輩も山都ちゃんが大事なんでしょ。いいと思うよ、俺は」

 そんなものなのかもしれない。

 大事なものは、人それぞれだ。俺が完璧な音楽を捨て切れなかったように、音楽だったり、妹だったり、一番にして悪くはない。

 それがなんであろうとも。

「ていうか松永先輩、美里兄妹の事情に詳しすぎじゃないですか?」

「それ言うー? 男の嫉妬はみっともないよー?」

「今さらです。ていうか煽ってるでしょう、明らかに」

「あ、ばれた?」

 やっぱり煽ってたのかよ!

 この先輩が卒業するまで、俺はヤラレキャラを脱却できないような予感がした。


     *


 先生の話が聞こえないし、クラスメイトにも気を遣わせたくないからと、山都はその次の日も休んだ。放課後になったら来ているかもしれないが、斜め前の山都の席はがらんと空いていた。

 その日、日直だった俺は、日誌を出しに職員室へと向かった。今日はちゃんと日直だ。押し付けられたわけじゃない。

「おう、松橋。おつかれさん」

 担任は軽い調子で日誌を受け取る。そして引き出しをガタガタと開ける。

「松橋は山都と家が近かったよな?」

「はい、まぁ」

 そう返事をした俺に、担任はプリントを差し出してきた。

「悪いがこれを届けてくれないか? 一応宿題やっとかないといけないから」

 カゼというわけじゃないから、多少なりとも宿題を出しとかないといけないってことか。担任なら当然、山都の耳のことは知ってるか。

 担任は椅子を回して机に頬杖をついた。続いた言葉に俺の思考は止まった。

「山都もなぁ、せめて三学期までいられりゃいいのになぁ」

 なんの話だ? 三学期まで? その言い方じゃあまるで……。

 担任が俺を見上げる。

「あれ、聞いてるだろ? 文化祭が終わったら山都、学校やめるって」

 寝耳に水だった。


     *


 走る、走る。

 俺は放課後の廊下をただひたすら走っていた。

 生活指導の先生に見つかったら怒られるかもしれない。でも今はそれどころじゃない。

 屋上に続く階段を、俺は一つ飛ばしで駆け上がった。

 勢いよくドアを開けると――

「おぉジョージ、おはよー」

 もう夕方だ。

 ギターのチューニングをしてる山都がそこにはいた。

 俺はずかずかと山都に近づく。渡すはずだったプリントは、ぐしゃぐしゃだ。力いっぱい握りしめてたことに、いま気づいて驚いた。

 息の上がった俺を見て、山都はひるんだようだ。

「どしたの? そんなに慌てて」

 聞こえているのか、いないのか。

「あ、もしかしてあたしに早く会いたかったとか? なんちゃって」

 にしゃっと笑う彼女に、俺はたまらずリュックを乱暴に開いてスマホを取り出した。

『転校ってなに』

 打てた文字はそれだけだった。山都はじっくりと、多分三回はその文章を読み返した。

 彼女の目線が床へと落ちる。

「あー、聞いちゃったんだ……」

 どうして、そんな。

『なんで言ってくれなかったんだよ! 俺そんなに頼りないか!? 山都を全力でサポートしようと思ったのに!』

 いや、聞いてたはずだ。この学校に行くこともいい顔されなかったって。一年間は通うことを許されたって。

 山都の聴力はどんどん落ちていってる。遅かれ早かれ学校をやめることは決まっていたのだろう。

 腕がだらりと落ちた。

 違う、こんな。責めたいわけじゃない。裏切られたとか思っていい立場じゃないんだ。

 山都に救われて、山都を好きになって。

 全部俺の事情だ。彼女を手助けしたいとか、俺の勝手な願いでしかない。山都がそう頼んだわけじゃない。

 山都が言ったのは、ただ「一緒にバンドをしよう」という言葉だけだ。

 ただのバンドメンバーが、こんなことを言うなんて、間違ってる。

 顔を上げることができず、黙り込んでしまった俺の手を、山都は優しく取った。

「ジョージ、聞いて」

 涙を流さなかったのが、せめてもの救いだ。俺は顔を上げて、まっすぐに彼女を見た。

「あたしね、エシオンが好きなの。たぶん、ジョージが思ってるよりもずっと。ほんとはずっと一緒に音楽をしたい。だけどそれは叶わない……あたしのせいで。でもこの半年間、ほんとに楽しかった。ジョージがいたからだよ」

 山都は笑っていた。音を失う悲しみでも、勝手なことを言ったメンバーへの軽蔑でもない。ただ、心の底から幸せなときを過ごしたと言わんばかりの表情だ。

 なんで、そんな風に思えるんだよ。お前はもっと歌っていい人間だ。

「だから、最高のライブで終わらせたかった。ちゃんと言うつもりだったけど、ごめんね」

 ごめんねなんて言わなくていい。

 例えば俺がここで許すとか、世界中を敵に回すとか、そんなんで山都の耳が治るならなんでもする。神様、山都を歌わせてやってくれよ。

 俺は堪らず山都を抱きしめた。

「山都……! 好きだ……! お前が好きなんだよ! お前の歌も、ギターも、できることならずっと聞いていたい……。どうして、叶わないんだよ……!」

 歌うこと。楽器を奏でること。そんな簡単なことも許されないんだろうか。ただ音楽が好きなだけなのに。

 世の中は理不尽だ。

 それでも、生きていかなきゃいけないなんて。

「えと、ありがとう……」

 ん? ありがとう?

 俺は山都の肩を掴んでがばっと身を離した。

 山都の頬は、心なしか少し赤くなっている。まさか……。

「聞こ、えてる……?」

「なんか、聴力戻った」

 二人の間に沈黙が落ちる。

「いつ、から……聞こえ、てた……ンデスカ」

 思わず片言にもなる。場合によってはここからダッシュで逃げることも厭わない。

 山都は視線を泳がせた。

「えと、あたしの歌とギターが好きってとこから、かな?」

 よしオーケー。ひとまずセーフ!

 それにしても恥ずかしいセリフではあるけど。告白よりかはマシだ。

「ふふっ」

 一人で焦りまくっていると、笑い声がした。

「……なに」

「いやね。ジョージがメンバーになるのいやだ、って言ったときのことを思い出してた」

 山都は柵にもたれ掛かる。

「あたしね、自分の歌が好きじゃなかったの」

「は?」

 あんなにすごい歌なのにどうして。

 山都はくすりと笑って続ける。

「正確に言うと、好きなときもあったり、嫌いなときもあったりしてた。音楽は好きだけど、どんなにがんばっても百万人の心に届くような歌を歌えるわけじゃない。目の前の人は今は楽しんでくれてるけど、通学時間に毎日聞いてくれるわけじゃない。どうがんばっても限界があるのなら、『雑音(ノイズ)』でいいやって思ってた。でも」

 そこで言葉を切って、山都は俺のほうを向いた。

 その目はどこまでも穏やかだった。普段の騒々しさからは想像もつかない、朝の海のような穏やかさだった。

「ジョージが雑音なんかじゃないって言ってくれて、すごく嬉しかった。いつか歌えなくなる日がきても、『今』あたしが歌ってることは無意味なんかじゃないって思えたの」

 あのとき、山都にそう言ってなかったらどうなってたんだろう。

 山都はきっと、俺の言葉がなくても歌ってた。俺が山都を変えただなんて、大それたことは思えない。

 それでも、少しでも山都の力になれたということが、こんなにも俺の胸を熱くさせる。

 俺は山都の顔に手を伸ばした。

「あだっ!」

 そして思いっきりデコピンすると、山都はそんな色気のない声を出してしゃがみ込む。

「なにすんのよ!」

「バーカ。お前はそんな小難しいこと考えずに、思いっきり歌っときゃいいんだよ。……ちゃんと届くから」

 照れ臭くて山都の反応を見ることはできなかった。

 背を向けて扉へと向かう俺に、山都は駆け寄ってくる。

「ねぇもっかい言って! あたしの歌が好きだって!」

「はぁ!?」

「ねぇおーねーがーいー! じゃないと文化祭で思いっきり歌えない!」

「バカ言ってんなバカ。ほら早く帰るぞ」

「ジョージのいけずー」

 そんなに軽々しく好きとか言えるか!

 ……まだ、ちゃんと気持ちを伝える勇気がない。でも時間はそんなに残されてないんだ。文化祭が終われば山都はこの学校からいなくなってしまう。

 家が向かいだから会えなくなるわけじゃないけど、やっぱり同じ学校じゃないというのは大きい。

 覚悟を決めなければ。


     *


 文化祭前日の夜だった。

 最後の練習を終えて、帰宅して夕飯を食べ終えたところにインターホンが鳴った。

「はーい」

 ドアを開けた先にいたのは――

「リュー先輩?」

 不機嫌な顔をしたリュー先輩だった。


 リビングのテーブルに着いたリュー先輩は、眉間にしわを寄せたまま口を開こうとしない。俺はとりあえず、その前に麦茶を置く。

「あの……なんかあったんすか……?」

 沈黙に耐え切れず、俺は尋ねた。

 兄貴ー、早く帰ってきてくれー。俺一人じゃこの人対処しきれねぇよー。

「明日」

「はいっ!」

「本番だな」

 なにかと思えばそんなことだ。思わず身構えてしまったけど、その先になにが続くんだろうか……。

「うまくできそうか」

「それは、できる……と思います」

 万全の準備をしていても、なにが起きるが分からないのがライブだ。ライブは生もの。

 俺はリュー先輩の真意が分からなくて、顔色を伺ってしまう。

 リュー先輩はなにを言いに来たんだ? たぶん、聞きたいのはこんなことじゃないはずだ。

 そう考えていたら、リュー先輩が大きなため息をついた。

「リュ、リュー先輩……?」

「お前、由真は好きか」

 思わぬ質問にびくっと体が震える。なんだ! 山都家美里家の人間はエスパーか! 人をびびらせる質問が好きなのか!

「や、えと……」

 なんと答えるのが正解だろうか……。

 好きです? いや殺される……。

 違います? いやいや殺される……。

 友達として好き。これだ!

「いやこの際どっちでもいいんだ。由真と音楽やるのが好きであれば」

 一秒間で目まぐるしく考えたのに、その焦った時間を返してください。

 そんなことを思ったけど、リュー先輩の表情を見たらなにも言えなくなってしまった。

「リュー先輩どうしたんですか? なんか変ですよ?」

「聞いたんだろ? 由真が文化祭終われば学校やめるって」

 どきりとした。

 リュー先輩が一人で俺を訪ねてくるとしたら、いまはその話題しかない。

「……はい」

 リュー先輩はテーブルに頬杖をつく。

 手つかずのグラスに水滴がついていた。リュー先輩はなにを言いたいのだろう。

「父さんたちはいい顔しないっつーか由真が傷つくのを心配してるようだけど、俺は由真は音楽をやめるべきじゃないと思っている。才能あるっていうのもあるけど、由真が一番いい顔をするのが歌ってるときなんだ。学校をやめて、音楽まできっぱりやめるなんてしたら、由真はいったいなにを支えに生きていったらいいんだ」

 本当に、リュー先輩は山都のことを考えている。

 リュー先輩だって親の離婚で戸惑ったこともあっただろうに、妹を最優先させている。まったく、これだからシスコンは……。

「山都が、音楽を続けたいって言うのなら、俺は付き合いますよ」

 俺が静かに言うと、リュー先輩はゆっくりと顔を上げた。

「あ、もちろん山都が望めばですけど。俺、山都とリュー先輩とバンド組めて楽しいんです。エシオンは俺に音楽の楽しさを思い出させてくれた……。文化祭で終わりなのかなって思ったけど、やっぱり他のやつと組むなんて考えられないんですよね」

 音楽を続けたいと思う。だけどそれはエシオンだからそう思えたのだ。たとえ山都がこれで終わりだとしても、やるならたぶん、家で一人ですることになると思う。

 叶うのならば、山都と続けていきたいけど。

 リュー先輩は頬杖をついたまま、じっと俺を見ていた。やがてぽつりと言う。

「エシオンを組んで良かった」

 それは俺にとってなによりの褒め言葉だ。他でもない、リュー先輩に言ってもらえたことを嬉しく思う。

 なんでもさらりとこなしてしまうリュー先輩だけど、やっぱりリュー先輩も不安だったんだろうか。わざわざこんな時間に俺の家を訪ねてきて、こんなことを言いに来るなんて。

 考えてみれば、リュー先輩だって俺と二つしか変わらないんだ。完璧に見えて、迷うこともあるのかもしれない。ならこんなリュー先輩は貴重だな……。

 相変わらず、リュー先輩は頬杖をついて、不機嫌そうだ。いまならそれが地顔だって分かる。不機嫌そうな顔で、優しさとか思いやりとかを秘めてるのかもしれない。

 まぁ山都には、終始デレデレなわけだけど。そんな顔を俺に向けられても、困るだけだけどさ。

 それにしても、リュー先輩は本当に山都のことばっかだ。

「リュー先輩、あんまり山都のことばっかだと逆に山都に心配されますよ? 『いい人見つけて幸せになってー』って」

「あ?」

 リュー先輩の眼光が鋭くなる。

 やばい、地雷だったかも……。

「由真の幸せが俺の幸せだ。いや、でも由真の男は俺が認めたやつじゃないと駄目だ。俺より頭が良くて、由真を守れるくらい鍛えていて、音楽が好きで、由真と同い年かもしくは上でも俺と同い年で……」

 目がまじだ! こえーよ!

 山都に想いを伝える前に、まずはこの人に認めてもらわないといけないんだろうか。

 前途多難な恋に、俺は小さくため息をついた。


     *


 土曜日。快晴。

 絶好の文化祭日和だ。

「ぐりぐらセット二丁ー」

「はーい! アリスセット三つ持ってってー」

 ありがたいことに、うちのクラスの絵本カフェは盛況だ。

 盛況ではあるけれど……。

「なーにむくれてんの。ジョージ」

「むくれてなんかねーよ」

 料理を運ぶ途中、看板を持って呼び込みをしていた山都に捉まった。

 別にむくれてるわけじゃない。明日はライブだから、今日の当番に多めに時間を割かれたことも、むしろ感謝している。

「その格好、似合ってんじゃん」

 それだ。

 エプロンだけと聞いてたはずなのに、なぜか黒い蝶ネクタイまで用意されていた。おまけに髪までいじられて、なんかホストっぽくなってる。他の男子はノリノリで、俺の反対意見など却下された。

「当番終わったらソッコー髪洗ってやる」

「えーなんでー? かっこいいのにー」

 ……落ち着け俺。山都はなにも考えずに発言してるだけだ。

 落ち着けー、落ち着けー。

 俺はちらりと山都を見下ろす。

「……お前も似合ってんじゃん」

 水玉エプロンだけだと思ってた女子も、ブレザーのネクタイを赤いリボンに替えて、頭の黒いカチューシャも可愛らしい。

 正直に言う。山都可愛い。

 まぁそこは口には出せなかったけど、似合ってるっていう言葉だけで山都は嬉しそうに笑った。

「当番一時までだっけ?」

「おう。あとちょっとだ」

「じゃあそのあと一緒に回ろうよ」

「は?」

 なんて? 文化祭を? 山都と回る?

 そんな贅沢許されていいのか……?

「教室まで来てね。着替えちゃダメだよー」

「おい待て山都!」

 追いかけようにも料理を運んでる途中だ。山都はあっという間に走っていってしまった。

 頭を抱えようにもお盆が邪魔だった。


     *


 こうなったらもうヤケクソだ。文化祭の恥はかき捨て!

「お、ちゃんとそのままの格好だったね」

 教室を出ると、さっきの格好そのままの山都が廊下にしゃがみ込んでいた。よいしょ、と立ち上がる。

「不満そうだねー? うちのクラスの宣伝にもなるからいいんだよー」

 だったら山都だけでも良くないか? まぁ、俺だけただの制服っていうのも変か。正直、この格好の山都と文化祭を回れるのは嬉しいけど、他の野郎に見せるのはもったいない。

 山都が楽しそうだからいいか。

「さ、行こっか」

 なんか、デートみたいだ。

 口には出せなかったけど。


 それからは文化祭フルコースだった。

 まずは腹ごしらえ。二年生のやってるカレー屋に向かう。昼時を外してたせいか、そんなに混み合っていない。

「リューのカレーのがおいしいね」

 なんて言いながらも、俺も山都も全部平らげた。

 次は体育館へと向かう。途中、二年のリュー先輩信者に捉まってからかわれた。俺は恥ずかしくてしょうがなかったけど、山都は褒められてご満悦だ。くそ、俺もちゃんと可愛いって褒めれば良かった。

 体育館では生徒会主催のビンゴ大会をしていた。ステージには豪華賞品が並んでいたけど、俺たちは当てることができなかった。それでもなんか楽しく思ってしまうのは、文化祭マジックというやつか。

 クラスの展示を見て回っていると、中庭を挟んで反対校舎にいたリュー先輩と目が合った。やばい、いとしの妹と文化祭を回ってることがばれた! これは絶対捕まえに来る!

 俺と山都は慌てて逃げ出す。

 校内を走り回っていると、リュー先輩を呼び出すアナウンスが聞こえた。どうやらなにか係を放り出して俺たちを探してたらしい。階段の踊り場で俺たちは肩で息をして、目を合わせてぷっと吹き出してしまった。


 夕方、一日目終了のアナウンスが入る。

 俺たちはやっぱり屋上に来ていた。もうここが俺たちの居場所みたいになってしまっている。

 夕日の差す屋上で、俺たちは帰っていく人たちを見下ろしていた。

 階下のざわめきと、風の音だけしか聞こえない。俺たちの間には言葉はなかった。

 でもそれが気まずくない。なんとなく、同じことを考えてる気がした。

「……いよいよ明日だね」

「おう」

 明日で全てが終わってしまう。夏の間、頑張ってきたことが。

 音楽と出会って、ずっとやってきたことが。

 でもそれは口には出さない。俺も山都も分かっている。どんなに楽しい時間も、いつかは終わりが来てしまうことを。

「ライブ、絶対成功させようね」

「もちろんだ」

 俺たちは拳を合わせた。


     *


 英語の授業中、辞書を引いてて一つの単語が目に入った。

『live on』

 リブオン××で、××を主食にしているという意味になるらしい。


 LIVE ON LIVE


 ライブを主食にしているあいつにぴったりの言葉だと思った。


 歓声が聞こえる。

 リュー先輩信者スリーピースバンドによる、ラストの曲だ。

 つーかあの人たち楽器やってたのかよ。知らなかった。リュー先輩仕込みなのか、なかなかうまい。

 デブの先輩がベースなのは意外だった。すっげーテク。デブとか言ってすみませんでした。今度ベース教えてもらおう……。

 俺は肩からかけたベースを見下ろす。

 久々のステージだ。一年振り? あのときの俺は、高校のステージに立つなんて思いもしなかった。

 俺は右手に視線を落として、ぎゅっと握る。冷たい。緊張してるのか?

「ほらジョージ」

 背中を軽く叩かれる。髪をポニーテールにした山都が隣に並んだ。耳につけているのはいつもの赤い補聴器。耳鼻科の先生に頼んで、今日のために調整してもらったそうだ。

 リュー先輩も俺の前に立つ。今日はそこまで不機嫌じゃなさそうだ。

「エシオンの記念すべき初ライブだよ」

 にっと笑って山都は言う。

 そして最後のライブだ。

 口にはしなくても、三人とも分かっている。

 それでも、今日はエシオン初めてのライブでしかない。

 歓声が一段と大きくなった。先輩たちのライブが終わったのだろう。

 俺たちは誰からともなく右手を上げた。そして拳を合わせる。

 さぁ、楽しい時間の始まりだ。


 一曲目、seasonsの代表曲。知ってる人も多いだろう。

 掴みは上々。手拍子も揃っていて、seasonsの人気の高さを窺わせられる。でも山都の歌唱力の効果も大きいだろう。

「こんにちはー! 初めまして、エシオンです!」

 でなければ、このMCだけでこんなに歓声は上がらないだろう。

「今日は最後まで楽しんでいってくださいよろしく!」

 あーこの感じだ、この感じ。ノイズはこうだった。……いや、今はエシオンのヤマトだ。

 山都はイントロのギターをかき鳴らす。

 二曲目はLODの最新曲。軽快なダンスナンバーだ。やっぱりうちの学校でもファンはいるらしく、それだけでわぁっと声が上がった。

 つーか山都。ギター走ってる。大丈夫か?

 ちらっと見ると、目が合った。にしゃっと笑った顔で、確信した。こいつ、わざとやってるな……?

 ぴょんぴょん飛び跳ねて、まるで「ついてこれるかな?」とでも煽ってるかのようだ。いいだろう、そっちがその気なら合わせてやるよ。

 イントロであんだけ飛び跳ねてたのに、歌声はぶれることがない。つくづく天才なヤツだ。いや、本人の努力も大きいだろう。

 山都をまねてか、サビで飛び跳ねてる観客も多い。これ、体育館の床大丈夫か? 一抹の不安がよぎる。あとで生徒会に怒られても知らないからな?

 ダカダン! とドラムの音で締めて、はっとした。これはテンポ上げたこと怒ってマスネ……? ライブ終わってからどやされるかもしれない。そんときは妹を盾にしよう。

 続けざまに三曲目。これもseasonsのラブソング。ボーカルじゃなくてギターが歌詞を書いた曲で、ラブソングの隠れた名曲と名高い。

 山都は高音も難なく歌い上げた。今日の山都は神がかってるな。

 拍手と歓声が最高潮に鳴り響く。

 山都の両親は来てるだろうか。兄貴は、うちの親は。オーナーは。真吾さんは。

 できることならみんなに聞かせたい。知ってる人、知らない人、世界中の人に。

 これが最後の曲だ。泣いても笑っても最後。

「次が、最後の曲になります」

 えー!? と客席からブーイングが起きた。

 なんだこれ。みんな最高かよ……。ここにいるみんなが山都の歌をもっと聞きたいと思ってくれている。

 山都、聞こえてるか? お前の歌は最高なんだぞ。

「そんなこと言わないでよー。あたしももっと歌ってたいよー。……えっと、これまでカバー曲をやってきたんですが、最後だけオリジナル曲をやらせてもらってもいいですか?」

 わーっと歓声が上がった。この学校には山都と同じ中学だったやつが多い。ノイズを知ってる人もそこそこいるのかもしれない。

 山都は観客席を見渡して、嬉しそうに顔を歪めた。その気持ちは分かるぞ。

「昔からやってた曲なんですけど、今回、歌詞を新しくしてきました。……聞いてください。『LIVE ON LIVE』」

 このタイトルを聞いたとき、山都の言葉を借りるなら『運命』だと思った。山都を表す言葉だと思ったものを、山都はエシオンの曲だと言ってくれる。こんな幸せなことがあるか。

 照明が落ちる。俺たち三人だけにスポットライトが当てられた。

 リュー先輩のスティック音が鳴り響く。

 繰り返しのイントロのフレーズに続いて、山都の歌声が乗った。


   暗がりのこの舞台は一人きりのようで

   強がりを示すように 笑っていた


 山都は目を閉じて、ギターをかき鳴らしながら歌う。

 初めて聞く観客も多いだろう。でも誰もがその歌声に聞き入っている。

 切なく響く歌声は、胸を打つ。歌詞もメロディも、初めて聞いたときから俺の心を捉えて離さなかった。ここにいる人たちにも同じように届けばいい。


   隣に立つ存在に気づいたのはそんな時

   零れた落ちたこの涙が僅かに灯した


 山都と出会ってからのことを思い出していた。

 最初は変なやつだと思った。自己紹介は妨害するし、家までついてくるし、挙げ句の果てには「バンドやろう!」だ。こちとらトラウマだっつーの。

 でも、山都がそうやって誘ってくれなかったら、俺は今でも一人だったのだろう。ベースを弾くこともできず、心許せる相手もなく、灰色な高校生活を送ってたはずだ。


   心から射す光が見えてるかい?

   伝えたい想いはひとつだけ

   もう独りじゃない 分かったから

   歌うよ 君に


 彼女の歌が、こんなにも愛おしい。この歌声をずっと守っていけたらと思った。

 でも、それは後悔じゃなくて。


   届いてほしくて

   叫ぶよ 最後まで


 山都は歌う。今を、未来を。

 後悔がないように、いま出せる力の全てを振り絞って歌う。だからこんなに胸を打つんだろうか。

 山都はエシオンが好きだと言った。ノイズ雑音じゃなくて、エシオンが好きだと。

 ノイズのままだったら、どうなってたんだろうか。

 バンド名を変えたくらいで、大きく変わることじゃないのかもしれない。

 でも、お前の歌は、雑音なんかじゃない。ここにいる人たちがそう言ってるのが、聞こえているか?

 エシオンがいいと言ったのは俺の身勝手だったかもしれないけど、いまではそれが良かったと思っている。雑音じゃないの、分かってくれよ?

 最後の音を三人でジャカジャカ鳴らす。この曲を締めてしまったら、ライブが終わってしまう。

 あぁ、終わりたくないな。ずっとこの時間が続けばいいのに。楽しい時間はいつか終わりが来てしまうんだな。

 でも。

 顔を上げる。ギターをかき鳴らす山都と目が合う。ドラムを叩くリュー先輩と目が合う。

 そこには俺と同じ感情が浮かんでいた。みんな同じ気持ちなんだな。

 山都がギターのネックを振り上げた。始めたのなら終わらせなければ。そこからまた、新しいものが始まる。

 さあ、進め!


 山都が降り下ろすと当時に、ギターとベースとドラムの最後の一音が重なった。終わった……。終わってしまった……。

 歓声が上がる。拍手が鳴り響く。

 二年の先輩たちが楽器を預かってくれた。

 三人でステージの前の方に歩み出る。観客席は笑顔で溢れていた。

 あぁ、やりきった。やりきったんだな。

「今日は最後までありがとうございました! このあとも文化祭楽しんでください! ほんとにほんとにありがとうございました!」

 山都がおじぎをするのに続いて、俺たちも頭を下げた。俺が顔を上げても、山都はまだおじぎをしていた。そのまま両手で顔を押さえる。震える肩に、泣いてることに気づいた。

 山都、やっと泣けたんだな。

 俺は左手を伸ばす。山都はすぐそれに気づいて、右手をおずおずと差し出した。

 それに対抗してリュー先輩も山都の左手を握る。山都は驚いて左手を見やる。じっと見ていたが、やがて吹き出した。

 顔を上げた山都は、晴れやかな笑顔を浮かべていた。目にはまだ少し涙が浮かんでいる。

 そのまま両手を挙げた。俺と山都とリュー先輩。三人で万歳するかたちになる。

 歓声が一段と大きくなった。

 なぁ山都。これが俺の人生の中で、一番最高のライブだったって胸を張って言えるよ。


 そうしてエシオンの最初で最後のライブが終わった。

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