Bメロ

 そう言われて簡単に諦める山都由真ではない。

 入学式の時点で気づくべきだった。いや、気づいてはいたけど、見ないふりをしたかったのだ。だってめんどうだ。

「ジョージやっほー! ねぇseasonsって好き? あたしCD全部持ってるんだけど、これオススメー!」

「明日当たるんだよー。ジョージ英語得意? 教えてー!」

「LODのチケット取れたの! 一緒に行かない?」

 だぁぁうるせぇ!! ちょっとは黙れ!!

 静かに過ごすはずだった高校生活が、気がつけば目立ちまくっている。

 うちのクラスには山都由真と同じ中学だったやつが多いらしく、これだけ騒いでも「またか」みたいな目で見られている。生暖かい目で見られて、人と関わる気のなかった俺はたまったもんじゃない。

「おまえ、いつになったら諦めるんだよ」

 昼休み、中庭の片隅で俺は隣に座る山都由真にそう言った。

 昼休みの中庭は日射しが気持ちいいが、少し風があるせいで人が少ない。その隅っこのベンチに俺たちは座っていた。

 つーかなんで一緒に弁当食うことになってんだよ。

「諦めるってなにが?」

「……バンドのことだよ。俺、断っただろ」

 山都由真は玉子焼きを頬張った。相変わらず、それで足りるのかと疑問に思うほどの弁当箱である。でも中身は色とりどりで可愛らしく、これをあのリュー先輩が作っているというのだから驚きだ。あの先輩、料理が得意らしい。

「あたし、あれからジョージをバンドに誘ったっけ?」

「いやそれ目的で近づいてきたんじゃねぇのかよ!」

 玉子焼きを飲み込んでから言い放った山都由真に、俺は思わず突っ込んだ。

 じっと俺を見つめていた山都由真だったが、やがて目を伏せて言った。

「ジョージと仲良くなりたいだけだよー」

 なおも山都由真は箸を進める。

 俺はこいつが分からない。入学式の日の一件から、どうしてもバンドがやりたいのかと思った。だけどこんなことを言い放つ。

 仲良くなりたい? なんのために?

「……バンドはやらないのか?」

「えっ、なになに!? ついにやる気になった!?」

「ちげぇ!」

 まったく、油断も隙もない。山都由真はちぇーっと口を尖らせた。

「おまえ、なんでバンドやりたいの?」

 決して絆されたわけじゃない。ただ、気まぐれに聞いてみただけだ。頬に山都由真の視線を感じるが、俺は気づかないふりをして箸を進めた。

「あたしね、中学のときからリューとバンドやってるの。すっごく悲しいことがあって、落ち込んでたときに、リューはあたしにギターをくれた。歌とギターは、あたしの魔法のアイテムなの。ステージに立つのがほんとに楽しかった。……ただ、ベースの人はなかなか相性が合う人がいなくて、ずっと入れ替わりだったんだけど……」

「え、おまえライブとかやってたの?」

「そう、ムジカ! あそこでよくライブしてたんだよー」

 だから俺のことを知ってたのか。いきなりムジカの話をされたときは、焦ってひどい態度を取ってしまったけど、冷静に考えれば出演者か観客だ。あいつらじゃない。山都由真があれを見てたわけじゃないんだ……。

「その態度じゃすれ違ってたことも気づいてないでしょー?」

 俺は無言でウインナーを租借した。校舎の方から賑やかな声が聞こえる。

「まじか」

「まじまじー」

 全く持って気づいてなかったわけだが、山都由真は楽しそうだ。

 正直あの頃のことはあまり思い出したくない。全部捨てて、高校生活を謳歌しようと思ったのだ。バラ色の、なんて望まないから、地味に目立たず静かに暮らす。そう思ってこの高校に入学してきた。

 なのに今ではこのザマだ。最初は心底嫌だったのに、慣れてしまった自分が怖い……。

 それでもこれ以上、交流関係を広げたり音楽をもう一度したりするつもりはない。

「あっそういえばさー、LODのチケットあるんだけど、ジョージ一緒に行かない?」

「は?」

「リューと行こうと思ったんだけど、模試があるらしくてさー。あ、LOD知らない? アイドル、ダンスユニット」

 いやそれは知ってるけど……。

 歌って踊れる男三人ユニット。中高生女子に人気らしい。

「いや、おまえバンド以外も好きなの?」

「うん好きー。っていうかライブが好きなの。ライブハウスが一番だけど、ホールもドームも楽しいよね!」

 なるほど、根っからのライブ人間か。

 俺はライブハウスでのライブしか経験がないけど、会場やアーティストによってライブは本当に違う。テレビとかでペンライトを振ってる観客を見ると不思議な気分になる。

「ってことで明日は一時に駅前ね! じゃねー」

「は!?」

 俺に紙切れを押し付けると、いつの間に食い終わったのか、山都由真は弁当包みを持って走っていってしまった。手元に目をやると紙切れの正体はチケットだった。

「行くなんて言ってねぇし……」

 一人取り残された中庭で、俺の呟きだけが零れた。

 予鈴が鳴り響く。

「やっべ!」

 俺は慌てて飯をかき込んで、教室へと走った。


   *


 決して行きたかったわけではない。ただ、チケットがもったいなかっただけだ。客入りが悪いってのは、苦い思い出だからな。

「おっはよー!いい朝だね!」

「もう昼だ昼」

 相変わらずの山都由真だ。

 私服の山都由真を初めて見た。薄い黄色のブラウスにデニムのショートパンツ、黒のエンジニアブーツで山都由真のイメージぴったりだ。髪はいつもどおり下ろしている。

「髪、ライブ中邪魔になんねぇ?」

「今日はアリーナだから大丈夫だよー。あんま暑かったら上げるかもしれないけど」

 そういえばそうだった。

 大抵のドームはそうであるように、東京ドームでのライブはスタンドは座席が狭いが、アリーナはそうでもない。人気アイドルなのによくアリーナ席取れたなと思いながら、俺は山都由真の一歩後ろをついていった。


 人気男性アイドル、予想どおりだが女ファンが多い。ちらほら男の姿も見えるけど、やっぱり目立ってる。そのどれもが彼女に連れてこられた彼氏って感じだ。俺もそんな風に見られてるんだろうな……。いや、山都由真とは付き合ってるわけじゃねぇけど!

 俺は開場待ちで隣に並ぶ山都由真をちらりと盗み見た。ⅰ Podをいじってる山都由真はこちらに気づかない。

 まぁ顔は可愛い方だと思う。目はぱっちりしてるし、小柄だし。うるさいのはつまり明るいってことでもあるから、こういうやつはもてるだろう。っていうか実際学校で男に睨まれることもある。山都は誰にでも分け隔てなく接するから、嫌がらせとかはされないけど。

 なんでこいつは俺と一緒にいるんだろう。いや、バンドのためか。それにしたって、最近はバンドやろうバンドやろう言われない。俺も山都由真と一緒にいるのが当たり前になってきた。

 まぁ、悪くはない。かな。

「あっ、この曲。振りがあるらしいけど知ってる?」

 唐突に声を上げた山都にびくっとした。

 俺はいまなにを考えた? 気のせいだ気のせいだ気のせいだ!

「ジョージ? どうかした?」

「なんでもない! なに!」

 イヤホンを差し出してくる山都由真は不審そうに俺を見ていた。気にするな、気にしないでくれ。

 俺はイヤホンを受け取ってはたと気づく。これってカップル聞きなのでは?

 そう思ったのに、山都由真の方を見るともう片方のイヤホンは山都由真の耳には刺さっていなかった。俺は黙って片方のイヤホンを自分の耳に刺す。

 大丈夫。気にしてない。


 アイドルのライブなんて初めてだったけど、なかなか良かった。入り口でリストバンドみたいなのを渡されて、なんだこれと引っくり返してたら山都由真に「ライブ始まったらびっくりするよー」と楽しそうに言われ、実際始まったら驚いた。ブロックごとに、そのリストバンドがいろんな色に光ったのだ。アイドル=ペンライトと思ってたけど進化してるんだな。

 照明もすごかったし、案外アイドルもバカにできないかも。

「はー楽しかった! やっぱさすがLODだね! 踊りたくなっちゃう」

 そう言って山都由真はくるりと回る。

 家は同じ方向なのだ。それにもう真っ暗だ。俺と山都由真はライブの興奮冷めやらぬまま、帰り道を歩いていた。夜道を女子一人で歩かせる趣味はない。山都由真相手でも。家まで送るくらいはする。リュー先輩が怖いし……。

「おまえ、バンド一筋なのかと思ってた」

「うん? まぁそうだけれどね。やるのはバンド一択かな。でも、楽しかったでしょ?」

 問われて俺は言葉に詰まる。

 楽しかった。悔しながら。

 山都由真と違って、俺はライブハウス以外でのライブ経験がない。ムジカ以外でのライブを見ることはなかったのだ。

 それでもドームライブは楽しかった。

 歌いながら踊るから、歌は生じゃないのかもしれない。つーかそんな感じだった。

 だけどあの空気感は、俺がずっと求めて止まないものだった。ステージと客席が一体になる感触。あの爽快感を俺はまだ覚えている。

 それでも、もうベースを持つことはできない。あの痛みをもう一度味わうなんてごめんだ。

「アンコール一曲目のさ、あのフレーズ良かったよね」

 山都由真は歌い出した。

 瞬間。


 ――こんばんはー! ノイズです!


 光に包まれる姿が浮かんだ。俺は思わず足を止める。

「ジョージ?」

「おまえ……ノイズのヤマトかよ!」

 忘れるはずがない。ノイズはムジカで歌ってるバンドの中でも、一番人気のバンドだった。ボーカルは中学生ながら、大人顔負けの歌唱力で、並みの歌手よりうまいんじゃないかと言われていた。

 いやまぁ今の今まで思い出さなかったんだけど。

「いま気づいたの!?」

 うん、いやまぁその反応は当然なんだけど。

「……名前と顔が一致してなかった。ノイズのボーカル、イコールヤマト。ボーカルの名前知らなかったし、ヤマトって男だと思ってたし」

「あー、たしかにね。じゃあドラムのミサトは女だと思ってた?」

 図星だ。

 あの頃の俺は自分のことばっかに必至で、周りのことが見えてなかったのだ。それでもノイズの人気っぷりは知っていた。ムジカの客の八割はノイズ目当てだって言われてた。

 俺は自分のバンドのことにかかりっきりで、その姿をちゃんと見たことはなかったのだ。だけど名前だけは知っていた。

「なになに? バンドやりたくなった?」

 にっと笑って山都由真は言う。俺はただ立ち尽くしてそれを見ていた。

「じゃあさ、スコアの最後のステージ知ってんだろ? いや、スコアのじゃないな……。俺の最後のステージだ」

 山都由真は笑みを引っ込めて俺を見ていた。当たりだ。あの日、俺たちのバンドの次はノイズだった。

 山都由真は知っているはずだ。あの、最悪のステージを。

「もうあんな思いはしたくないんだ。バンドは諦めてくれ」

 山都由真はなにも言わなかった。

 それから俺たちは、家に辿り着くまで一言も喋らなかった。


   *


 週が明けて月曜日。

 俺はどんな顔をして山都由真に会ったらいいか分からなくて、いつもより三十分早く家を出た。見上げる山都由真の家は、まだカーテンが閉まっている。俺は見つからないうちに、そそくさと学校へと向かった。

 チャイムが鳴るギリギリで教室に行った。山都由真とは同じクラスなのだ。いつまでも逃げてるわけにはいかない。

 結構身構えて行ったのに、その日、山都由真は休みだった。


「おい」

 放課後。帰ろうとした俺にお声がかかった。女子が黄色い声を上げてるけど、そんなん聞かなくても誰だか分かる。逃げたいけど逃げようがない。

「おいこら逃げんなジョージ、殺すぞ」

 やっぱ無理ですよね、リュー先輩……。

 黙って先を行くリュー先輩の背中を、俺はついていった。リュー先輩はどんどん階段を上っていく。屋上の扉の前、そこにあったものに俺は目を見開いた。

「リュー先輩、これ……」

「由真のお願いでここに置いた。ちゃんと先生の許可ももらってる」

 そこにあったのは、ドラムとアンプだった。

「許可って……」

「成績いいといろいろ使えて便利だな」

 リュー先輩頭良かったのか。いとこバカだと思ってたけど、それだけじゃないんだな。

 俺はアンプを見下ろした。

 引っ越しのときにちょっと触ったけど、半年以上触っていなかったアンプ。もちろんこれは俺のと違うけど、これを見るだけで心臓がどくんと脈を打つ。

「由真の歌を聞いたんだろ?」

 その言葉に俺は視線を上げた。

「あいつは歌うために生まれてきたような人間だ。俺はそれを邪魔するものが許せない。由真が好きに歌えるためにはなんだってするつもりだ」

 リュー先輩の顔には覚悟が浮かんでいる。その気持ちは分からなくもない。ワンフレーズ聞いただけでも、山都由真の歌には衝撃を覚えたのだ。ずっと一緒にバンドをやってるリュー先輩なら尚更だろう。

「……確かに、あいつの歌はすごいと思いました。でも、それならベースは俺じゃなくたっていいはずです。もっとうまい人はいっぱいいます。それに……ノイズってことは、リュー先輩もあのライブを見たんでしょう? 俺はもうバンドをやるつもりはないんです」

 あの日のことを思い出すと、今でも胸が痛い。俺が壊してしまったライブを、まだ受け入れることなんてできない。

 受け入れられる日なんか来るんだろうか。

「他を当たってください。それがあいつのためだ」

 俺よりうまいベーシストはたくさんいるはずだ。山都由真に見合ったベーシストが。

 背を向ける俺に、リュー先輩はなにも言わなかった。


   *


 俺が所属していたバンド・スコアは、二つ年上の先輩たちで組んだバンドだった。ベースの人だけもう一つ上で、受験を機にバンドをやめてしまったからメンバーを探していたそうだ。

 まだ中学生ということで、最初はみんな俺が入ることを渋っていたが、演奏を聞いたら態度を変えた。

 ずっと一人で練習していた。初めて認めてもらえて嬉しかった。

 スコアでは主にseasonsのコピーをしていた。seasonsは女性ボーカルだけどスコアのボーカルの声の伸びはよくて、男だけど透明感のある声ってことで評判が良かった。まぁノイズほどじゃなかったけど。

 家と学校とスタジオを往復する日々。一度それで成績が下がってしまって母さんにめちゃくちゃ怒られたから、勉強もがんばった。英語だけは伸びなかったけど。

 チューナーで音程を合わせて、メトロノームに合わせてベースを弾く。家にいる時間は大抵そうして過ごしていた。スコアに入ってからは、それにバンドの演奏を録音したものと合わせて弾く、という練習が加わった。

 最初の頃は、メンバーも褒めてくれた。中学生なのにそれだけベースを弾けるのはすごい、と。

 ムジカは実力のないバンドはステージに立てないライブハウスだ。事前審査がある。俺たちはオリジナル曲も取り入れて、ムジカのステージに立てるようになった。対バンも少しずつできるようになり、オリジナル曲も増えていった。

 なにがきっかけだったのかは分からない。俺が中三に上がる頃には、バンド内の空気があまりよくないものに変わってしまっていた。いや、きっかけは分かっている。俺が頑なだったせいだ。

 元々は同級生同士で楽しくやろうと組んだバンドだ。『スコア』が出てる人気曲をやろう、という意味のバンド名。メンバーを変えながら徐々にそのスタンスが変わっていってしまった。

 もっとステージに立ちたい。もっと正確に弾けるようにならなくては。

 そう思ったのがいけなかったのだ。


『なんでもっとちゃんと弾けないんだよ!』


 それが決定打だった。

 ライブ前の、最後のスタジオ練習の日のことだ。

 ボーカルの音程がすれてるとこがある、ギターソロで毎回音を外すとこがある、ドラムの締めが甘い。

 全体を通して見れば、些細なことだ。俺たちはプロじゃない。いくらでもごまかしようがあるものばかりだ。

 だけど、より正確に、確実にと練習してきた俺には、許せなかった。

 思わず叫んでしまった俺を見つめるメンバーの目が、忘れられない。

 お前のベースは気持ち悪いと言われたのは、最後のライブが終わってすぐ、ステージ脇でのことだった。

 それは事実上のクビだった。


   *


 あの日以降、山都由真がうるさくすることはことはなくなった。

 一日休んだ次の日は普通に登校してきたが、どことなく沈んだようにも見えた。きっとリュー先輩から俺がもうバンドをやらない理由を聞いたのだろう。

 俺も俺で気まずくて、山都由真に話しかけられずにいた。


「うわぁひどい」

 その声に俺は勢いよく振り返った。後ろの席から身を乗り出して、山都由真が俺の小テストを覗き込んでいる。

「ゴールデンウィーク明けに中間テストだよ? 大丈夫?」

「おまえ……!」

 こんな点数なのは英語だけだ。つーか覗き込むなよ!

「リューって学年一位なんだよねー」

 まじか。頭いいとは聞いてたけどそこまでとは。あんなに人相悪いのに……。いや美人だけど、山都由真が絡んでるせいか俺に対して当たりが強いっていうか。

「しかも全国十位以内!」

「まじで!?」

 相当じゃないか。

 思わず大声を上げた俺に、山都由真はにやっと笑った。

「勉強合宿、しましょうか」

 嫌な予感しかしない。


「で、こうなるのかよ……」

 ゴールデンウィーク初日、ご丁寧にも山都はうちまで迎えに来た。つーかまだ八時なんだけど。せっかくの休みが……。

「若者よ! 時間は有限なのだ! ダラダラするでない!」

「いや若者って、おまえも同い年だろ」

 こういう時の山都由真には、なにを言っても無駄だ。俺は大人しく準備して、山都由真についていった。

 山都由真のアパートに着いて、俺は気がついた。

「あれ? 山都とリュー先輩の家って隣同士なの?」

 山都と美里の表札が続いていた。山都由真は鍵を開けながら答える。

「そだよー。言ってなかったっけ?」

「朝いつも一緒だなーとは思ってたけど。いとこで隣同士ってよっぽどだな」

 なんていうか、珍しい気がする。山都由真がちらりとこっちを見た。

「まぁ、いろいろあるんだよー」

 山都由真が開けたドアを俺は潜った。

「遅い」

 山都家のリビング、そこにはすでにリュー先輩が待っていた。HRが始まる時間よりも早いんですけど……。と思いつつも、今日からは教わる立場なので言わないでおく。

「おはようございます、リュー先輩。今日からよろしくお願いします」

 山都由真に勝手に組まれた勉強合宿だけど、全国トップレベルの人に教えてもらえるのはありがたい。性格の難には目を瞑らなければ。

 実際、リュー先輩の教え方はわかりやすかった。

「リュー先輩、頭いいだけじゃなくて教え方もうまいってすごいっすね。教師でも目指してるんですか?」

 ひと段落して、山都由真が煎れてくれた麦茶を片手に聞いてみた。リュー先輩はちらりとこっちを見て、すぐに目を反らした。

「いや、俺がなりたいのは医者だ」

 あ、なんか納得。白衣姿がすげー目に浮かぶ。

 リュー先輩は、この話は終わりだといわんばかりに立ち上がった。

「切りいいしそろそろ昼にするか」

「わーいお腹すいたー!」

 飛び跳ねるように山都由真はリュー先輩の後を追う。なにか手伝ったがいいんだろうか。でもリュー先輩がなにも言わないから、俺は大人しく座って待つことにした。

「あ、しまった。黒胡椒ないからちょっと取ってくる」

 作り始めてしばらく経ったころ、リュー先輩は言った。

「ほーい。なにしとけばいい?」

「とりあえずパスタ混ぜといて。タイマーが鳴ったらザルに上げて、お湯は捨てるなよ。ジョージは由真に手出すなよ?」

「出しませんて!」

 まったく、リュー先輩はどんだけいとこバカなんだ。

 リビングの棚を見やると、卒業アルバムが置いてあった。山都由真のものだろうか。ちょっと見てみるか。

「なに作ってんの?」

「カルボナーラ! リューのパスタ料理はおいしいんだよー? ジョージ、食べれてラッキーだね!」

 山都由真はカウンター向こうのキッチンから答える。

 いつも山都由真の弁当はうまそうだと思ってた。たしかに今日食べれるなんてラッキーだ。勉強まで教えてもらってるし。敵視されてるようだけど、リュー先輩って案外面倒見がいいのかも?

 俺はアルバムをめくる。山都由真の小学校の卒業アルバムだった。幼い顔が並んでいる。山都由真は何組かなっと。

「リュー先輩、美人で勉強もできて料理上手ってすごいよなぁ。家でも作ってんの? って家、隣か」

 夜はそれぞれの家で過ごすのかもしれない。

「いやー、お母さんとお父さんが揃ってたら一緒に食べることはあんまないけど、結構三人で食べたりするよー」

 俺はその言葉を聞きながらページをめくる。そしてふと気がついた。今の言葉、なんか変だったような。

 でもそれを聞き返すことはできなかった。俺の目はアルバムから離すことができなくなっていたからだ。

 六年三組のページ。そこにあったのは――


『美里由真』


 今より幼い山都の写真の下には、そう記されていた。

「そういやジョージってお兄さんと二人暮らしなんだ、っけ……」

 山都がひょこっと顔を覗かせる。その声が不自然に途切れた。

「あー……。しまっとくの忘れてた」

「お前……これ……」

 山都は俺のところまで来て座った。ローテーブルに肘をつき、アルバムを引き寄せる。ページをなぞる山都は、表情を読むことができなかった。

「小学校までは『美里由真』だったの。親の離婚でね。山都はお母さんの苗字。リューとあたしは実の兄妹だよ」

 俺はなにも言うことができなかった。いとこバカとは思ってたけど、確かに度が過ぎる部分はあった。実の兄妹なのなら納得だ。

「でも……いとこって」

「元々お母さんとお父さんっていとこ同士なの。だから正確に言えば、あたしたちははとこ。説明がめんどうだから、いとこで通してるの」

 まぁ小学校から一緒の子たちは知ってるけどね、と山都は続ける。

「お母さんとお父さんって小さい頃から仲良かったんだって。同い年だし趣味も合うし、よく一緒に遊んでたって言ってた。付き合うようになったのも自然の流れだったって。……でも家族になるっていうと話は違った。近すぎたんだね。あたしが小学生の頃はいつもケンカばかりしてた。離婚して、今の形でようやく落ち着いたんだよ」

 思いもよらない事実に、俺は俯いた。

 親が離婚するなんて相当なできごとじゃないか?

 でも山都はいつも笑っていた。三年経ってるとはいえ、山都はどんな思いで乗り越えてきたんだろうか……。

 困ったような笑顔を山都は俺に向ける。

「そんな顔しないでよー。すぐ隣に住んでるから、淋しいと思ったことはないし。ギターもあるから楽しいよ」

 リビングの片隅には、山都のテレキャスがスタンドに立てかけられている。

 山都はギターと歌が好きだと言っていた。それは単なる趣味ではなかったのだろう。それこそ心の支えだったような。

「おまえ、ほんとに音楽が好きなんだな」

 結局言えたのはそんな大したことのない言葉だった。もっと他になにかなかったのか。

 それでも山都は一瞬きょとんとして、それからにっと笑った。

「当然」

 それからすぐにリュー先輩が戻ってきて、山都になにかしてないかどつかれた。してないと言えばしてないけど、したと言えばした。リュー先輩に反論することができない。

 それでもリュー先輩の作ってくれたカルボナーラはおいしかった。


   *


 その後のゴールデンウィークは何事もなく過ぎていった。リュー先輩の指導は相変わらず厳しかったが、飯がうまくて乗り切ることができた。がっちり胃袋を掴まれている……。


 さて、連休開けて次の日曜日。高校に入って初のイベント、体育祭がやってきた。

「いけー! 松橋ー!」

 声援に推されてゴールテープを切った。

 テンションの高い応援席へと戻る。

「松橋くんって足速かったんだねー」

「いや、短距離だけっていうか」

「照れんなよー」

 こんな風に普通に受け入れられるなんて、入学したばかりの自分じゃ考えられなかった。原因は自分にあったのは分かってる。今でも百パーセント人を信じられるようになったわけじゃない。

 それでも、山都の存在に救われてる部分はあった。

 そこでようやく俺は気づく。

「あれ? そういや山都は?」

 山都としゃべってることの多い女子たちに聞くと、口ごもって目配せをした。

「あー、なんていうか……。ある意味サボリ?」

 なんだそれ。こういう年中行事では一番にはりきりそうなやつなのに。


「やっぱりここにいた」

 上から覗き込んだ俺を、山都は見上げる。

 屋上の給水塔の影。制服姿の山都は、寝転がってギターを弾いていた。アンプには繋いでないから、小さなメロディーが屋上に響く。

「あージョージだー。おはよー」

「もう昼だ昼」

 そういえば朝から会ってなかった。こいつ、グラウンド自体に来てなかったんじゃないか……? 制服のままだし。

「堂々とサボリかよ」

「ちゃんと欠席届出してるもーん」

 そう言って山都はぴらぴらと欠席届を掲げた。……ちゃんと受理されてる。まぁサボリじゃないのは分かった。

「それで、こんなとこでだらだらしてちゃいけないだろ」

「ジョージの活躍聞こえてたよー。一位だってね」

 放送部のアナウンスが聞こえていたのだろう。山都は寝転がったまま、くしゃっと笑って俺を見上げている。

「ジョージ、お弁当持ってきてる?」

「いや。昨日リュー先輩に持ってくるなと脅された」

 昨日の夜のことだ。突然電話してきたかと思うと、低い声で念押しされたのだ。たぶんリュー先輩が弁当を作ってくれるってことなんだろうけど、なんであんな脅すような口調だったんだ……。しかもあれから連絡ないし。このままじゃ昼休憩終わっちまう。

 山都は身を起こして近くに置いてたかばんを引き寄せた。

「じゃーん。リュー特製お重でーす」

 中から紫の風呂敷包みが現れる。俺は目を見開いた。

「競技の準備でリューは一緒に食べられないだろうからってジョージと食べるように作ってくれたの。なにから食べる? おにぎり? 玉子焼き? ハンバーグ?」

 言いながら山都はお重を広げていく。

 さすがリュー先輩。体育祭の弁当の定番を抑えつつ、彩り鮮やかで見た目もいい。そして栄養価も高そうだ。

「え、なに。食べていいの?」

「もちろん。そのために早起きしてがんばったんだし。リューが」

 ……まぁそこは山都じゃないよな。リュー先輩が作ってくれるのは予想してたけど、まさかお重だとは思わなかった。いつもの山都の弁当を考えると多すぎるくらいだけど、俺も一緒となると丁度いいだろう。

 俺はてんこ盛りの取り皿を山都から受け取った。盛り過ぎだ。

「でもリュー先輩がおまえと昼一緒にするの許すとは思わなかった」

「んー、休むって言ってる手前、クラスの子たちとお昼は取れないからねー」

 そもそもなんで欠席なんだ? 具合は悪くなさそうだし、山都は体育祭とか好きそうだ。でも、なんとなくいつもと雰囲気が違う気がする。

「おまえ、どっか悪いの?」

 山都の肩がぴくりと揺れた。あれ、聞いちゃいけないことだったかな。

 そこで俺ははっとする。

「あー……悪い。ごめん。言わなくていい」

 女子の日って思い至らなかったことが恥ずかしい。仕方ないだろ、周りに親しい女子なんていなかったんだから!

 顔を赤らめる俺を見て、山都はきょとんとした。そうしてぷっと笑い出す。俺がなにを考えたか察したようだ。

「もー、ジョージセクハラー」

「だから悪かったって言ってるだろ!」

 こんなことリュー先輩にばれたら殺される。俺は昼休憩が終わるまで、必至に口止めする羽目になった。

 山都は閉会式までには帰るという。休んだ手前、クラスメイトに会うのは気まずい、と。

「ジョージ」

 昼休憩が終わるちょっと前。グラウンドに戻ろうとした俺を山都は呼び止めた。山都は笑ってはいかなかった。どこか思い詰めた表情をしている。

「ベース、やっぱりやる気はない?」

 忘れかけていた問いに、俺は固まった。

 いや、本当は忘れてなんかいない。あの日から、気がつけばベースを入れてある押し入れを見つめている自分がいる。

 そんな俺の思いを知ってか知らずか、踏み込んでくる山都。

 本当は、本当は俺は――

「……あぁ」

 俺はそれだけ言うので精一杯だった。

 山都は「そう」と小さく呟いた。

 午後の部の始まりを告げるアナウンスが聞こえた。がんばってね、と山都は言う。俺は手を振る山都を置いて、グラウンドへ戻ることにした。


 ちゃんと聞いておけば良かったんだ。山都が体育祭を休んだ本当の理由も、思い詰めた表情のわけも。

 後悔はあとからやってくる。


   *


 勉強合宿のおかげで、中間テストはまずまずの結果を残せた。もともと英語以外はそれなりに成績良かったんだ。英語が伸びたおかげで、総合順位もそこそこいいとこいった。

「おー! 勉強合宿の効果だね!」

「だからなんでおまえは勝手に覗くんだ!」

 いつぞやのように成績表を後ろから覗き込まれ、俺は大声を上げた。まったく……油断も隙もない。

「おまえは大丈夫だったのかよ」

「あたし? 学年二十番内には入れたよ?」

 まじかよ……。そういえばこいつはリュー先輩の妹だった。頭のできはいいらしい。

 俺はふと気がついた。

「そういやリュー先輩は? 俺らの勉強見てたけど、大丈夫だったのか?」

「自己採点では九割五分いったって言ってた」

 超人だな……。さも当然のように山都は言うけど普通じゃないからな? ていうか答案用紙回収されるんだから、自己採点って問題覚えてて後からやってってことか……?

「さっすが医学部目指してるだけあるな」

「まあね!」

 鼻高々に言うけれど、おまえのことじゃないぞ。

 山都はかばんをあさると、クリアファイルを取り出した。中から紙切れを取り出して、俺の鼻先にぴっと近づける。

「ところでライブ、行きませんか!」

 俺は紙切れに焦点を合わせた。紙切れだと思ったものは、チケットだった。そこには、

『ROCK JACK in MUSICA』

と書かれている。

「行かない」

「えー!? なんでー!?」

 なんでってなんで行くと思ったんだ。俺は山都とバンドをやらないと伝えたばっかだし、ムジカにいい思い出はない。行く理由がないだろ。

「なんででも」

「えー行こうよー。絶対楽しいよー?」

 こいつ……テスト終わってハイになってるな……? 体育祭のときはなんだったんだ。

 そう、俺はあのときのことをまだ引きずっている。あのときの山都は、いつになくおかしかった。あんなにしおらしい山都は見たことがない。

 ベースのことを考えて自分のことで精一杯だったけど、ちゃんと山都に聞くべきだったんじゃないだろうか……。

「とにかく! 土曜の四時に迎えに行くねー!」

「あっ、おい!」

 俺の胸ポケットにチケットを突っ込んだ山都は、あっという間に走り去ってしまった。まったく……。

 山都が普通にしてるから聞けないというのもあった。ただあの日ということでナーバスになってただけかもしれないし。元気にしてるならまぁいいだろう。

 ともかく。

「これどうしよう……」

 俺はチケットを手にうな垂れた。


   *


 チャイムの音が鳴り響く。何回も何回も何回も!

「近所迷惑だからやめてくださいよ!」

 玄関のドアを開けると、予想どおりそこにはリュー先輩がいた。後ろから山都が「やっほー」とひょっこり顔を覗かせる。

「三秒で出てこないのが悪い」

「無茶言わないでください!」

 山都の話し声が聞こえたから居留守は無理だろうなとは思ったけど、連続ピンポンとはリュー先輩も人が悪い。苦情が入ったらリュー先輩のせいだからな。本人には言えないけど。

 リュー先輩は俺を上から下まで見回す。そしてふんと鼻を鳴らした。

「なんだ、ちゃんと準備してるじゃないか」

 とは言ってもそんなにしゃれた格好ではない。

 兄貴に買ってもらったちょっといいTシャツに、ダメージジーンズ。お気に入りのコンバースのハイカット、そしてボディバッグ。ライブハウスには定番の格好だ。

「ムジカだからね! 身軽にいかなきゃ!」

 そういう山都は袖がふわっとしたアイボリーの短めワンピースに、スキニーデニムだ。服がシンプルな分、赤のカラフルなスニーカーを合わせている。だけど髪は下ろしたままだ。

「髪、引っかかるぞ」

「あとでちゃんとするからだーいじょーうぶ!」

 山都は追求から逃れるようにくるりと方向転換して歩き出した。リュー先輩が俺をじろりと見る。はいはい妹さんに小言言ってすみませんでした!


 久し振りのムジカは、あいかわらず繁盛していた。基本的にアマチュアバンド御用達のライブハウスだけど、たまに知る人ぞ知るなプロミュージシャンも使うライブハウスだ。それなりにやっていけてるんだろう。

 今日のROCK JACKはそんなマイナーミュージシャンが何組か出演する、いわゆる対バンだ。受験のときにラジオで聞いたことのあるバンドも出るようだ。

「あたしオーナーにあいさつしてくるねー。ジョージは先に入っててー」

 ムジカに着くやいなや、山都はスタッフオンリーの扉へと向かっていってしまった。リュー先輩も当たり前のようについていくから、俺は一人取り残されてしまった。

 俺もオーナーにあいさつすべきだっただろうか。中学時代は何度もお世話になったライブハウスだ。でも合わせる顔がない。

 スコアの最後のステージ。あの日は一曲目からもう息が合っていなかった。

 どんどんテンポが上がっていくドラム。湿度のせいかチューニングのずれるギター。歌詞を間違えるボーカル。

 そしてそんな彼らにイライラしっぱなしのベース。

 出るべきじゃなかったんだ。練習段階からギスギスしていた。だけどムジカのステージに立てるというプライドが、それを許さなかった。

 あの日、最後の曲。ギターとベースとドラムで締めるはずだった。噛み合ってなくても最後くらいは合わせようと思った。

 客席の唖然とした顔が目に浮かぶ。

 ラストの八小節。ライブハウスに響いていたのは、ベースの音だけだった。

「松橋くん」

 肩を叩かれてはっとした。振り返るとそこにはオーナーがいた。相変わらずワイシャツにベストで、どこにでもいるおじさんといった容姿だ。ロックバンド好きとは思われそうもない。頭の後退具合は歳のせいだろう。

「久し振りだねぇ。元気にしてたかい?」

 俺は喉が詰まって声を出せずにいた。

 あの日のライブ。台無しにした張本人は俺だ。終演後に何度も何度も謝って、オーナーはいいよと言ってくれたけど、もうムジカに来ることなどできずにいた。

 こんな容姿のオーナーだけど、バンド愛は誰よりも強いのだ。でなければ、何十年もここでライブハウスなど続けていられない。慕っているミュージシャンも多いのだ。

 まさか今日、オーナーと会うことになるとは思わなかった。心の準備ができていなかった俺は、オーナーに掛ける言葉を探していた。

「山都さんと同じ高校なんだって? さっき聞いてびっくりしたよ」

「はい、まぁ……」

 もっと気の利いたことを言えないのか、俺。オーナーが気を遣ってくれてるのが分かって、俺はいたたまれなくなる。

「本当に心配してたんだよ。スコアもノイズも実質解散ってことになっちゃったから」

「え?」

 ノイズが解散? スコアだけじゃなくて?

 山都はそんなこと一言も言ってなかった。人気絶頂だったノイズが解散する理由が思いつかない。

 たしかにベースを探してるとは言ってたけど、ギターボーカルとドラムは揃っている。どうして解散なんか……?

 しかし俺が聞き返す前に、客電が消えてしまった。

「楽しんでいってくれ。またここに通ってくれる日を待ってるよ」

 オーナーは俺にそう耳打ちをして、人波をかき分けて行ってしまった。

 MCがオープニングを告げる。山都は帰ってこない。まぁこの人だかりじゃ合流するのも無理な話だっただろう。

 さっきオーナーが言ったことが、頭の中をグルグルしている。俺は好きなバンドの演奏さえ集中できずにいた。


 MCがライブの終了を告げて、客がじわじわと出口へ向かう。俺はその人波に流されながら、無意識に視線をさまよわせていた。

 肩下までの髪が視界に映る。あいつ、結局髪結ばなかったのかよ。

 まだちょっと距離があるのもあって、俺は声を掛けられなかった。なんと言ったらいいのか分からないというのもある。

 向こうはこっちに気づいていない。ふいに山都は髪を耳にかけると、なにかを外した。あれは耳栓? なんでライブ中に耳栓なんかしてたんだ?

 山都が隣にいたリュー先輩からなにかを受け取った。それを耳にはめる。

 俺はその様子から目を離せなかった。なんであんなものを山都がつけなくちゃいけないんだ。山都は何事もなかったかのように、耳にかけていた髪をまた元に戻した。

 幸いにも二人はまだこっちに気づいていない。どくどくと早鐘を打つ心臓をどうにかする時間がほしかった。

 あれはどう見ても補聴器だった。


   *


 あの光景を俺が見ていたことにはやっぱり二人は気づいてなかったようで、ムジカを出たところで捕まった。

 帰り道。山都はあのバンドが良かった、あのフレーズは泣けた、などと絶え間なく語っている。俺とリュー先輩と交互に話しかけているから半分は生返事で聞けたけど、頭の中はずっと他のことを考えていた。

 山都の耳はその長い髪で隠されている。

 そういえば、こいつが耳を出しているのを見たことがない。この暑い季節、結んだ方がいいんじゃないかと思ったこともあるが、下ろしている方が好きなんだろうと口に出さずにきた。

 結局問い詰めることなどできず、家に帰り着いてしまった。

 眠れぬ夜が更けていく。


   *


 次の日、山都はまた学校に来なかった。担任はカゼで欠席だと言っていた。

 他の理由があるんじゃないかと今なら思う。LODのライブの次の日も、体育祭の日も、山都は休んでいた。あれは、耳に異常があったからじゃないか?

 俺はスマホに視線を落とす。山都からの連絡はない。元々俺から連絡した回数は少ない。いつも山都から一方的に着ていた。既読無視していつも怒られていた。

 今日は静かなスマホが憎らしい。


 屋上に向かったのはなんとなくだった。

 リュー先輩に連れ出されて以来、度々訪れていた場所だ。山都と来ることがほとんどだったけど、俺はこの場所が嫌いじゃなくなっていた。

 相変わらず部屋の押入れを開けるのは怖い。ケースに納められているとはいえ、ベースに触れるなんてしたら、きっとまだ手が震えてしまう。

 それでも、空を見渡せる開放的なあの場所で、ギターを手にする山都を見るのはなんだか泣きたくなるような思いを抱かせた。

 たぶん俺たちは、音楽なしでは生きていけない。

 俺は屋上のドアを開けた。

「……やっぱ来てたのかよ」

 屋上の柵にもたれかかって、山都は町を見下ろしていた。長い髪が風に揺れる。

 山都は首だけで振り返った。

「おはようジョージ」

「もう放課後だ」

 山都はふっと笑うと、また視線を戻した。それきりなにも言わない。

 夏の夕日が沈んでいく。部活の音や、帰り道に友達同士で話す声。そんなかすかな音が聞こえてくる。……山都には聞こえているのだろうか。

「見たんでしょ、これ」

 ふいに山都が髪をかき上げた。今度ははっきり見える。山都の耳にはしっかりと補聴器がはめられていた。

 俺は言葉を失った。

「気づいてた、のか……」

「一瞬目を反らしたのが見えたから。……あーあ、あたしもバカだよねー。LODのライブのときは気づかれなかったのに」

 そうだ、あの日のライブでは、山都は特になにもしてなかったように思う。髪を下ろしていたから補聴器をつけてたかは分からないけど、少なくとも補聴器と耳栓をつけ替えるようなことはしてなかった。

「騒音性難聴、って知ってる?」

 初めて聞く言葉だった。俺は首を横に振る。

「字のとおり騒音を聞き続けることで耳が聞こえなくなる病気なんだけど、ライブでなっちゃう人もいるんだって。あたしの耳が聞こえづらくなったのは、中三の秋だった」

 俺はぞっとした。四ヶ月近くそれを隠していたこともだが、その理由だ。だって、そんな。ライブでなるって――

「ライブのあとに耳が変になることない? 大抵はしばらくしたら治るけど。いつものようにノイズのライブを終えたあと、あたしの耳はいつまで経っても治らなかった。病院に行って初めて、あたしの耳はもうこれ以上良くなることはないって知ったの」

 俺は目の奥が熱くなった。

 だって、こんなのあんまりだ。山都は誰よりも音楽を愛している。歌うために生まれてきたような人間だ。

 なのに、そんな彼女から音を奪うようなことをするなんて。

 俺は神様を恨んだ。

「そんな顔しないでよ」

「だって、おまえはどうして泣かないんだよ……」

 山都は困ったように小さくため息をついて、空を仰いだ。

「もう充分泣いたしね。もう泣かない。だってあたしには時間がないの」

 彼女の声には固い決意が込められている。夕日が逆光になって、山都の顔はよく見えない。だけど泣きそうな顔をしている気がした。

「あたしの聴力はどんどん落ちてってる。本当はこの高校に行くのもいい顔されなかったの。特別支援学校に行けって。でも、どうしても完全に聞こえなくなるその日まで音楽をやりたかった……。一年だけって条件でこの高校に通わせてもらったの」

 今なら山都が必死だった理由が分かる。もう七月だ。残された時間は少ない。

 なのに山都はずっと俺をベースにと望んできた。

 なんでなんだよ。こんな頑なで性格悪くてめんどくさいやつなんかよりも、もっといいベースはいっぱいいるだろ。

「なんで、他をあたらなかったんだよ」

 山都は一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。

「あたしね、ずっとジョージの演奏見てきたんだよ? 正確でかっちりしてて、窮屈そうなベースだなって思った。でも真摯に音楽に向き合ってるんだなって伝わってきた。この人と弾けたらどんな風になるんだろうって考えてたの。でもそんなときに病気になっちゃって、スコアも解散して連絡の取りようがなくて、途方に暮れてた。高校でどうにか探せたらって入学してきたら、ジョージがいるじゃない? 入学式の日に一目見てビビっときたの。これは運命だって。やっぱりジョージがいいって思ったの」

 運命なんて。そんなのただの偶然だ。ノイズならベースやりたがるやつなんか捨てるほどいるだろ。俺じゃなきゃいけない理由にはならない。

「こんな理由じゃ弱い? ……本当はもう一つあるの。ジョージが嫌がるだろうから言いたくないけど」

「言えよ。いまさらだ」

 耳のことを黙っておかれた以上にダメージ受けることなんかなさそうだ。俺が続きを促すと。山都はやっぱり言いよどんだけど口を開いた。

「ジョージのベース、ピッチもテンポもしっかりしてるじゃない? あたしの耳はもう大分聞こえなくなってる。だから、あたしが少しずれただけでもちゃんと言って修正してくれるんじゃないかなーって……」

 山都は言葉が尻すぼみになっていく。なんだそんなことか。

「スコアの最後のライブ見たんだろ? あれが嫌じゃないのかよ」

 俺の正確さが合わなくて、解散になってしまったスコア。正直、あれを繰り返すかと思うと気が滅入る。

「嫌じゃないよ! あたしならジョージに合わせられる!」

 山都は俺の腕を掴んで勢いよく言った。……近い。俺は動揺を悟られないように、山都の手を離した。

 でも俺も同じことを思った。山都となら、合わせられるんじゃないか? そんな予感がした。

「だからお願い! あたしと一緒にバンドやろう!」

 ったく。そんな事情があるんなら、最初から言えよな。まぁあの頃の俺じゃあ拒否るしかなかったかもしれないけど。

 俺だってノイズのヤマトのギターはそれなりに気に入ってたんだ。激しいのにすとんと心の中に落ちてくるようなギターだった。歌は言わずもがな。『ノイズ』なんてバンド名がもったいないくらいに。

「あのさ、なんで『ノイズ』なの」

 気になってはいた。そりゃあロックバンドだから清涼音とは言わないけど、ノイズだなんて似合わない。山都の歌は胸を打つ。

 山都は目を伏せた。さっきよりも夕日は沈んで、彼女の表情がよく見える。

ノイズ雑音って言っとけば、なにしても許されると思ったの」

 なんだそれ。おまえは自分の価値を分かってない。日本中の人を感動させられる歌声を持ってるというのに。

 いつだったか、リュー先輩の言ってたことを思い出した。


『あいつは歌うために生まれてきたような人間だ。俺はそれを邪魔するものが許せない。由真が好きに歌えるためにはなんだってするつもりだ』


 なんて大げさなと思ったけど、今ならその気持ちが分からんでもない。音を失いつつある彼女に、悔いのないように歌わせてやりたい。

「ねぇ、やっぱりノイズに入るのはいや……?」

 山都は恐る恐るといった様子で問いかけてくる。

「いやだ」

「なんで!?」

 山都はこの世の終わりのように叫んだ。最後まで聞け。

「おまえの歌はすごいんだ。ノイズ雑音なんて言わせねぇ」

 ノイズの対義語……ノイズ……NOI……。

「そうだエシオン! バンド名をESIONエシオンにするなら入ってもいい」

 雑音なんかじゃない。その反対だ。

 山都はぽかんとしている。

「あははは! ジョージったら、雑音の反対は純音だよ! 英語で言ったらPURE TONEかな?」

 山都はなおもおかしそうに笑う。

 そうなのかよ……。英語苦手なのがあだになった……。

「~~ならピュアトーンでも……」

「でもいいね、エシオン。ノイズより好きかも」

 言いながら山都はポケットからスマホを取り出す。その顔は泣きそうなものでも、切羽詰まったものでもない。穏やかなものだった。

 その顔を見て、心臓がどくんとなった。

 ……なんだこれ。いや、分からんでもない。この感覚に覚えがないわけでもない。

 でも山都だぞ!? 猪突猛進アホ女! いや、それだけじゃないって今なら分かるけど……。

 そこで俺のスマホが鳴って、びくっとした。画面にはリュー先輩から着信と表示されている。

「なんでリュー先輩……?」

「あ、あたしが今メッセ送ったからかも。ジョージがエシオンじゃないと入らないってごねてるって」

「山都ー!!」

 どうすりゃいいんだ。出ても地獄、出なくても後から地獄だろ絶対。

 何コールも鳴ってるはずなのに、一向に鳴り止む気配がない。俺は仕方なく通話ボタンをタップした。

『遅い』

「すみません……」

 開口一番それかよ。超絶怖い。顔が見えない分、より冷たく聞こえる。

『ベースやるって本当か』

 リュー先輩は静かに言った。俺はうっと押し黙る。

「……はい」

『そうか。ならこれからよろしく頼むな』

「へ?」

 俺は間抜けな声を上げてしまう。もっと嫌味を言われるのかと思った。大事な妹のバンドに気に入らない男を入れるんだ。大反対してもおかしくないかと思ってた。

「これでもリュー、ジョージのこと気に入ってるから」

 山都がそっと耳打ちしてくる。

 そうなのか? ほんとにリュー先輩は分かりにくい。

『おい返事は』

 ぶっきらぼうな物言いも、それを知った後ではなんだかおかしく聞こえてくる。

「はい、よろしくお願いします」

 リュー先輩がふんと鼻を鳴らす。

 山都が満面の笑みを浮かべる。


 過去が完全に払拭されたわけではない。まだ不安なこともある。俺のベースの腕前も、山都の耳のことも。

 それでもこいつが笑ってくれるなら、ベースの一つや二つやってやる。くそ、これが惚れた弱みか……。

 またベースを弾ける。

 そのことに、俺の胸は高鳴っていた。

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