Aメロ

 高校入学にあたって決めたことが二つある。

 一つは『他人に期待しない』こと。

 人に頼ったらろくなことにならない。十五年生きてきて、身に染みて分かった。大抵のことは自分だけでやった方がうまくいく。「思いやりが大事!」なんていっても、まったく同じように考えることのできる人間なんていないのだ。だったら最初から一人でやった方が、めんどうがない。

 もう一つは――


「ジョージ見ーっけ!」

「おわっ!」

 背中になにかがぶつかってきて、俺は廊下に盛大に転んだ。

 いや、『なにか』の正体はわかっている。声を聞くまでもない。こんなことをするのはあいつだけだ。

「ねぇねぇ今日はお昼どこで食べるの? 中庭? グラウンドの片隅? それとも教室のすみっこ? 屋上行こうよ屋上。いいものあるよー?」

 声の主は、転がる俺を気にすることなく畳み掛けてくる。「あっそれとも学食? じゃあ一緒するー」じゃねぇよ。マシンガントークやめろ!

「いいかげんにしろ山都!」

 俺は勢いよく起き上がって、彼女に怒鳴った。彼女は一瞬きょとんとして、それからにっと笑う。

「それとも、お手製弁当食べる?」

 そう言って、小さな巾着に包まれた弁当を掲げる山都に、俺は盛大にため息をついた。

「食べないほっとけどっか行け」

「ジョージつれなーい!」

 腰をくねらせて言う山都を置いて、俺は歩き出した。だけどこいつはしつこく付いてくる。

 こうなったらてこでも離さないのがこいつだ。捉まった時点でもう諦めてる。

「ジョージ?」

「屋上、行くんだろ?」

 俺は首だけで振り返って言った。山都は一瞬きょとんとして、それから満面の笑みを浮かべた。

 ……俺も大概甘い。


   *


 山都がこうなのは、入学式の日からだった。


 俺の中学からこの高校に進学したのは俺だけで、知り合いなんて誰もいない。ざわつく教室で、俺は一人黙って自分の席に座っていた。

 変化があったのは、自己紹介のときだ。

「水前中から来た松橋まつばせ譲二です。よろしく」

 それだけ言って、座ろうとした。誰かと仲良くするつもりはない。これで充分だ。

「え!?」

 だけど座ろうとする俺を引き止める声が上がった。

 振り返ると、髪の長い小柄な女子が立ち上がっている。ぱっちりとした目は驚きに見開かれていて、俺の方に向けられていた。

「なんだー? 山都。まだお前の番じゃないぞー?」

 担任がそう言って、クラスに笑いが起きる。

「あ、すみませーん。ついでだからあたし、自己紹介しちゃっていいですか? 武丘中出身、山都由真でっす! 好きなことはギターと歌うこと。あとスイーツも好きだしおしゃべりすることとかみんなでわいわいすることも好き! よろしくねー!」

 山都うるせーぞー、と声が上がり、教室が笑いで包まれた。

 俺はそっと座って、賑わってるのをぼんやり見てた。

 とりあえず、目立たずにすんで良かった。友達なんて作るつもりはない。よろしくなんてする気もない。あの女子が声を上げた理由は分からないけど、教室中の注目はもうあの子に移っている。

 いるよな、ああいうやつ。ステージでも目を惹くやつが……ってもうあのことは忘れることにしたんだ。もうあんな思いはしたくない……。

 そうこうしてるうちにホームルームも終わって、下校の時間になった。今日から部活見学できるらしいけど、俺はどの部活にも入るつもりはない。カバンを手に教室を出た。

 学校から徒歩十五分のマンションには、元々兄貴が住んでいた。うちからだとちょっと学校までは遠くて、住まわせてもらうことになったのだ。

 二つの足音が重なる。随分前から気付いてはいたけど、俺はようやく足を止めた。もう一つの足音も止まる。

「あのさ、なんか用?」

 振り返った先には、クラスの女子がいた。自己紹介のときに割り込んできたやつだ。本気で尾行がばれてないと思ってたようで、突然振り返って驚いた顔をしている。

「家がこっちとかじゃねぇよな、その顔じゃ。なんか俺に言いたいことでもあんのか?」

 彼女は振り向いたときこそ慌てふためいていたが、俺がそう声を掛けると意を決したかのようにぐっと拳を握った。

「松橋譲二くんだよね?」

「あぁ」

「あたし、同じクラスの山都由真」

「あぁ」

 そういやそんな名前だった。

 山都由真はそこで言葉を切る。一つ呼吸をして、口を開いた。

「ムジカ、って知ってるよね?」

 その言葉を聞いて、俺は息を呑んだ。

 忘れたくても忘れられない。それは俺が中学時代を捧げた場所だった。

 ライブハウス・ムジカ。

 その名前を聞いた瞬間、鮮やかな光景が頭の中に蘇ってくる。……やめろ。もう忘れたいんだ。

 俺の反応を見て、山都由真は確信したようだった。

「やっぱり! ねぇ、あのね……」

「知らねぇ!」

 気づいたら叫んでいた。

 山都由真ははっと身を竦ませる。それでも俺の言葉は止まらなかった。

「ムジカ? 知らねぇよそんなライブハウス。誰かと勘違いしてんじゃねぇの? 勝手なこと言って、俺に関わらないでくれ!」

 そう叫んで彼女に背を向けた。早歩きの歩調がだんだん駆け足になる。

 一刻も早く一人になりたかった。

 彼女は追ってはこなかった。


   *


 バタンと玄関を閉めて、しんとした家で俺は浅い呼吸を繰り替えした。兄貴は夜遅くにしか帰ってこない。こんなところを見られなくてほっとした。

 乱暴に靴を脱いで、自分の部屋へ向かう。適当にカバンを放り出して、ぼすんとベッドに腰掛けた。

 閉ざされた押入れが目に入る。そこにある物の姿形を、俺は鮮明に思い浮かべることができた。

 思い出したくない。

 俺は横になって、目を閉じた。


 中学時代の俺は、たぶん教科書を開いている時間より楽譜を見ている時間の方が長かったと思う。

 お年玉と小遣いを貯めて買ったベース。憧れのバンドと同じものはさすがに買えなかったけど、楽器屋で弾かせてもらってすぐにこれと決めた。

 黒光りする重厚なベース。初めて手にした自分の楽器に、胸を躍らせた。どんな音楽だって奏でていけるんだと思っていた。

 楽譜の読み方を勉強して、CDを何度も聞いて、音楽に合わせて弾いて。何度も弦に這わせた左手の指は、だんだん固くなっていった。

 一人で弾いてるだけでは飽き足らなくなってくる。ベースだけじゃバンドにはならない。

 楽器屋の掲示板には、バンドメンバー募集の張り紙がたくさんあった。高校生のベースを募集していたバンドに、俺は連絡を取った。

 募集していたのは高校生だったけど、俺はなんとかメンバーに入れてもらった。

 そこからは楽しい日々だった。学校から急いで帰って、ベースを引っ掴んでスタジオへと駆ける。一曲、また一曲と弾けるようになるのが楽しかった。

 家にいる時間も、メトロノームに合わせて弾いていた。近所からうるさいと言われないか心配でアンプには繋げなかったけど、ベースをいじってるだけで楽しかったのだ。

 だからこそ。


『おまえのベース、気持ち悪い』


 はっとした。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。俺はベッドに横たわったまま、目覚まし時計に手を伸ばした。五時三十七分。昼過ぎには帰ってきたから、大分寝ていたようだ。

 腹がぐううと鳴った。こんな気分のときでも、腹は減るんだな……。

 苦々しく思いながら、俺は身を起こした。

 その視界に、押し入れの扉が入る。

 実家に置いてくることなどできなかったベースが、その中にはケースに収められたまま横たわっている。

 弾き手をなくしたまま。


   *


 俺と兄貴の生活はすれ違いだ。深夜に仕事から帰ってくる兄貴を起こさないように準備してから、俺は家を出た。

 四月の朝の空気は、まだ少し冷たい。最後にベースを触ったのは秋だった。あのときもこんな空気だったな。随分遠くに来たように感じてしまう。

「ジョージおっはよー!」

 突き飛ばされた。

 転びかけた俺はなんとか踏みとどまって、背後を振り返る。顔を見るまでもない。この声、それにこんなことをするやつは、今のところ一人しか知らない。

「またおまえか……」

 そこには山都由真が笑顔で立っていた。肩甲骨までの髪はふわりと下ろしていて、背中のリュックに流れている。両手は俺を突き飛ばしたときのパーのままだ。

「おはよー! いい朝だね。調子はどう?」

「おまえに会うまですっげー元気」

 俺はげんなり言う。山都由真を置いて学校に向かおうとした俺だったが、そのとき彼女の隣に立つ存在に気がついた。

「紹介するね。美里理宇みさとりう。あたしのいとこ! 気軽にリューって呼んでね。リューはドラムだよ!」

 ドラムと聞いたところで身構えてしまう。この人もバンドメンバーなのか……。

 恐ろしく綺麗な人だった。学ランだから男だよな? 山都由真とはあんまり似てないけど、いとこならそんなものだろう。襟元の校章が青だから、三年生だ。メガネの奥の切れ長な目が俺を鋭く射抜いている。

 ん? 鋭く?

「貴様がジョージか」

 貴様って日常生活で初めて聞いたな。と明後日なことを考えていると、美里先輩は俺の目の前に立ってじろじろ見下ろしてきた。

「あんまり調子に乗ってんじゃねぇぞ? ちょーっと由真に気に入られてるからって勘違いするなよ? 由真は別にお前個人が気に入ってるってわけじゃなくて、ベースの腕を認めてるだけだからな?」

 前言撤回。シスコンな美人だ。いや、いとこでもシスコンって言うのか?

 その顔からは想像もつかないドスの効いた声を出されて、俺は言葉を失った。

「もうリュー! ジョージはこれから仲間になるんだから、そんなに威嚇しちゃダメだってば!」

「いや俺バンドメンバーになるなんて、一言も言ってないよな!?」

 なんで勝手に話が進められてるんだ。メンバーになるなんて一言も言っていない。

「今は、バンドの話はしてないよ?」

 小首を傾げて言う山都由真に、俺は苦虫を噛み潰したような顔をした。こいつ、絶対確信犯だ。にーっと笑って俺の顔を覗き込んでくる。

「仲間になるとも言ってねぇ」

 今度こそ俺は、山都由真を置いて歩き出した。が、行き先は一緒なのだ。脇を山都由真と美里先輩に固められた。

 もう一緒に行くしかないのだろう。諦めた。だって車道側の美里先輩の圧力がすごいのだ。すっごい目で見てくる。怖くてそっちを見ることができない。もう視線だけで「本当は貴様となんか登校したくはないが、可愛いいとこのお願いなら仕方がない。彼女と並んで歩けるだけでも光栄に思え」と言っているのがひしひしと伝わってくる。

「ジョージのアパートの向かいのアパートあるでしょ?」

 ふいに山都由真が言った。

「あぁ、あの洋館みたいな……」

「あれあたしの家」

「は?」

「これから登下校一緒にできるね!」

 親指を立ててウインクをしてくる山都由真。

 俺は頭を抱えた。最悪だ……。昨日、たしかに家がこっちじゃないとは言ってはない。

「お前、昨日なんであんなに驚いたんだよ」

「昨日?」

「俺が家こっちじゃないよなって言ったとき、驚いてただろ」

「あぁ。あれはジョージになんて声かけよっかなーって思ってたときに、急に振り返ったからびっくりしたの。そういえば家こっちって言うの忘れてたー」

 あははと笑う山都由真に、俺はがっくりと肩を落とした。

 確信。こいつはただのバカだ。ムジカのことを知ってて焦ったけど、気にすることはない。俺はもうバンドなんてやることはないんだ。

 なんて考えてたら、頭を鷲掴みされた。

「おい、由真のこと『お前』だなんて呼んでんじゃねぇぞ?」

「いだだだだ! すみませんでした離してください美里先輩!」

 痛ぇ。まじで痛ぇ。この人ドラマーだから握力強いのか?

 慌てて謝ると、美里先輩はあっさり離してくれた。

「リューでいい」

「は?」

「リュー自分の苗字キライだもんねー」

 美里……いや、リュー先輩の方を覗き込んで、山都由真は言う。なんでだ? 女っぽいからか?

「ていうかなんでジョージ?」

 俺は今さらな質問をぶつける。昨日初めて会って、あんなことを言ったのに、下の名前で呼んでくる山都由真の神経が俺には分からない。

 山都由真はにっと笑った。

「スコアのジョージでしょ?」

 やっぱりそれ知ってるのか……。昨日聞かれた時点で薄々気づいてはいたけど、改めて言われると居心地が悪い。中学時代にやってたバンド名を出されて、俺は眉をひそめた。

「あたしがギターボーカルで、リューがドラム。あたしたち、ベースができる人を探してたの。ねぇお願い、ベースやってくれない?」

 学校が近づいてきて、生徒の数も増えてきた。ちらちらこっちを見てる人もいて、リュー先輩はやっぱもてるんだろうなぁと考えていた。

 山都由真は俺に向かって手を合わせている。

「悪い、高校ではもうベースをやらないって決めたんだ」

 高校入学にあたって決めたこと。


『他人に期待しないこと』

『二度とベースを弾かないこと』


 あんな思いはもうたくさんだ。

 立ちすくむ山都由真とリュー先輩を置いて、俺は教室へと向かった。

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