その8:親の心子知らず

 買い物に出かけたあの日から一週間が経っても、セルジュからもらったリボンは、まだ一度もアンリエットの髪を飾ったことがない。

 それどころかアンリエットは、そのリボンを机の引き出しの中にしまい込んだまま、時折取り出しては眺めるだけだ。

(だって、汚したりしたらもったいないし……それにこんな綺麗なリボン、あたしには似合わないんじゃないかなぁ……)

 今朝も着替えを済ませたアンリエットはリボンを手に取りながら悶々としていた。

 あれからセルジュとはタイミングが合わないのか、会っていない。どうしてリボンだったのか、どうしてこの色なのか聞くこともできなかった。

(いやきっと会ったところで聞けないけど! だってそんな、自意識過剰っぽいよね!?)


 ――このリボンはもしかして、あなたの瞳の色と同じものを選んだんですか。なんて。


(聞けるわけない……!!)

 考えただけで恥ずかしくて、アンリエットは声にならない悲鳴を飲み込んでその場に蹲った。

 セルジュが渡してきたのは本当に小さな袋だったので、きっとクッキーとか飴とか、食べたら消えてしまうようなものをくれたのだと思っていた。

 それはそれで食い意地がはっていると兄のディオンなら笑うだろうが、アンリエットはそれどころではない。

「セルジュ様に会ったらお礼を言わないとダメよね……とはいえなかなか会えないんだけど」

 仕事ではもともと会う機会はないし、昼食の時もセルジュはいつもの東屋にやってこない。お互い暇ではないし、セルジュはアンリエットよりも多忙の身だ。一週間くらい会わないのは不思議なことではない。

(ただお礼を言わないままだと、あたしがなんとなく居心地悪いだけで……)

 会うのは少し恥ずかしい気がするし、けれどお礼はきちんと言っておきたい。かれこれ一週間ほどアンリエットはずっとそんなことを考えながら過ごしている。

 しかし悩んでばかりいるのはアンリエットらしくもない。馬鹿真面目で前向きなのは自分の長所だと思っている。

 リボンをもらったことによる気恥ずかしさはアンリエットが勝手に感じているもので、セルジュにお礼を言うこととは別問題だ。

「今日あとで訓練場のあたりまで行ってみよう……!」

 普段なら筋肉との接近を恐れて極力近寄らないのだが、そんなことを言っている場合ではない。

 一週間そわそわしていたせいで、ベルナデットやニノンからはセルジュと何かあったのではと勘ぐられているのだ。

 別になんでもないのだとアンリエットが答えても聞く耳をもたないものだから、ほとほと困っている。

(セルジュ様からもらったリボンでもやもやしてるから何もないわけじゃないのかな……でもあたしが勝手にそうなっているだけだから、セルジュ様は何も悪くないし……)

 いや、めぐりめぐってセルジュのせいのような気もしてきて、アンリエットはうーんと首を傾げる。

 そして部屋の時計を見て悲鳴をあげた。


「ち、遅刻するー!!」


 いつも早め早めに行動しているのに、うっかり悩みこんでしまって出勤時間ギリギリになっていた。




 全速力で走って、アンリエットはどうにか遅刻を免れた。王女の親衛隊の一員がばたばた走り回るなんて、と隊長からはお叱りを受けたのは自業自得なので仕方ない。

 業務後にでもセルジュを探してみようと思っていたのだが、アンリエットはちょうど訓練場の近くにある第三騎士団へ荷物を届けることになった。普段ならば他の同僚が変わってくれたりもするのだが、今回は大丈夫だと気持ちだけ受け取ることにする。


(あれは筋肉じゃない、ただの肉……)


 すれ違うたくましい騎士たちを極力見ないようにと心がけながら、アンリエットは自分自身に暗示をかける。ただの肉だ、筋肉ではないと。

(でもあれが全部ただの肉ってことは、脂肪よね? あれに押し潰されたら、それはそれで圧死しそう……)

 ふとそんなことを考えてしまったものだから、筋肉であろうと贅肉であろうと圧死や窒息死はごめんだと震え上がる。いやでもやっぱり筋肉の方が怖い。


「アンリ?」

「きゃああああ!?」


 ぽんと肩を叩かれてアンリエットは驚きのあまり声を張り上げた。

 周囲の騎士が何事だと警戒するが、すぐさま訂正が入る。

「悪い! なんでもない! 妹が驚いただけだ!」

 よく通るその声は、落ち着いて聞いてみれば兄のものである。

「兄様! 驚かさないでくださいよ!!」

 半ば八つ当たりなのは自覚してるが、それは身内の甘えでついつい兄に食ってかかる。だって本当にびっくりしたのだ!

「そんなに驚くなんて思わなかったんだよ。どうしたこんなところで」

 おまえがいるなんて珍しい、とディオンは目を丸くしている。

「だ、第三騎士団に届けものがあって……」

「ああ、これか? じゃあ俺がこのまま持っていくわ」

 ひょいとアンリエットが抱えていた荷物をディオンが持ち上げてしまう。

(いや、確かに兄様に渡してしまえば済むんだけど、でもまだセルジュ様を見つけてないし!)

 第三騎士団の副団長である兄に渡したのならアンリエットの任務は完了だ。ここにいる口実がなくなるし、ここまで来た意味もなくなってしまう。

「で? わざわざそんな仕事受けた理由は?」

 兄にはアンリエットがここにやってきたワケもお見通しだったらしい。うう、とアンリエットは周囲の筋肉を見ないように俯いて兄な問いかける。なんせ目の前を見ても筋肉がいるのだ。

「セ、セルジュ様を見てない……? その、一言お礼だけ言おうと思って」

「第一騎士団なら今は出払ってるけど。お礼?」

「この間買い物に付き合っていただいたから……って兄様! セルジュ様をいいように使ったらダメですよ!? 慰謝料ケーキはしっかりいただきましたけど!」

 ディオンにお説教をしておかねばと思っていたのにすっかり忘れていた。ここで良しとしてしまうと兄のことだからまた同じようなことをしでかすだろう。それではセルジュに迷惑をかけてしまう。

「ああ、あれな。だっておまえ、俺と一緒よりあいつとの方が気楽だろ?」

「兄様の暑苦しい筋肉を見なくて済むのは嬉しいですけど、気は使いますよさすがに」

 家族である兄とは違う。もちろんいくら家族だとはいえ、筋肉は嫌なのだが。

 あんな美形と一緒にいてまったく緊張しないなんて、そんなわけがない。

「筋肉と対面するのとどっちが困る?」

「え、筋肉ですけど」

 即答だ。考えるまでもない。

 セルジュと知り合って間もない頃なら少しくらいは悩んだかもしれないが、もう何度も一緒に昼食をとっているし、会話が途切れたところで沈黙で居心地悪くなることもない。

(ま、まぁセルジュ様は素敵な方だから、どきどきすることはあるけど、それはそれだし)

「だからやさしい兄である俺はあいつに頼んだんだろうが。そのほうが落ち着いてケーキも味わえるだろ?」

「ええもちろん! ケーキはしっかり美味しくいただきましたとも! ……まさか兄様がそんな気遣いをするとは思いませんでした」

 ディオンの図太さやデリカシーのなさは妹としても呆れ果てるほどだったのに。

「おまえな……一応俺だって気にするし、父さんたちだって気にかけてるよ」

「筋肉ダルマとお見合いさせておいて!?」

 アンリエットが筋肉嫌いだと、両親はさっぱり信じていないのだとばかり思っていた。口先だけだと笑っているから、騙してまで筋肉ダルマとお見合いをさせたのだろうと。

「あれは荒療治でどうにかならんかと……」

「荒療治にもほどがあります!」

 ショック療法のつもりだろうか。それにしたって逆にさらに嫌いになる可能性を考えなかったのか。

「今回の見合いだって、おまえのことを思ってだぞ? 親衛隊から他の騎士団に移れば嫌でも俺みたいな筋肉野郎はいるし。おまえ、それでまともに仕事できんのか?」

 兄の容赦ない問いかけに、アンリエットは口籠もった。

「う……で、できますよ、仕事ですもん。慣れれば大丈夫です」

「さっきデッカイ声出しておいて?」

 ただ驚いただけではあれほど大袈裟な反応にはならない。苦手な筋肉だらけの空間にいたものだから、アンリエットは常よりもびくびくしていたのだ。

「うう……だったらなんで父様は王妃様の親衛隊への配属をなかったことにしやがったんですか!」

 親衛隊ならば筋肉ダルマとの接触も極力避けられる。今までのようにとはいかなくても、限りなく今までに近い形で働けたはずなのだ。

「口が悪いぞアンリ。王妃様の親衛隊なんて、おまえが思っている以上にハードだぞ? それに王女様の親衛隊と違って女ばかりってわけにもいかない。下手すりゃ他国の騎士との交流もある。やっぱりおまえにはきついよ」

 自国の騎士たちなら、アンリエットの事情を説明すれば多少はどうにかなるかもしれない。けれど訪問してきた、あるいは訪問先の騎士に失礼があっては、それはアンリエット個人ではなく国の問題になる。

「……そ、それは」

 そうかも、しれないけれど。

 全部親心だった、なんて言われてしまうと、アンリエットはどうしたらいいのかわからなくなる。騎士は続けたい。けれど筋肉嫌いのアンリエットがうまくやっていける配属先なんてそうそうない。

 だから両親はお見合いをさせようとしたのだ。騎士を続けるのが難しいなら縁談を。それはごくごく普通の考えだろう。

 しかしここで認めてしまうわけにはいかなかった。だってアンリエットは、まだ騎士でいたい。まだまだ経験していないことも多い。満足に騎士としての務めを果たせたとも思えない。


「つまりその苦手意識をどうにかしないと、行き場はねぇぞって話だ。そんときは……まぁ、仕方ないからうちで面倒見てやるよ」


 アンリエットの心の内を汲み取ったのか、ディオンがぽんぽん、とやさしく頭を撫でる。

 うち、というのは第三騎士団のことだろう。ディオンのフォローがあればどうにかなるだろうか……と考えてアンリエットは目を伏せる。


(結局あたし、自分一人じゃどうにもできないのかな……)



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