その9:手を伸ばすには遠すぎる

「ねぇアンリ、近頃元気ないんじゃない? 悩みでもあるの?」


 アンリエットが黙々と頼まれた事務仕事をこなしていると、ニノンが声をかけてきた。

「え、顔に出てる?」

 思わずアンリエットはペンを握ったまま自分の頬を触る。ふにふにとするばかりで触ったくらいでは表情はわからなかった。

「出てる出てる。やっぱり配属のこと? ……それとも、もしかして恋の悩みかなぁ?」

 にやっと笑うニノンに、アンリエットは苦笑した。おそらくセルジュとの関係を根掘り葉掘り聞きたいのだろうが、ニノンが楽しめそうな話題はない。

「残念ながら恋の悩みなんてあたしには無縁だよ」

 今はそれどころじゃないし、とアンリエットは付け加える。

 ベルナデットの誕生日まで残り一週間となった。そしてさらにその一週間後にはこの国を発ちベルナデットは向こうの国で一定期間過ごしたのちに結婚することになっている。つまりアンリエットはこのままだとあと半月で無職になってしまう。

 親衛隊はベルナデットが嫁ぐ日が近づくごとに緊張感が増しているし、城内もばたばたとしている。


「あたしがやっていけるような配属先って、そうそうないんだよね……」


 はぁ、と重いため息を吐き出しながらアンリエットは呟いた。まぁねぇ、とニノンは苦笑いだ。

「アンリの筋肉嫌いは筋金入りだしね。騎士を続けたいなら克服するのが一番じゃない?」

「……考えただけで吐きそう」

「そこまで拒絶反応が出てると難しいかなー……。好きになれるように筋肉の良さを語ったところでもう耳にタコが出来てるでしょ?」

「今まで何度も実家で死ぬほど聞かされたからそれすら嫌」

 だよね、とニノンは笑う。家族が集まるともれなく筋肉自慢大会が始まるのだ。アンリエットにとっては悪夢になるほど嫌な記憶である。

「そうなると、やっぱり地道に慣れていくしかないんじゃない?」

「……そうだけど」


 ――そんな時間はない。

 アンリエットが筋肉に慣れる前に、期限はくる。アンリエットは騎士でいられなくなる。


「第二、第三騎士団はわりと筋肉自慢の人が多いんだよね。街で諍いがあれば止めに入るわけだから、腕っ節はもちろん、見た目もけっこう強面が多いし。いっそ頑張って第一騎士団を目指したら?」

「エリート中のエリートだよ、あたしじゃ無理でしょ……」

 ニノンの言う通り、ディオンが副団長を務める第三騎士団はほぼ筋肉騎士の集団だ。第二騎士団はそれが少しマシになる程度。もちろんどちらにも数名の女性騎士はいるが、その割合はかなり低い。

 第一騎士団の筋肉率はそれらに比べるとかなり低めだ。セルジュのような、細身でも実力ある騎士が多い。潜入捜査などもあるらしいので、変装したときに騎士とバレにくい人材が多いのだろう。

「確かに狭き門だけど、仕事は多岐にわたるから、その点柔軟だし。何より美形が多い……!」

 最後に随分と力がこもっているので、アンリエットは思わず笑ってしまった。ニノンはけっこうミーハーだ。

「それにさ、ほら。一人だけ女性騎士もいるじゃない」

 精鋭部隊である第一騎士団にもたった一人、女性の騎士がいる。ニノンはまったくの夢物語でもないと言いたいのだろう。

 セルジュのことは知らなかったアンリエットでさえ、第一騎士団の女性騎士は名前を覚えている。

「……第一騎士団は憧れだけどね」

 あくまで憧れだ。アンリエットが手を伸ばしたところで、あまりにも遠すぎて虚しくなるだけ。




 結局、先日はディオンと話したあとに勤務に戻り、それからセルジュには会えていない。

 昼の休憩時間となったのでアンリエットはいつものように持参したサンドイッチを手に東屋に向かう。

(筋肉に慣れるためには、お昼も食堂を使ったほうがいいんだろうけどなぁ……)

 歩きながら筋肉に囲まれて食事する自分を想像して、食欲も失せる。そんな落ち着かない昼食はごめんだ。

(……食べたもの吐き出しちゃうかもしれないし)

 やめておこう、とアンリエットは深く頷いた。


「アンリエット」


 名前を呼ばれて、アンリエットは立ち止まる。十日ぶりに聞くその声は、アンリエットの中で色褪せていなかった。

「セルジュ様! お久しぶりです」

 まだ東屋にはついていない。途中で会うのは初めてだ。

「なんだか最近お忙しそう……ですね?」

「近頃は少し慌ただしくて。今日もこれからまた出かけます」

「あ……そうなんですね」

 てっきりセルジュも東屋へ向かう途中なのだと思ったのだが違ったらしい。ちょっぴり寂しい気もして、アンリエットは声を落とした。

「慶事に便乗して悪さをしでかす輩が少なくないですからね。街もいつもより警備が厳重になっているでしょう?」

「そうみたいですね。親衛隊でも、少しピリピリしてます」

 緊張感の増した空気に、アンリエットも気が引き締まる。同時にその場を離れた途端にどっと疲れが押し寄せてくるので、最近は仕事のあとはすっかりくたくただった。

「この大事な時期にベルナデット王女に何かあったら大変ですからね」

 万が一、ベルナデットが怪我をするようなことがあれば。その怪我で出立が遅れたら、いや、傷跡になるような怪我だったら。

 考えただけで冷や汗が流れる。

 青くなったアンリエットを見て、セルジュがくすりと笑う。しかしその顔色はあまり良くなかった。

「……セルジュ様、ちゃんと食べてます? お疲れみたいですけど」

「仕事の合間に簡単に食事は済ませてますよ」

 昼食を食べる時間もないほど忙しいのは、今日だけに限った話ではないのだろう。ここしばらく会えなかったのは、つまりそういうことだ。

「それ、身体は休めてないんじゃないですか……?」

 セルジュはやんわりと苦笑いを零す。苦笑は肯定だ。

 ゆっくり食事する暇もないということは睡眠もろくにとれていないのかもしれない。いつものやさしい微笑みから疲れが滲んでいる。

「……無理はダメですよ? これ、よければどうぞ」

 アンリエットはポケットから飴玉を取り出してセルジュに差し出す。おやつ用にと持ち歩いている秘蔵の飴だ。

「飴ですか?」

「はい。疲れたときには甘いものですから!」

 ついでとばかりにポケットに入っていた残りの飴玉を全部セルジュに押し付ける。とはいえポケットに忍ばせている分なので二、三個しかない。

「ありがとうございます」

 くすくすとセルジュは笑いながら、そのひとつをつまみ上げた。

「あ、今子どもっぽいって思いませんでした!? 食い意地はってるとか」

 ディオンにはよくからかわれるのだ。あの筋肉バカの兄は妹は甘いものですぐに機嫌が治ると思っている。悔しいことにあながち間違ってもいない。

「思ってませんよ。可愛いなぁと思ってました」

 その響きはまるではしゃぎ回る子どもを見守る保護者のようで、アンリエットはじとりとセルジュを見上げた。

「セルジュ様、あたしのことを妹とか何かと思ってません?」

「まさか」

 飴玉をひとつ包装から取り出してセルジュは答えた。はっきりとした返答に、アンリエットは目を丸くした。

 それなら、とアンリエットが口を開きかけたところでその声は遮られた。


「セルジュ!」


 凛とした声にアンリエットは驚いて口を閉じた。その声のするほうへと目を向ければ、金髪の女性がこちらを見ていた。

(う、噂をすれば……!?)

 ちょうどニノンと話していた、第一騎士団唯一の女性騎士である。

 ルイーズ・ロジェ。まだ二十四歳の、おそらくこの国で最も有名な女性騎士だ。女性としてはすらりと背の高い彼女は、目を見張るほどの美人でもあった。

 その容姿に惹かれてアプローチする男性騎士も少なくないが、生半可な気持ちで言い寄ると彼女にこてんぱんにされると有名である。

 セルジュはルイーズの姿に驚くこともなく、アンリエットのように見惚れることもなく、平然と飴を口に放り込む。

「今行きます」

 それじゃあ、と微笑むセルジュの騎士服の裾を、アンリエットは思わず掴んでしまった。

(――あれ?)

 自分でも何故そんなことをしたのかわからなくて目を丸くする。

「アンリエット?」

 セルジュは何か用事があるのだろうとアンリエットを見下ろしてくるけれど、忙しいセルジュを呼び止めるほどの用事などアンリエットにはない。


「え、えっと、あの、リボン!」


 必死で言葉を探して、アンリエットはようやくセルジュに伝えなければいけないことを思い出した。

「リボン、ありがとうございました」

 お礼を言わなければとずっと思っていたくせに、セルジュに会ったらすっかり忘れていた。けれど身体が無意識にセルジュを呼び止めてしまったということは、まるっきり忘れ去っていたわけではないということだろう。

「ああ、どういたしまして。気に入ってくれました?」

「はい。すごく綺麗で、いつもゆっくり眺めてます」

 つける勇気はない、とは言えず本当のことを素直に話した。そうですか、とセルジュの声が少し小さくなったことに気づいて、アンリエットは慌てて手を離した。

「すみません、お礼を言わなきゃと思って呼び止めちゃって。……お気をつけて」

「ありがとうございます。あなたも無理はしないように」

 ぽん、と軽く頭を撫でられる。

 立ち去るセルジュの背を見つめながら、アンリエットはやっぱり妹か何かと思われているんじゃないだろうか。

(……その方が友人って言われるより納得かも。リボンも、兄様が餌付けしてくるのと同じ感じなのかな)

 東屋へと歩きながらそんなことを考えると、チリッと胸が痛む。まだ何も食べていないのに胸焼けだろうか、と思ったが、サンドイッチを食べ始める頃にはその痛みもなくなっていた。


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